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  作者: しゅう


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91/112

Imagine 3

明治三十四年の初夏。帝都・東京を包む風は、かつての維新の熱をすっかり忘れ去ったかのように、どこか冷淡で、乾いた砂の匂いが混じっていた。

街には電柱が蜘蛛の巣のように張り巡らされ、文明開化という名の「整理整頓」が行き届き始めていた。かつての混迷した情熱は姿を消し、人々はもはや、目に見える境界線の有無に怯えることはなくなった。代わりに彼らは、より巧妙で、より孤独な新しい「線」に夢中になっていた。それは、銀行通帳に刻まれる数字の多寡であり、地券に記された領地の境界であり、あるいは肩書きや血統といった、誰が何を「持っているか」という、執拗なまでの所有の証明だった。

 

「ハルさん、あの時と……何も変わっていないようで、何かが決定的に変わってしまったわね。街の色彩が、なんだか硬くなっている」

 

僕の隣を歩くミナが、かつてよりも少しだけ大人びた、寂しげな声を漏らした。彼女の手には、いまだに色褪せない画筆が握られている。けれど、彼女が描こうとする「境界線のない、混ざり合う絵」を、今の日本が必要としているようには見えなかった。人々は「自分のもの」を増やすことに汲々とし、世界という巨大な波動から、自らを所有という名の小さな、硬い粒子へと閉じ込めているように見えた。

 

僕たちは、大阪の片隅、埃っぽい路地の奥にある静まり返った借家の前に立っていた。

そこには、かつての咆哮を忘れ去ったかのような、一人の老人が横たわっていた。

中江兆民。

かつて「東洋のルソー」と恐れられ、その鋭利な言葉の刃で国家の境界を揺るがした男は、今、喉頭癌という冷酷な病魔に喉を焼かれ、自らの肉体という最後の砦すら失おうとしていた。

 

「……来たか、陽。そしてミナ君。少し、遅かったじゃないか」

 

掠れた、今にも消えそうな、風の鳴るような声。かつて印刷所の闇を切り裂き、役人たちの心胆を寒からしめたあの質量のある声は、もうどこにもなかった。

兆民先生は、畳の上に散乱した膨大な原稿用紙――後に『一年有半』『続一年有半』と呼ばれることになる、命を削り出した遺稿の山の中から、力なく、しかし射抜くような眼光で僕たちを見上げた。

僕は、あの頃から肌身離さず持っていた、傷だらけの硝子板を差し出した。そして、ジョンの詩の、最も過酷で、最も美しい、この世の執着を断ち切るための一節を、彼の枕元で静かに、祈るように読み上げた。

 

 Imagine no possessions.

 I wonder if you can.

 No need for greed or hunger.

 A brotherhood of man.

 

 所有するものなど何もないと、想像してごらん。

 君にそれができるかな。

 強欲も飢えも必要なくなり、

 人はみんな、兄弟になれる。

 

「所有……か。ふふ、ジョンという男は、死ぬ間際の私にまで、こんな難題を突きつける」

 

兆民先生は、喉を通り抜ける呼吸のたびに走る激痛に顔を歪めながらも、その瞳の奥にだけは、あの若き日の、世界のことわりを暴こうとした青い炎を宿していた。

 

「いいか、陽。人は生まれる時、何一つ持たずに、真っ白な波動としてこの世に現れる。だが、生きていくうちに、名誉だの、家財だの、家柄だの、国籍だのという『余計な粒子』を自分の周りにべたべたとくっつけ始め、いつしかそれを自分そのものだと思い込む。それが、あらゆる不幸の始まりだ。自分が何かを所有していると信じた瞬間、人は、その所有物を失う恐怖という、目に見えない檻に一生囚われるのだよ。金も、土地も、そしてこの命さえな」

 

兆民先生は、震える指で自らの痩せ細り、骨が浮き出た喉を指差した。

 

「今、私の肉体は、崩壊しつつある。喉は声を失い、細胞は一つひとつ、個としての形を維持するのを止め、世界という『無』の海へ還ろうとしている。世の医者はこれを『死』と呼び、悲惨な最後だと言う。だが、陽、私にとっては違う。これは、これまで私を縛り付けてきたあらゆる境界線からの、最後にして最大の解放なのだよ。自分という強固な粒子であることを止め、ようやく一つの広大な波動に戻るための、喜ばしいプロセスなのだ」

 

僕は、先生の枕元に置かれた硝子板に、午後の柔らかな光が差し込むのを見つめていた。

光は、そこに硝子という物質があることさえ忘れさせるほど、透明に透過し、拡散し、周囲の景色と溶け合っている。

 

「先生、でも……」ミナが、震える声で言った。「人は何かを所有せずにはいられない。愛する人、守るべき約束、命をかけて描くべき色彩。それら全てを『持っていない』と手放してしまったら、僕たちは、ただの虚空になってしまう……」

 

ミナの問いに、兆民先生は力なく、しかし優しく首を振った。

 

「ミナ君。君の筆が描き出すあの奇跡のような色彩は、君が『所有』しているものか? 違うだろう。それは、君という個体を通り抜けて、この世界が自らを表現しようとしている現象そのものだ。愛も、思想も、この物理の理も同じだ。それらが誰かの独占物、つまり所有物になった瞬間、それは必ず腐敗し、分断と戦争の道具に成り下がる。だが、それを誰のものでもない『流れる波』として捉え、誰とでも共有できる光として放てば、そこには強欲も、奪い合いによる飢えも存在しなくなる。ジョンが言った『人類の兄弟愛』とは、互いに何かを分け与えることではない。最初から誰も何も持っていないこと、ただ一つの全体の一部であることを、互いに認め合うことなのだよ」

 

兆民先生は、枕元の古びた水差しから水を一口飲み、肺の底から絞り出すような激しい咳に襲われた。その呼吸の合間に漏れる喘ぎは、まるで冬の波打ち際で砕け、消えていく波紋の残響のように聞こえた。

 

 Imagine all the people sharing all the world.

 

 すべての人々が、世界を分かち合っていると想像してごらん。

 

「陽よ。君の学んだ自然哲学で言えば、質量とはエネルギーの凝縮された一つの形態に過ぎないのだろう? 粒子とは、波が一時的な条件によってそこに固まって見えているだけの、かりそめの幻に過ぎないのだろう? ならば、所有とは、その束の間の幻に名前をつけ、永遠に閉じ込めようとする、滑稽で虚しい人間の足掻きだ。いいか、この『一年有半』という短い余生で、私は私という粒子を完全に解体し、言葉という不滅の波に変換してみせる。私の死後、墓を建てるな、骨を拾う必要もない。私の言葉が、誰かの心という空で響き続け、境界線を溶かし続けるなら、それこそが私の真実なのだから」

 

その夜、大阪の街を激しい嵐が訪れた。

叩きつけるような雨音が古い屋根を揺らし、荒れ狂う風が窓を激しく叩く。

僕は暗闇の中で、行灯の心もとない灯りを頼りに、兆民先生の途切れがちな呼吸を数えていた。

一つひとつの息が、少しずつ長く、少しずつ浅くなっていく。

それは、広大な母なる海へ戻ろうとする波が、名残惜しそうに砂浜をゆっくりと離れていく、静謐な光景そのものだった。

 

 You may say I'm a dreamer.

 But I'm not the only one.

 

「夢想家だと言うかもしれない。けれど、私は一人じゃない」

 

兆民先生は、夜明け前の静寂の中で、最後の力を振り絞ってそう囁いた。

その声はもはや喉という器官から発せられたものではなく、この部屋を満たす空気そのものが、あるいは窓の外の嵐そのものが、兆民という魂と共鳴して振動しているように聞こえた。

 

「陽、ミナ君……。所有を捨てろ。自分という殻を捨てろ。そうすれば、君たちは初めて、この世界のすべてを手に入れる。ジョンという男の詩……あの……一なる……」

 

言葉は、そこで永遠に途切れた。

けれど、その後に訪れた深い静寂の中に響く余韻は、どんな長大な演説よりも雄弁に、所有なき豊かな世界の到来を物語っていた。

 

夜明け。嵐が嘘のように上がり、雲の裂け目から差し込んだ神々しいまでの光が、兆民先生の穏やかな亡骸の上に降り注いだ。

そこには、一人の偉大な思想家の死体があったわけではない。

ただ、この世界での不自由な役割を終え、自由という名の広大な波へ還っていった「存在の美しい痕跡」があるだけだった。

 

僕たちは、先生から一銭の遺産も、一枚の土地も、何一つ受け取らなかった。

けれど、僕たちの胸の奥には、兆民先生から手渡された、この世界そのものを慈しみ、分かち合うための「無限の空」がどこまでも広がっていた。


僕たちは、兆民先生という「この世界で最も大切にしていた所有物」を失うことで、皮肉にも、ジョンの詩が指し示した、境界のない、誰もがすべてを分かち合える世界へと、決定的な一歩を踏み出したのだ。


 すべての粒子が解け、あらゆる波動が一つに重なり合う、あの伝説の地平へ。

 

 And the world will live as one.

 

 そして、世界は一つに生きるのだから。

読んでいただきありがとうございます。

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