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  作者: しゅう


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95/112

Hotel California 3

どれほどの時間が過ぎたのだろうか。

大広間に満ちていた黄金の光は、いつの間にか、腐敗した澱のような薄暗い灰色へと変色していた。あんなに賑やかだった美しい住人たちの笑い声も、いまや古びた蓄音機が溝を外れた時のような、不快なノイズに成り果てている。

ジャック・ミラーは、銀の皿の上に横たわっていた「自らの理性」という名の残骸を見つめていた。その抜け殻は、もはや光子の塵となって霧散し、ただそこには空っぽの、冷たい銀の器が残されているだけだった。

「私は……何をしている?」

その呟きが、沈黙を呪いのように切り裂いた。

指先に残る鋼鉄のナイフの感触が、急激に熱を持ち始める。ジャックは悲鳴を上げてナイフを放り出した。床に落ちた金属音が、鏡の天井に跳ね返り、無数の叫び声となって彼を襲う。

その瞬間、彼の脳裏を支配していたピンク・シャンパンの陶酔が、急速に引いていった。代わりに襲ってきたのは、全身を構成する粒子がバラバラにほどけ、この館の壁紙や床に吸い込まれていくという、凄まじい「個の消失」への恐怖だった。

逃げなければならない。

ジャックは椅子を蹴り飛ばし、大広間から飛び出した。

しかし、彼を待ち受けていたのは、さっきまで通ってきたはずの優雅な廊下ではなかった。

そこには、物理的な法則を完全に無視し、ねじれ、折れ曲がり、無限に増殖し続ける四次元的な回廊が広がっていた。壁には無数の鏡が並び、それらが互いを映し合うことで、無限の奥行きを持つ光の監獄を構築している。

 

「入り口はどこだ! 樫の扉はどこにある!」

ジャックは叫びながら走り出した。

足元のペルシャ絨毯は、一歩踏み出すたびに底なしの沼のように深く沈み込み、彼の足首を掴んで離さない。壁の漆喰からは、かつてここに囚われた者たちの無数の指先が突き出し、彼の服を、そして生身の皮膚を執拗に手繰り寄せようとする。

壁の肖像画たちは、もはや優雅な貴婦人や紳士ではなく、皮膚が光子に焼けただれ、骨が見え隠れする「かつての観測者たち」の無残な姿を晒していた。彼らの瞳は一斉にジャックを追い、音のない声で嘲笑う。

 

右へ曲がれば、そこには血の色をした噴水の中庭があった。

左へ曲がれば、そこには先ほどまで座っていた大広間の、ナイフの傷跡だらけのテーブルがあった。

何度走り直しても、どれほど速度を上げても、空間は重力という概念を失ったゴムのように伸び縮みし、彼を元の場所へと引き戻す。ジャックが信じてきたニュートン力学も、アインシュタインの相対性理論も、この館を支配する「欲望による空間の湾曲」の前では、紙屑ほどの価値も持たなかった。

「落ち着け……これは光による干渉縞だ。脳が見せている幻覚に過ぎない」

彼は自分に言い聞かせ、壁に手を突きながら進んだ。しかし、その掌に伝わってくる漆喰の感触は、あろうことか規則正しい心臓の鼓動を刻んでいた。壁そのものが呼吸し、脈動している。このホテルそのものが、巨大な捕食動物の胃袋の中であるかのような、ねっとりとした生命の脈動。

 

不意に、通路の突き当たり、最も深い闇が溜まっている場所に、一人の男が立っているのが見えた。

それは、案内人の女ではなかった。

古びた制服を纏い、顔の半分が影に溶け込んだ男――「夜のナイト・マン」が、静かにジャックを見据えていた。彼は、この場所で唯一、光子に焼かれることなく、重苦しい「現実の重み」を背負っているように見えた。

「お願いだ、出口を教えてくれ! 外へ、あの乾燥した砂漠へ戻りたいんだ!」

ジャックは男の肩を掴もうとした。しかし、彼の手は男の体を通り抜け、ただ冷たい霧に触れたような、絶対的な虚無の感覚だけが残った。

男は、表情一つ変えずに、地の底から響くような掠れた声で答えた。

「落ち着きなさい、旅人さん。我々はこの場所の番人に過ぎない」

「番人だと? 誰の許可を得て、私を閉じ込めている!」

「閉じ込めてなどいない。扉は常に開いている」

男は、背後のどこまでも続く暗闇を指差した。

「だが、覚えておきなさい。このホテルのプログラムは、一度起動すれば止めることはできない。我々はただ、受け入れるようにのみ訓練されているのだ。ここへ来るすべての欲望を、すべての罪を、そしてすべての光を」

「ふざけるな! 私は観測者だ! 被写体ではない!」

ジャックは男を突き飛ばし、再び走り始めた。しかし、突き飛ばした感触は、肉体のそれではなく、高電圧のプラズマを素手で掴んだような、激しい痺れと焦燥を彼に残した。

視界の端で、助手席に置いてきたはずの光子観測装置が、虚空に浮いているのが見えた。装置は真っ赤に焼けて溶け落ち、その内部回路はドロドロとした銀色の液体となって滴り落ちている。液晶画面には「ERROR: NO WAY OUT」という文字が、絶望的な心拍音と共に、網膜を焼くような鮮烈な赤色で点滅し続けている。もはや、客観的なデータなどこの世には存在しない。あるのは、この館が一方的に押し付けてくる「主観」という名の暴力だけだった。

鏡の天井から、巨大なシャンデリアが生き物のように降りてきた。それはもはや照明器具ではなく、無数の鋭利な牙を持つ光の捕食者のように見えた。クリスタルの破片がジャックの頬を深く切り裂き、鋭い痛みが走る。しかし、流れた血は床に落ちる前に黄金色の光子へと蒸発し、傷口からは血の代わりに淡い桃色の光が溢れ出した。肉体の損傷さえも、この館は「装飾の一部」として吸収し、彼を塗り替えていく。

 

「帰り道……元の場所へ戻る道を探さなければ……」

 

ジャックは、記憶の底にある「砂漠の匂い」を必死に手繰り寄せた。

あの肌を刺す砂風。喉を焼く渇き。すべてを拒絶する、あの無慈悲で誠実な闇。

ここにある偽りの救済よりも、あの過酷な現実の方が、どれほど自分という人間を、その輪郭を定義してくれていたことか。

 

彼は狂ったように廊下を走り続け、やがて突き当たりの大きな窓を見つけた。

窓の外には、カマロを止めたはずのハイウェイが見える。

しかし、その景色はあまりにも遠く、まるで見ているこちら側が潜水艦の底から、決して届かない海面を眺めているような、絶望的な距離感があった。さらに恐ろしいことに、ハイウェイを走る車の光は、過去の自分が見ていた光ではなく、今まさにこの館が放っている、あの毒々しい色彩そのものに塗りつぶされていた。外の世界さえも、この特異点に呑み込まれ、変換され始めているのだ。

「あそこに……あそこに戻れば、私は私でいられる」

 

ジャックは窓枠に手をかけ、指先が折れるほどの力任せに引き開けようとした。

だが、窓に映った自分の顔を見て、彼は魂の底から絶叫した。

 

そこに映っていたのは、三十年間積み上げてきた知性を持つ物理学者、ジャック・ミラーではなかった。

瞳には冷徹なダイヤモンドの結晶が埋め込まれ、皮膚は滑らかな漆喰のような質感を帯び、あるいは宝石のような硬質な鉱物へと変貌しつつあった。口を動かそうとするたび、言葉の代わりにピンク・シャンパンの気泡が、自意識の残骸を吐き出すかのように絶え間なく溢れ出してくる。鏡の中にいたのは、あの「美しい住人たち」の一人になり果てた、言葉を持たぬ異形の偶像だった。

 

「違う……これは私じゃない! 私を返せ!」

背後から、数え切れないほどの足音が近づいてくる。

美しい人々、宝石の女、案内人の女、そして夜の男。

彼らは一様に、あの晩餐会で使っていた鋼鉄のナイフを手に持ち、優雅な、しかし抗いがたい力でジャックを取り囲んでいく。彼らの影が複雑に重なり合い、鏡の天井に巨大な黒い太陽を描き出し、ジャックをじわじわと圧殺しようとする。

「リラックスしてください、ジャック」

「いつでもチェックアウト(精算)はできますよ。あなたの全存在を支払えばいい」

「手続きは簡単です。ただ、あなたの不快な『観測』を終わらせ、こちら側の風景になればいいだけ」

彼らの声は、鏡の天井に反響し、もはや誰が喋っているのかも、それが自分自身の脳内で反響しているのかも判別がつかない。

ジャックは窓ガラスを、もはや感覚の失せた拳で叩き割ろうとした。しかし、ガラスは液状化した鏡のように不気味にうねり、彼の拳を優しく、そして逃れられぬ強引さで包み込んで飲み込んでいった。

空間が、ゆっくりと裏返る。

ジャックの耳に、最後に聞こえたのは、あの砂漠で鳴っていたはずの不気味なドラムの音――いや、それは止まることのない、ホテル・カリフォルニアという巨大な肉食獣の、重く、確実な心臓の音だった。

彼の意識は、最後のひとかけらまで、虹色の干渉縞の中に溶け落ちていった。

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