皇女の監察
帝冠監察院の謁見室は、法廷ほど広くはない。
だが、その静けさはもっと容赦がなかった。飾り立てるための豪奢はなく、古い法典、記録卓、監察紋を刻んだ床石だけが整然と置かれている。ここでは身分ではなく、記録だけが人を支える。
その中央に、アリシアは立っていた。
私室での非公式な対話ではなく、正式な監察としてここへ来るのは初めてだった。立場上、彼女は第一皇女であり皇帝候補であり、そして今この瞬間はただの監察対象でもある。
ラヴィニアが後方に控える。
護衛でありながら、主君を守ることのできない場だと分かっていた。ここで守れるのは剣ではなく、主君が揺れずに立ち続けることだけだ。
レオンは書面を整え、淡々と告げる。
「第一皇女アリシア・ヴァルガストに対する本監察を開始します」
形式的な宣言なのに、空気がひどく冷えた。
「私財目録、侍従管理簿、贈与記録、属州からの献上品目録、皇女宮経理写本」
一つずつ読み上げられるたび、アリシアの前へ文書束が置かれていく。
どれも見覚えがある。だが、自分が日常として処理してきたものが、こうして「監察対象」として積み上がると重さが違った。
「ずいぶん徹底的ね」
「当然です」
レオンは一切の含みなく答える。
「皇帝候補の透明性は、帝国の基準になります」
その物言いに、アリシアは内心で苦笑した。
褒めているのでも期待しているのでもない。ただ基準として扱っているだけだ。
けれど、その冷たさにこそ救いがあった。
監察が始まる。
黒い光が文書の端をなぞり、私的贈与と公的配分の線引き、会計処理の流れ、侍従を経由した品の移動まで可視化していく。
部屋の中央に、金貨、宝飾、土地権利書、絹織物、そして属州産の希少香油の取引経路が立体的な線で浮かび上がった。
「……見世物ね」
アリシアが低く呟く。
「監察です」
レオンは訂正した。
だが、実際ほとんど同じだった。
皇女の私的領域が、帝国の目の前へ引きずり出されている。彼女が何を持ち、どう受け取り、何を見逃してきたかが、白日の下に晒される。
線の一本が赤く変わった。
ラヴィニアが息を呑む。
レオンの視線もそこへ止まる。
「皇女宮の冬季配給用予備資金から流用された装飾費」
書面の一枚が浮かび、金額が強調される。
大きな額ではない。だが、確かに帝国公費の一部が、皇女私室の改装と接待装飾へ回っていた。
アリシアの眉がわずかに寄る。
「それは、会計官の裁量で」
言いかけて、止まる。
言い訳になると自分で分かったからだ。知らなかったとしても、監督責任は消えない。
レオンが続ける。
「属州より献上された薬用香油のうち、一部が皇女私用として処理されています。本来は医療備蓄へ回るべき品目です」
また別の線が赤く染まる。
軽微だ。だが、軽微であることと無罪であることは別だ。
謁見室の空気は静まり返っていた。
アリシアは自分の鼓動を妙にはっきり感じる。
完璧ではないと口では言ってきた。だが、本当に瑕疵が見つかった瞬間の痛みは、言葉よりずっと生々しい。
「罪状としては軽微です」
レオンは事務的にまとめる。
「ただし、帝国から不当に得た便益であることに変わりはない」
アリシアはまっすぐ彼を見る。
「処分は」
「返納」
一拍。
「全額と、相当分の付加返納を命じます」
軽い。
だが、軽いからこそ誤魔化せない処分だった。失格に値しないから見逃すのではなく、軽微なものでも返させる。その線引きが極めて冷徹で、公平だ。
アリシアは迷わなかった。
「分かったわ。返納する」
ラヴィニアが思わず目を上げる。
もっと確認や抗弁があるかと思ったのだろう。だがアリシアは続けた。
「知らなかった、で済ませる気はない。私の宮で起きたことなら、私の責任よ」
その声は静かで、余計な飾りがなかった。
レオンは書記官へ視線を送り、記録を取らせる。
「即日執行でよろしいですね」
「ええ」
「私財からではなく、皇女宮名義の全資産から差し引きます」
「構わないわ」
返答のたび、室内の空気が変わっていく。
清廉だからではない。瑕疵を認め、責任を引き受けるからだ。そこに、貴族たちのいつもの逃げ道がない。
監察が終わる頃には、その結果はすでに廊下の外へ漏れ始めていた。
帝冠監察院は秘密を墓場まで持っていく場ではない。帝国の秩序に関わる以上、必要な範囲で公開される。
午後には広場へ伝わる。
「皇女殿下にも不正があったらしいぞ」
「失格か?」
「いや、返納だ。隠さなかった」
「本当に返したのか?」
「その場で認めたってよ」
噂は早い。
そして思った以上に、民衆はそれを失点として受け取らなかった。
「やっぱり違うな」
「貴族ってのは普通、知らぬ存ぜぬだろ」
「皇女は逃げなかった」
「なら信じられる」
アリシアはその声を、監察院の窓越しに聞いていた。
罵声が飛ぶかもしれないと覚悟していた。だが実際に広がったのは、清廉というより透明性への信頼だった。
「妙なものね」
彼女は窓の外を見たまま言う。
「欠点が見つかったのに、前より支持が増えるなんて」
後ろで書類を閉じる音がする。
レオンだ。
「責任を受け入れる者は少ない」
「褒めてるの?」
「事実です」
相変わらずだった。
だが、その相変わらずさにアリシアの胸は妙に落ち着く。
彼がもし、ここで優しく労ったり、皇女だからと遠回しにしたりしたら、たぶん自分は怒っていただろう。
この男が変わらないから、自分も変わらずに立てる。
その認識と同時に、胸の奥に別の熱があるのを自覚する。
敬意だけではない。信頼だけでもない。
もっと個人的で、もっと危うい何か。
レオンが記録をまとめる横顔を、アリシアは無意識に見つめていた。
黒髪、灰色の瞳、感情を無駄に動かさない横顔。自分を救わず、甘やかさず、それでも正しく量る男。
「どうしました」
不意に問われ、アリシアは我に返る。
「……いいえ」
少しだけ視線を逸らす。
「あなたは本当に、面倒な男だと思っただけよ」
レオンは意味を深く取らずに頷く。
「承知しました」
その鈍さに、アリシアはかえって救われるような、もどかしいような気持ちになる。
危険だ、と心のどこかが警告していた。これ以上この男への感情が深まれば、いつか監察対象としての冷静さを失うかもしれない。
それでも、もう何も感じないふりはできなかった。
窓の外では、民衆がなおも皇女の名を呼んでいた。
その支持の上に立ちながら、アリシアは自分の胸の内に芽吹き始めた別の感情を、初めてはっきりと認識し始めていた。




