Imagine 2
東京の闇は、さらに深く、鋭利な輪郭を持って僕たちを追いかけてきた。
麹町の迷路のような路地裏を、肺が焼けるような痛みを抱えながら走り抜ける。ミナの手を引く僕の掌には、彼女の震えるような鼓動が伝わってきた。それは、かつて僕が硝子板の中で見つめた光の干渉縞と同じ、不規則で、しかし懸命な振動だった。
背後からは、なおも役人たちの軍靴の音が響いている。彼らの足音は、一定のリズムを刻み、この混沌とした夜に無理やり「国家」という名の規律を叩き込もうとする、冷徹なメトロノームのようだった。足音が響くたび、東京の土が、石畳が、一つの意思に塗り潰されていくような恐怖を覚える。
「ハルさん、あっち……! あの煙突を目印に!」
ミナが指差したのは、神田の川沿いにひっそりと、しかし確かな意志を持って佇む、煤けたレンガ造りの印刷所だった。そこは兆民先生が「私の言葉が、民の血肉となる場所だ」と言っていた、『東洋自由新聞』の秘密の拠点の一つだった。
僕たちは滑り込むようにその中へと入り、重い鉄の扉を閉ざした。
室内には、鼻を突くほど濃いインクの匂いと、絶え間なく回る巨大な印刷機が放つ、生き物の息遣いのような熱気が充満していた。
そこでは数人の職人たちが、薄暗い灯火の下で、黙々と鉛の活字を拾い、組み上げていた。一つひとつは小さく、無機質な鉛の粒(粒子)に過ぎない。けれど、それが兆民先生の思考という配列に並べられ、紙に刷られ、風に乗って人々の手に渡った瞬間、それは個人の境遇を越えて響き合う「思想」という巨大な波動へと姿を変えるのだ。
「……逃げ延びたか。陽、そしてミナ君」
印刷機の巨大な歯車の陰から、兆民先生が現れた。
彼は襲撃の際に見せた激昂を消し去り、今はどこか、全てを見通したかのような静かな顔をしていた。その指先はインクで黒く汚れ、手には刷り上がったばかりの、まだインクの湿り気を帯びた新聞が握られていた。
「先生、ご無事で……。でも、外は役人たちで溢れています。この場所も、もう長くは持ちません」
「案ずるな、陽。彼らが血眼になって追っているのは『中江兆民』という名の一個の肉体だ。だが、この新聞に載せた私の魂の振動は、すでに波動となって街の隅々にまで広がり、人々の胸の奥を震わせ始めている。一度放たれた波を、彼らの権力という不自由な網で捉え切ることはできんよ」
兆民先生は、作業台の上に新聞を広げた。そこには力強い筆致で、新しい日本の、いや、あるべき世界の在り方が説かれていた。僕はその横に、肌身離さず持ち歩いているあの和紙を並べた。長崎で聞いた、未来の聖者が残すというあの詩の、次なる一節が記された場所を。
Imagine there's no countries.
It isn't hard to do.
Nothing to kill or die for.
And no religion too.
国境なんてないと、想像してごらん。
それは難しいことじゃない。
殺し合う理由も、死ぬ理由もなくなり、
宗教さえも消えていく。
「国境……か。陽、君は長崎で学んだな。地図の上に引かれたあの無機質な朱色の線。あれが、一体何でできているか考えたことはあるか?」
兆民先生は、インクで汚れた指で、僕が抱えていた硝子板をなぞった。その指の震えは、怒りではなく、深い悲しみのように見えた。
「それは、数え切れないほどの名もなき死体と、誰かの『これを自分のものにしたい』という浅ましい所有欲が作り出した、身勝手な固定観念でできているのだ。政府は今、『日本』という強固な境界線を地図に、そして人々の心に深く刻もうとしている。隣の国を敵と見なし、自分たちの境界を固く閉じ、一つの排他的な粒子として振る舞うことが、西洋に並ぶ『文明化』だと信じ込んでいる。だが、その線の向こう側にいる者もまた、同じ空の下で、同じように生老病死の苦しみに震えている存在に過ぎないのだよ」
僕は、印刷機の隙間から漏れる一筋の光を見つめた。
光には国境がない。
光はどこまでも広がり、何かにぶつかればしなやかに回り込み、異なる色の光と互いに混ざり合う。その物理的な事実に、僕はジョンの詩の正しさを見た。
「先生、でも世界は……この明治という時代は、僕たちの願いとは逆に、どんどん境界を強くしています。徴兵令が人々の生活を寸断し、農民も武士も、一つの『国民』という巨大な暴力装置の部品に作り替えられようとしている。殺す理由も、死ぬ理由も、その国境という檻の中に押し込められているんです」
「だからこそ、想像するのだよ。陽。これ以上ないほど強く、鮮明にだ」
兆民先生は、僕の肩を壊さんばかりの強さで掴んだ。
「想像力とは、他者が定めた『形』を拒む力だ。彼らが『これは国だ』『これは敵だ』と現実を確定させようとする瞬間に、『いや、それはただの一つの空の現れだ』と、別の真実を見抜く力だ。ジョンの言う通り、それは決して難しいことではない。ただ、目を開け、世界の重なり合いをそのままに、あるがままに受け入れればいい」
その時、部屋の隅でミナが静かに、しかし激しく筆を動かし始めた。
彼女は、積み上げられた新聞紙の余白に、色彩を叩きつけるように落としていく。
描かれたのは、地図の上では冷酷に引き裂かれた大地が、地下の深い場所で複雑に絡み合う樹々の根によって再び結ばれている光景だった。その根は光を放ち、国境という線を下から溶かしていた。
「私……長崎の波止場で、言葉の通じない異国の商人たちが、肩を組んで笑い合っているのを見たわ」
ミナは、色を重ねながら、自分自身に言い聞かせるように呟いた。
「彼らは拝む神様も、育った土も違ったけれど、美味しいものを食べるとき、愛する人を思うときは、みんな同じ目をしていた。海を渡ってきた波が、日本の海岸で砕けるときに立てる音は、きっと彼らの故郷の波と同じ音のはずよ。それを『国』というたった二文字の言葉で切り分けて、どうして憎み合わなきゃいけないの? 私たちの筆は、その境界線を消すためにあるんじゃないの?」
彼女の筆が描く色彩の波動は、兆民先生の言葉と共鳴し、印刷所の中にある全ての物質――鉛の活字、鉄の歯車、紙の束――を、柔らかに融解させていくようだった。
インクは熱い血となり、紙は人々の皮膚となり、言葉は目に見えない祈りとなって、この狭いレンガ造りの部屋を越え、外の閉ざされた世界へと漏れ出していく。
Imagine all the people living life in peace.
平和に生きるすべての人々を想像してごらん。
突然、印刷所の外で凄まじい怒号と、扉を打ち壊す鈍い音が響いた。
「中江兆民! 『東洋自由新聞』の発刊停止命令に従え! 国家の秩序を乱す不穏な言説は許さぬ! 速やかに開錠せぬば、力ずくで踏み込むぞ!」
政府の役人たちが、ついにこの「波動の源泉」を突き止め、物理的な力でその波を止めに来たのだ。
扉が外から激しく叩かれ、足元のレンガの床が不気味に振動する。
「陽、ミナ君。これが、彼らの恐怖の形だ。そして、限界だ」
兆民先生は、静かに作業台の椅子に深く腰掛け、最後の一杯と思われる安酒を煽った。
「言葉という波を止めるには、その源である肉体を消すしかないと思い込んでいる。だが、遅すぎるのだよ。波はすでに伝播した。君たちがこの凄惨な場所で感じた『境界線のない予感』。それを絶やさずに持ち歩き、語り継ぐ限り、彼らが必死に守ろうとしている国境という幻影は、いつか必ずその意味を失い、砂の城のように崩れ去るだろう」
「先生、一緒に来てください! 逃げ道はあるはずです!」
「いや……私はここで、彼らの信奉する『宗教』、つまり国家という名の新しい偶像崇拝と刺し違えてくる。私は一介の粒子として、ここで消滅を受け入れよう。だが、私の理は、君たちの目を通じて次の時代を、その先にある真実を見続け、響き続けるだろう」
扉の閂が砕け散った瞬間、兆民先生は僕たちを印刷機の下にある、かつて蘭学者が禁書を隠すために作ったという隠し通路へと力強く押しやった。
「行け! 世界が一つになるその日まで、想像し続けるのを止めるな!」
暗く湿った通路を這い進む僕たちの背後で、兆民先生が役人たちに向かって放つ、圧倒的な質量を持った声が聞こえた。
それは、ジョンの詩のように、静寂と無知を切り裂く、命懸けの宣言だった。
「貴様たちがどれほど強固な壁を築き、大砲を並べようとも、人の心に引かれた線など、一滴の真実の言葉で洗い流せるものだ! 国を愛するとは、国という枠組みを超えて人を愛することだと、その薄っぺらな頭に叩き込め!」
暗闇を抜け、隅田川の岸辺にある冷たい空気の中に飛び出したとき。
東京の空には、夜明け前の薄い、しかし確固たる光が差し始めていた。
川の向こう側に見える、かつての江戸城――今の皇居。
そこに翻る新しい日本の国旗が、僕の目には、もはや崇高な象徴ではなく、ただの風に震える、いつかは朽ち果てる布きれにしか見えなかった。
天も地も、国境も。
本来は存在しないもの。
僕たちは、自分たちが「どこにも属さず、しかし全てと繋がっている空の断片」であることを自覚しながら、再び走り出した。
You may say I'm a dreamer.
But I'm not the only one.
夢想家だと言うかもしれない。
けれど、僕は一人じゃない。
僕たちの手の中には、兆民先生が命と引き換えに遺した「言葉の波」と、ジョンの「詩の種」が、消えることのない熱を持って刻まれていた。
より深く、逃れがたい境界。
「自分」と「他人」を分かつ最後の壁――「所有」という檻を巡る分かれ道へと、僕たちは踏み込んでいく。
I hope someday you'll join us.
And the world will be as one.
いつの日か、君も仲間になってほしい。
そうすれば、世界はついに一つになるのだから。
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