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  作者: しゅう


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89/116

Imagine 1

慶応から明治へと年号が塗り替えられて間もない頃、帝都・東京の空は、火薬の匂いと新時代の埃が混ざり合った、得体の知れない熱気に包まれていた。昨日まで「お上」と仰がれていた武士たちが、誇りであった刀を奪われ、アイデンティティの象徴であった髷を落とし、サイズの合わない窮屈な洋装に身を包んで、所在なげに街を彷徨っている。一方で、身分という見えない枷を剥がされた平民たちは、解放された喜びと、拠り所を失った不安の境界線上で、浮き足立った、どこか危うい歩調を刻んでいた。

 

「……結局、境界線なんてものは、誰かが勝手に引いた線に過ぎなかったんだな」

 

僕は、上野の山を望む古びた長屋の軒先で、手元の小さな硝子細工を覗き込みながら独り言を漏らした。僕の名前は、はる。かつては幕府の命で蘭学を学び、長崎の出島でオランダの物理学――彼らの言う「自然哲学ナチュラルフイロソフイ」に触れた若き学者だった。けれど、僕が異国の書物から学んだのは、大砲の鋳造法でも蒸気機関の仕組みでも、ましてや国を富ませるための経済学でもない。「この世界は、極小の粒子の集まりであり、同時にそれは目に見えない振動の連なりである」という、当時の日本人には到底受け入れ難い、世界の根源的な、そしてあまりにも残酷な姿だった。

 

僕は、懐から一枚の和紙を取り出した。そこには、長崎の波止場で出会った、国籍不明の放浪者が、酔った拍子に口ずさんでいたという不思議な詩が、僕なりの訳で記されている。その放浪者は、これは未来に現れるジョンという名の聖者が、全人類に向けて放つ「音」なのだと予言していた。

 

 Imagine there's no heaven.

 It's easy if you try.

 No hell below us, above us only sky.

 

 極楽も地獄もないと、想像してごらん。

 僕たちの下に黄泉はなく、上にはただ空があるだけだ。

 

この詩の響きは、僕にとっては単なる平和への祈りや感傷ではなく、この世界の「根底の基盤」を言い当てた物理法則そのもののように聞こえた。天と地。上と下。内と外。善と悪。僕たちはこの二項対立という「粒子」的な思考、つまり物事を切り分けて個別に固定しなければ理解できないという脳の癖に縛られ、すべてを分断することでしか安心を得られない。けれど、僕が硝子板を通して見つめている光の干渉縞は、それらすべての境界線が、身勝手な介入によって無理やり捏造されたものであることを、静かに、しかし抗いようのない冷徹さで突きつけてくる。

 

僕が身を寄せているのは、麹町にある「仏学塾」という小さな私塾だった。その主こそが、土佐出身の気鋭の思想家、中江兆民である。彼はフランスの思想を翻訳し、この国に「自由」という名の巨大な波動を持ち込もうとしていた。

塾内は常に、安酒の匂いと、吸い殻の山から立ち昇る紫煙、そして若者たちの青臭い議論が渦巻いていた。

 

「陽君、またそんな硝子の破片を覗いて。天国への道筋でも探しているのかね?」

 

背後から、酒の匂いと共に、低く乾いた、しかし芯の通った声が響いた。兆民だった。彼は痩せこけた体躯に、相手の魂まで射抜かんとする鋭すぎるほどの眼光を宿し、散らかった翻訳原稿の中から僕の横に座り込んだ。

 

「先生。僕は天国を探しているんじゃありません。天国や地獄という『場所』が、どこにも存在しないことを証明しようとしているんです。この光が描く模様を見てください。すべてが重なり合い、干渉し合っている場所には、絶対的な上も下も、自分と他人の区別すら存在し得ないはずですから」

 

兆民は僕の硝子板を無造作に手に取り、西日にかざした。スリットを抜けた光が、彼の使い込まれた袴の上に、繊細で複雑な縞模様を映し出す。兆民はその光をじっと見つめ、ふっと自嘲気味に笑った。

 

「ほう……。これは理屈ではなく、もはや曼荼羅だな。粒子が集まって『形』を成す前に、そこには無限の可能性を秘めた『海(波動)』がある。陽君、君の言う通りだ。私がフランスでルソーを読み耽っていた時、紙の上に見えていたのはこれだよ。自由とは、単なる権利の話ではない。自分が、この広大な世界の振動の一部であるという自覚を取り戻すことだ。今の明治政府は、士農工商という分かたれた粒を壊したふりをしながら、その実、『国民』という新しい強固な箱に人々を詰め込もうとしている。だが、本来の人間は、空を流れる雲と同じだ。境界のない空の一部なのだよ」

 

兆民は懐から小さな酒瓶を取り出し、一気に煽ると、満足げに喉を鳴らした。

 

「いいか、陽。ジョンという男の詩……あれは凄まじいな。極楽も地獄もない。それは、死んだ後に救いを求める『依存』の否定だ。今、この瞬間の生を、境界のない空の下で、一如いちにょとして、つまり全体として生きろということだ。それが私の説く『ことわり』であり、仏教のいう『空』、そして私の哲学の根幹にある『無』の正体だよ」

 

兆民の言葉は、冷たい物理現象に魂の火を灯し、哲学へと昇華させていく凄みがあった。

その時、塾の入り口に一人の若い女性が現れた。ミナだった。彼女は没落した旗本の娘でありながら、封建的な家の価値観を飛び出し、今はその筆一本で「錦絵」の新しい形を模索している若き絵師だ。彼女の着物の袖には、常に墨と極彩色の絵具が、まるで戦闘の痕跡のように飛び散っていた。

 

「兆民先生、陽さん。街の空気が凍りついているわ。新政府の役人たちが、長屋を一つひとつ回り始めてる。身分制度を否定し、この国の形を疑うような言説を吐く者は、新秩序を乱す反逆者として捕らえる。そんな不穏な紙があちこちに貼られているの」

 

ミナの声は、微かに震えていた。彼女が抱えている画巻には、蒸気機関車の吐き出す黒煙が、夕焼けの雲と混ざり合い、それが道行く人々の体温や喧騒と溶け合いながら、一つの巨大な、意志を持った「うねり」となって江戸の街を包み込む情景が描かれていた。そこには、武士も町人も、敵も味方もない。ただ、一つの生きているエネルギーの奔流があった。

 

「……始まったか。強引な強制だ」

 

兆民は唇を歪めて冷笑を浮かべた。

 

「陽、ミナ君。彼らは、つまり権力を持つ者たちは、本能的に怖がっているのだよ。人々が自分の輪郭を失い、互いに手を取り合い、一つの大きな波動として繋がり始めることを。そうなれば、『支配する者』と『支配される者』という線が引けなくなるからな。境界線こそが、彼らの力の源泉なのだ。だが、案ずるな。私の放つ『言葉』と、陽君の捉える『光』、そしてミナ君が描く『色彩』。これらが共鳴すれば、奴らの引く虚偽の境界線など、夏の終わりの陽炎のように消し飛ばせる」

 

 Imagine all the people living for today.

 

 今日を生きるすべての人々を想像してごらん。

 

兆民は立ち上がり、塾の壁一面に、所狭しと貼られた翻訳原稿や自筆のメモを指差した。

 

「陽、今から僕たちがやるのは、この国の、つまり基盤を書き換える実験だ。天も地もない、ただの空の下で、誰もが誰の所有物でもない世界。それを、この明治という混乱の荒野に現出させるんだ。見方が変われば、現実もまた変わるのだから」

 

その言葉が終わるか終わらないかのうちに、塾の重い引き戸が乱暴に叩かれた。

「開けろ! 仏学塾の中江兆民、ならびに寄宿している蘭学者の陽。そして不逞の絵師を名乗る女! 国家転覆を画策する不穏分子として、神妙に致せ!」

 

役人たちの、感情を排した無機質な怒声が、静かな塾内に響き渡る。

僕はミナの手を固く握り、兆民を見た。

 

「陽、行け。裏口からミナ君を連れて逃げるんだ。僕はここで、連中のその薄っぺらな論理を、私の言葉の波で完膚なきまでに粉砕してやる。いいか、陽。決して止めるな。君がこの世界の美しさを、その重なり合いを見続けるのを止めなければ、世界はまだ、一つに繋がっていられる」

 

僕は短く頷き、懐の硝子板を胸に抱いて、ミナと共に裏の狭い路地へと飛び出した。

背後で、兆民が役人たちに向かって、朗々と、柔軟に、そして不敵に笑いながら語り始める声が、風に乗って聞こえてきた。

 

「……天は人の上に人を造らずと言うが、それは人が空の一部であることを忘れた愚か者の言葉だ。私はその、さらに先にある『無』を説きに来たのだ!」

 

夜の帳が降り始めた東京の街を、僕たちは死に物狂いで走り続けた。

石畳を叩く自分たちの足音が、新しい時代を刻むメトロノームのように聞こえた。

新しく設置されたばかりの瓦斯灯の光が、雨上がりの泥混じりの水溜まりに、複雑な干渉縞を描き出している。

 

 天も、地も、境界もない。

 

ジョンの詩が、維新の喧騒と役人の叫び声を超えて、僕の耳の奥で、静かに、しかし確かな力を持って鳴り響いていた。

 

 It's easy if you try.

 

 やってみれば、簡単なことさ。

 

僕たちの「分かれ道」は、今、無限の可能性を孕んだ混沌の海へと、真っ直ぐに繋がった。

読んでいただきありがとうございます。

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