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皇帝失格 〜帝国最強の監察官、腐った皇族を廃位する〜  作者: セルヴォア


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10/13

夜間の来訪者

深夜の帝冠監察院別館は、昼とは別の生き物のように静かだった。

昼間は出入りする役人や執行吏の足音で絶えず揺れている廊下も、今は灯火の揺れと紙をめくる音だけが支配している。窓の外では帝都の夜風が低く鳴り、遠くで鐘楼が時を打った。


レオンは執務室の卓に向かい、山積みの文書を一枚ずつ検分していた。

皇太子府の押収帳簿、近衛騎士団の誓約写本、属国から上がってきた嘆願、そして正体不明の支出記録。帝都が揺れるほど、紙の量は増える。だが彼の手は少しも鈍らない。


火の落とされた部屋で、唯一明るいのは卓上の燭台と、文書の端に走る監察用の淡い黒光だった。


そのとき、風向きが変わった。


レオンは紙から視線を上げないまま、左手を卓上の剣へ伸ばす。


次の瞬間、窓硝子が鋭い音を立てて弾けた。


黒い影が、夜そのものを裂くように飛び込んでくる。

細身の刃が月光を一瞬だけ拾い、まっすぐレオンの喉を狙った。


だが、その一撃は届かない。


レオンは椅子を蹴って半身をずらし、断冠剣の鞘で刃筋を逸らした。火花が散る。侵入者は床へ着地する前に身をひねり、二撃目を肋へ滑り込ませる。


速い。

今まで相対したどの貴族の私兵より、どの騎士より、無駄がない。


それでもレオンは、まるで来ると知っていたかのように受けた。


「遅い」


小さく漏れた言葉に、侵入者の動きが一瞬だけ変わる。

驚いたのではない。驚きを殺したのだ。


黒装束の下で動く体はしなやかで、背丈は高くない。顔の下半分を布で覆い、闇と同じ色の短外套が揺れている。女だ、とレオンは一合交えただけで見抜いた。


刃が三度、四度と続く。

首、心臓、膝裏、手首。殺すために最短距離だけを選んだ連撃だ。躊躇のない技術に、長い年月の訓練が染みついている。


レオンは断冠剣を半ばまで抜き、刃ではなく鍔元で攻撃を受け流した。

相手を斬りに行っていない。殺すつもりがないのが、逆に侵入者には不気味だった。


女は距離を切り、次の瞬間には燭台の火を投げ消した。

室内が暗闇へ落ちる。


だが、レオンの動きは止まらない。

闇の中で飛んだ短剣を身を傾けて避け、床板を蹴る音だけで相手の位置を読む。返す剣の腹が黒装束の腕を打ち、女は低く着地して再び窓辺へ跳ねた。


「見えているのか」


初めて声が落ちる。

若い女の声だった。驚きより、計算が狂ったことへの苛立ちが濃い。


「気配が濁らない」


レオンは暗闇の中でも平坦に答えた。


「訓練は完璧だが、殺意だけが多すぎる」


その一言は技量を認めながら、なお欠点を突いていた。

女の刃が再び閃く。今度は真正面からではなく、壁を蹴って天井際から降ってくる。普通の騎士ならまず対応できない角度。


レオンは半歩下がり、剣の柄で相手の手首を打った。

短刀が一つ転がる。

だが女は空いた手で即座に糸を放ち、天井梁へ絡めて身体を返し、回転の勢いで別の刃を振るう。


互角だった。

いや、互角に見えるよう保っているのはレオンの側かもしれないと、女は本能で悟り始める。


「なぜ殺さない」


刃を交えながら問う。


「お前が依頼主ではないからだ」


その返答に、女の呼吸がわずかに乱れた。


次の瞬間、レオンの左手が空を切る。


「帝冠監察、起動」


暗闇が割れた。

黒い文字が室内の空気を縫い、女の身体の周囲へ幾重にも円環を作る。床、壁、窓枠、糸の先にまで古い契約文字が走り、見えなかったものを無理やり可視化していく。


女は反射的に距離を取ろうとした。

だがもう遅い。


彼女の背後に、淡い光で編まれた複数の契約紋が浮かび上がる。

一つではない。二つ、三つ、さらに奥に古びた痕跡。命令系統が絡まり合い、一人の人間を縛る鎖の層になっていた。


レオンの目が細くなる。


「複数依頼か」


空中に可視化された契約の断片には、依頼者側の署名代行記号がいくつもある。

皇太子府由来の古い記号。商会派が好む匿名化刻印。聖務庁の外郭組織で用いられる白印。そして、最も奥に沈む、擦り切れた旧式の王宮封式。


女が初めて、はっきり動揺した。


「やめろ」


「これはお前の意思ではなく、契約の痕跡だ」


レオンは構わず文字を読み取る。


「依頼主は複数。殺害対象は俺だけではない。監察対象の抹消、証拠の回収、将来的な排除予約……よくここまで重ねたな」


女は跳び退こうとしたが、契約文字が足首へ絡み、その一歩をわずかに遅らせた。

そこへレオンが踏み込み、剣の柄で彼女の肩を打つ。女は床へ転がるが、受け身を取ってすぐに膝を立てる。なお戦闘姿勢は崩れない。


月光が割れた窓から差し込み、ようやくその顔を照らした。

黒髪を短く結い、切れ長の目だけが鋭く光っている。年はレオンと同じか、少し下。だがその目には年齢らしい揺れがない。揺れを許されず生きてきた目だった。


「名前は」


女は答えない。


「……答える義理はない」


「義理ではない。確認だ」


レオンは断冠剣を下げないまま言う。


「シェリル・ノクス」


今度こそ女の表情が動いた。

ごくわずかだが、隠しきれない驚きだった。


「暗殺組織《夜鴉》の現頭目候補。複数契約により行動を縛られている」


シェリルは歯を食いしばる。

剣で負けたことより、その内側を見られたことの方が明らかに堪えていた。


「お前は道具か」


レオンの問いは、責める響きを持たなかった。

だからこそ、シェリルは答えられない。


沈黙が落ちる。

それは否定ではなく、彼女の人生そのものだった。

いつ命じられ、誰を殺し、どこへ消えるか。自分で決めたことがどれほどあったのか、いまさら分からない。


レオンは再び契約の奥層へ目を向けた。

古い封式の一部が、そこでわずかに軋んでいる。


「……聖務庁からの依頼がある」


シェリルの肩が硬直する。


「さらに古い。十年以上前の予約契約」


王宮式の署名代行印を読んだ瞬間、レオンの声がほんの少し低くなる。


「ルドルフ時代だな」


室内の空気が変わった。

シェリルは何も言わない。だが、その沈黙がむしろ肯定に近い。


若き日のレオンの排除を、誰かがずっと前から準備していた。

しかもそれが、皇帝の代にまで遡る。


外廊下から足音が迫る。

異変を察知した執行吏と、ラヴィニアが駆けつけてきたのだろう。


シェリルは最後の抵抗として短刀を逆手に握り直す。

だが、レオンの視線は変わらない。


「死ぬな」


命令でも慈悲でもない、妙に平坦な言葉だった。


「お前からはまだ、帝国の腐敗が出る」


シェリルはその言葉の意味を測りきれないまま、次の瞬間、窓際からなだれ込んだラヴィニアたちに包囲された。


彼女はもう逃げられない。

それでも不思議と、いま初めて自分が「捕らえられた」というより、「止められた」と感じていた。

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