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  作者: しゅう


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Hotel California 4

静寂が、不意に訪れた。

狂ったようなシャンデリアの咆哮も、鏡の壁を叩く自分の拳の音も、背後から迫る住人たちの足音も、すべてが真空に吸い込まれたかのように消え去った。

ジャック・ミラーが、恐る恐る目を開けると、そこには彼がよく知る光景が広がっていた。

「……カマロの中か?」

彼はハンドルの感触を確かめた。指先には確かに1969年製シボレーの、使い古されたレザーの質感が戻っている。窓の外を見れば、そこには見渡す限りの暗い砂漠と、地平線を貫く一本のハイウェイがあった。

すべては、あの強烈な乾燥と孤独が見せた、一時の白昼夢だったのか。物理学者として、極限状態での脳の機能不全を体験したに過ぎないのか。

ジャックは安堵のため息を漏らし、助手席にあるはずの観測装置へ手を伸ばした。

しかし、彼が触れたのは、冷たく硬質な「銀の皿」だった。

 

その感触が脳を焼くような不協和音となり、視界が音を立てて剥落していく。

カマロの運転席に見えたものは、精巧なホログラムのように掻き消え、彼が立っていたのは、やはりあのホテルの、出口のないロビーの真ん中だった。ロビーの空気は、彼を歓迎するように、再びあの重苦しい薔薇の香りと、腐敗した甘い果実の匂いで満たされていく。

目の前には、案内人の女が静かに立っていた。彼女の手には、先ほどまで持っていたキャンドルではなく、一枚の厚い羊皮紙と、黄金の羽ペンが握られていた。

「チェックアウトのお時間です、旅人さん」

彼女の声は、慈愛に満ちた死神の囁きのようだった。

ジャックは震える手でその紙を受け取った。そこには、彼がこのホテルで費やした「時間」と、彼が失った「質量」の対価が、理解不能な数式と幾何学模様で記されていた。

精算すべき項目には、彼の学歴、研究成果、愛車の名前、故郷の風景、そして彼を「ジャック」と呼ぶ誰かの温かな記憶――それらすべてが、光子の単位へと換算されていた。

「これを……支払えば、私は外へ出られるのか?」

「ええ。いつでもチェックアウト(支払い)は自由です。ここは、お客様の意志を最も尊重する場所ですから」

ジャックは、崩壊しつつある理性の最後の一片を振り絞って羽ペンを握った。この契約書に署名さえすれば、自分はあの過酷で、しかし愛おしい、砂を噛むような現実へと戻れるのだと自分に言い聞かせた。

彼は自らの名を書き記した。その瞬間、彼の指先から「名前」という概念が目に見える光の糸となって吸い取られ、文字が黄金色の炎を放って紙面に定着していく。それと同時に、彼の心の中にあった「自分」という重みが、一気に消失していった。

 

署名を終えた瞬間、館の重厚な樫の扉が、今度こそ音を立てて開いた。

外からは、懐かしい砂漠の夜風が吹き込んできた。ジャックは狂喜し、光り輝くロビーを飛び出し、暗闇の中へと駆け出した。

 

「さらばだ、ホテル・カリフォルニア!」

 

彼は叫びながら、ハイウェイを西へと走った。

だが、いくら走っても、一向に息が切れない。心臓の鼓動も感じない。足元を見れば、自分の足はアスファルトを蹴っているのではなく、鏡のような光の波紋を蹴り続けていた。

ふと、彼は立ち止まり、夜空を見上げた。

そこには星などなかった。

巨大な、果てしない、全方位を覆い尽くす「鏡の天井」が、砂漠の全域をドーム状に覆い尽くしていた。

 

彼は気づいてしまった。

自分が「チェックアウト」したのは、ロビーという物理的な小部屋からであって、ホテル・カリフォルニアという「歪んだ事象の地平線」の内側からではなかったのだということを。

彼が支払ったのは、外の世界へ戻るための通行料ではなく、自分自身をこの館の「動く風景」として恒久的に固定するための、存在そのものの権利だった。

 

「……決して、立ち去れない」

 

その言葉が、熱を帯びた砂漠の風となって彼の全身を吹き抜けた。その風に触れた途端、彼の肉体は砂のようにさらさらと崩れ、再びあのホテルのロビーへと再構築されていく。

 

同時刻。現実の1976年、カリフォルニア。

夜明けの薄明かりの中、パトロール中のハイウェイ・パトロールが、路肩に不自然に止まった一台のカマロを発見した。

車内は無人。エンジンは冷え切り、窓は全開。

助手席には、原形を留めないほどに溶解し、ぐにゃりと曲がった高価な光子観測装置が転がっていた。それは異常な高熱を放った形跡があるにもかかわらず、周囲のシートやビニールには焦げ跡一つついていない。まるで、装置の内部にある情報エネルギーだけが、別の宇宙へと吸い取られたかのような、科学では説明のつかない不気味な損傷だった。

 

行方不明ミッシングか……」

警官は無線を入れながら、ふと車内のバックミラーを覗き込んだ。

そこには、朝焼けの砂漠とは不釣り合いな、豪華なシャンデリアの光が一瞬だけ反射したように見えたが、彼はそれを疲労による幻覚だと片付け、ミラーの角度を変えた。

ホテルの中では、新たな一日が始まろうとしていた。

ジャック・ミラー、いや、かつてそう呼ばれていた「光の結晶」は、今やロビーの窓辺に立ち、外の世界をうつろに見つめる「美しい住人」の一人となっていた。

彼の瞳はもはや観測装置を必要としない。彼自身の瞳が、この迷宮を照らし出す冷たい光そのものへと変質していたからだ。

 

遠くで、再び不吉な鐘の音が響き渡る。

 

「いらっしゃい、旅人さん」

 

ジャックは、窓の外を走る一台の車のライトを見つめ、優雅に、しかし感情の消えた表情で微笑んだ。

その車の助手席には、また新しい、真実を求めて彷徨う奇妙な計器を抱えた男が座っている。

 

ここは、すべてを粒子へと分解し、無へと還そうとする圧倒的な乾燥と、沈黙に支配された場所。

そして、一度足を踏み入れれば、自らが檻の一部となって永遠に終わりなき滑走路を走り続けることになる、黄金の監獄。

 

ジャックは、手にしたクリスタル・グラスの中で踊る、ピンク・シャンパンの気泡を見つめていた。その気泡の一つひとつが、彼がかつて愛した家族や、科学への情熱、そして1969年のあの青い空の断片であることを、彼はもう二度と思い出すことはできない。

 

光の迷宮は、今日も静かに、次の「旅人」が扉を叩くのを待っている。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。

本作『Hotel California』は、これにて完結となります。


本作の着想は、古代の叡智である「カタカムナ第25首」から得たものでした。

この首の響きに初めて触れたとき、私の内側には不思議と「Hotel California」の旋律が重なって響きました。

それは前作『Imagine』の余韻に導かれたものだったのか、あるいは、この首が説く「微粒子を変換させる根源」ということわりが、あの名曲の持つ「逃れられない磁場」と通じ合っていたからなのかもしれません。

私の中に湧き上がったその直感的な衝動を、物理学者ジャック・ミラーの観測記録という形で物語に封じ込めました。



【読者の皆様へ】

本作を読み終えた皆様の率直な感想を、今後の糧とさせていただきたく存じます。

以下の5段階評価、および印象に残った場面などをお聞かせいただけますと幸いです。

評価:★ 〜 ★★★★★

お気に入りのシーンや、特に心に残った一節など

皆様からの声が、また新たな「観測」の種となります。感想を心よりお待ちしております。

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