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  作者: しゅう


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92/112

Imagine 4

兆民先生が、自らという「粒子」を解体し、広大な波動の海へと還っていってから、数年の月日が流れた。

時代は僕たちの想像をはるかに超える速度で、より硬く、より鋭利な形へと硬直していった。明治三十七年。日露戦争の開戦とともに、帝都・東京は異様な興奮と、張り詰めた殺気に覆われていた。街のいたるところで日の丸が狂ったように振られ、軍歌が鼓膜を突き、新聞は「敵」を殲滅せよという勇ましい、しかし血の通わない言葉を書き連ねている。

かつて兆民先生が「自由」を説いたこの街で、人々は今、かつてないほど強く「日本国民」という強固な境界線の中に自らを閉じ込めようとしていた。その線の外側にいる者たちを、自分たちと同じ呼吸をする人間としてではなく、ただ排除し、殺すべき「記号」として観測していた。

 

「ハルさん、見て。空の色まで、戦火に染まろうとしているわ。あの美しい干渉縞さえ、もう誰の目にも映らないのかもしれない」

 

ミナが、絵具の汚れが肌の奥まで染み込んだ手で、赤黒く焼けつくような西の空を指差した。

僕たちは今、かつて逃げ出した麹町の、あの古びた長屋の屋根の上に立っていた。眼下に広がる街並みは、瓦斯灯から無機質な電灯の光へと変わり、情緒ある馬車の音は路面電車の暴力的な地響きへと取って代わられた。けれど、僕の胸元にあるあの傷だらけの硝子板と、もはや文字が掠れ、ボロボロになったジョンの詩の和紙だけは、あの頃と変わらぬ不思議な体温を持ってそこにあった。

 

僕は震える指で和紙をなぞり、最後の一節を、自分自身を鼓舞するように口ずさんだ。

 

 Imagine all the people sharing all the world.

 You may say I'm a dreamer.

 But I'm not the only one.

 I hope someday you'll join us.

 And the world will be as one.

 

 すべての人々が、世界を分かち合っていると想像してごらん。

 夢想家だと言うかもしれない。

 けれど、僕は一人じゃない。

 いつの日か、君も仲間になってほしい。

 そうすれば、世界はついに一つになるのだから。

 

「ミナ、兆民先生が最期に言っていた『無』の正体が、今なら、この狂った時代の真ん中にいるからこそわかる気がするんだ」

 

僕は、硝子板を夕陽の残光にかざした。スリットを抜けた光が、戦意に沸き、個性を失った帝都の屋根瓦の上に、それでも変わらぬ繊細な干渉縞を描き出す。物理の法則だけは、国家の都合にも、戦争の怒号にも、決して屈することはない。

 

「この世界にある全ての争いは、『自分はこれを持っている』『自分はあの連中とは違う特権的な粒子だ』という、人間の身勝手で幼稚な観測が生み出した幻に過ぎないんだ。けれど、この光が示す真実は、その正反対だ。すべては重なり合い、互いに影響し合い、分かちがたく結びついた、たった一つの巨大な波動なんだよ。僕たちが『私』という所有の檻を捨て、『国籍』という虚妄の境界線を消し、ただの空の一部として存在する勇気を持つなら……そこには最初から、憎むべき相手なんて、殺すべき『敵』なんて、一人もいなかったんだ」

 

ミナは、何も言わずに巨大な画巻を広げた。そこには、彼女がこれまでの過酷な旅路で出逢い、心に刻んできたすべての「光」が描かれていた。長崎で笑い合っていた異国の商人たちの瞳、兆民先生が最期に見せたあの澄み切った眼光、印刷所で言葉の波動を紡ぎ出していた職人たちの汗、そして大阪の夜明けに溶けていった先生の魂。それらすべての色彩が、もはや境界線を失って、互いの領域を侵食し合い、一つの巨大な、目も眩むような「光の渦」となってキャンバスの上でうねっていた。

それは、もはや「錦絵」という古い枠組みを完全に破壊し、見る者の魂の深層に直接語りかける「祈り」の結晶だった。

 

「私は描き続けるわ、ハルさん。たとえこの狂った時代が、私の絵を焼き捨て、私の声を奪おうとしても。百年後、あるいはもっと先の未来、誰かがこの絵を見たとき、そこに『自分と他人の区別がない、一なる世界の美しさ』を見つけてくれるなら……。ジョンの詩が、時を超えて私たちの元へ届いたように、私たちの振動も、必ず未来の誰かの胸を震わせると信じているから」

 

その時、街の向こう側から、出征兵士を送り出す、何万もの群衆による「万歳」の叫びが、地鳴りのように響いてきた。続けて、遠い演習場から届く大砲の重い音が、空気を不吉に揺らす。

それは、強固な粒子であることを誇り、その硬さで他者を粉砕しようとする文明の、悲しくも愚かな産声のように聞こえた。

けれど、僕たちの耳の奥には、それらすべての騒音を、暴力的な色彩を、優しく包み込み、無化してしまうような、静かで、しかし確かな力を持ったメロディが流れていた。

 

 Imagine there's no countries... It isn't hard to do.

 

 やってみれば、本当に簡単なことなんだ。

 

かつて長崎の波止場で、あの国籍不明の放浪者が、笑いながら僕に言った言葉が、今この瞬間の真実として蘇る。ジョンが放つというその「音」は、未来という遠い場所にあるのではない。今、この戦火の足音が聞こえる暗闇の中で、それでも「一つであること」を信じようとする僕たちの「想像力」の中にこそ、最初から鳴り響いていたのだ。

 

僕は、懐からあの古びた和紙を取り出し、天高く掲げた。そして、そっと指を離した。

 

 I hope someday you'll join us.


 いつの日か、君も仲間になってほしい。

 

和紙は、夕焼けの熱を帯びた風に乗り、舞い上がった。軍艦が黒い煙を吐いて並ぶ東京湾の方へ、そして、人間の身勝手な国境という線などどこにもない、どこまでも自由な水平線の彼方へと、ひらひらと、しかし確かな意志を持って消えていった。

僕たちは知っている。あの紙が、いつ、どこへ辿り着こうとも、そこに刻まれた真実は決して消えることはない。

いつの日か、誰かがふと立ち止まって空を見上げ、自分を縛り付けていた境界線をふっと緩めたその瞬間、ジョンも、兆民先生も、そして名もなき僕たちも、そこに「一なる存在」として、再び立ち現れるのだ。

 

天も、地も、国境も、所有も。

すべてを脱ぎ捨て、裸の魂になった後に残る、この震えるような世界の圧倒的な美しさ。


 And the world will live as one.


 そうすれば、世界はついに一つになって、生きていくのだから。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。

本作『Imagine』は、これにて完結となります。


本作の着想は、古代の叡智である「カタカムナ第24首」から得たものでした。

この首の響きに初めて触れたとき、私の中に「ジョン・レノンの『イマジン』」と「明治維新」という、時代を超えた二つのイメージが重なり合って浮かび上がりました。

当初、この二つがどう結びつくのか、私自身も模索していました。しかし、明治の夜明けに「中江兆民」という男が放った言葉の中に、ジョンの歌詞に通じる普遍的な真理――境界のない、一なる世界の予感――を見出し、この物語を紡ぎ出すことができました。

物理学的な視点や、明治の土の匂い、そして詩的な情景描写と、章ごとに作風を変化させながら挑んだ本作ですが、皆様の心にはどのような響きとして届いたでしょうか。



【読者の皆様へ】

今後の励みと学びのため、以下の5段階評価で今の率直な感想をいただけますと幸いです。

評価:★ 〜 ★★★★★

また、「このシーンが特に心に残った」「主人公の覚悟に魂が震えた」など、お気に入りの場面についての感想も心よりお待ちしております。皆様の言葉が、私の次なる「想像」への糧となります。

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