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  作者: しゅう


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巡る4

路地裏の湿った空気が、一瞬で氷のように冷え切った。

目の前に立つ、顔に深い傷跡のある男。彼の発する殺気は、これまで僕が触れてきた「巡り」の穏やかさとは正反対の、すべてを強引に奪い去ろうとする剥き出しの執着だった。

僕は無意識に、指に巻き付けた赤い革紐を強く握りしめた。使い込まれた革の感触が、掌に熱を伝えてくる。その熱は、単なる摩擦熱ではない。この紐を託したスーツの男の決意や、それを編み上げた娘の純粋な祈りが、時間という概念を飛び越えて僕の血流に直接流れ込んでいるかのような、不思議な躍動感だった。

 

「……答える気はないようだな」

男が一歩、足を踏み出した。アスファルトを踏みしめる靴音が、死刑宣告の鐘のように路地に響く。

 

「その紐は、単なる思い出の品じゃない。かつてこの街を裏から支えていた、ある大きな『富の鍵』の一部だ。それを持っていれば、望むままの権力が手に入る。学生の分際で、そんな重すぎる荷物を背負う必要はない。さあ、それをこちらへ渡せ。そうすれば、命だけは助けてやる。お前にとって、それはただの古びたゴミだろう? ならば、それを対価に命を買うのは、これ以上ない賢い取引だとは思わないか」

男の言葉は甘く、けれど拒絶を許さない響きを持っていた。

僕は震える足を踏ん張り、男を真っ向から見据えた。

少し前の僕なら、恐怖に負けてすぐに差し出していたかもしれない。あるいは、そんな恐ろしいものなら要らないと、地面に投げ捨てて逃げ出していたはずだ。自分という存在に質量を感じていなかった頃の僕なら、何を失っても痛くはなかったから。

けれど、今の僕は知っている。

100円が水になり、水が老人の命を繋ぎ、それが青い小瓶になり、小瓶がフォトグラファーの夢を支える芯になり、写真が絶望の淵にいた男を救う光になり、そして今、この革紐へと変わった。その一つひとつの過程で、誰かの感謝や、祈りや、初心がこの紐に「現れて」きたのだ。

これは権力の道具なんかじゃない。この世界が、目に見えない絆で編み上げられていることを証明する、たった一つの「現れ」なのだ。

 

「……断ります」

僕の声は、自分でも驚くほど静かで、力強かった。喉の奥が熱く、言葉の一つひとつが確かな実体を持って空間に放たれる感覚。

 

「これは、あの人が大切にしていた『初心』なんです。誰かを救いたいと願った瞬間の、一番純粋な記憶だ。それは、あなたが追い求めている『力』や『支配』とは、決して噛み合うことのない種類のものです。あなたがそれを手にしたところで、それはただの抜け殻になる。この循環を止めようとする者には、この紐の本当の価値は決して現れない」

男の目が、怒りに燃え上がった。その瞳の奥には、所有することへの底知れぬ飢えと、手に入らないことへの恐怖が混ざり合っていた。

 

「愚かな。形のないものに価値を置くなど、死に行く者の戯言だ。力こそがこの世界の唯一の真実だと、その身に刻んでやろう! 出現などという抽象的な言葉で、現実の暴力に抗えると思っているのか!」

男が獣のような速さで突進してきた。

僕は逃げなかった。いや、逃げる必要を感じなかった。

僕は目を閉じ、掌の中の革紐に、そしてこれまでの全ての巡り合わせに自らを投げ出した。

 

その瞬間だった。

 

どこからか、聞き覚えのある「カチリ」という音が、路地裏全体に、あるいは世界の構造そのものに響き渡った。

それは、自動販売機に硬貨が吸い込まれる音であり、空き瓶を拭く布の擦れる音であり、カメラのシャッターが切られる音であり、そして、運命の歯車が噛み合う音だった。

まばゆいばかりの「青い光」が、僕の視界を埋め尽くした。

目を開けると、そこには驚くべき光景が広がっていた。

僕と男の間に、あの「青い小瓶」を芯にしてバッグを直した女性が立っていた。彼女は愛機を構え、今の決定的な瞬間を切り取っていた。そのシャッター音は、闇を切り裂く雷鳴のように鋭かった。

そして、その背後からは、あのUSBメモリを取り戻したスーツの男が、大勢の警察官を連れて駆けつけてきた。男の顔には、もはやさっきまでの卑屈な絶望はなく、誰かを守ろうとする者の気高い怒りが宿っていた。

さらに、路地の入り口には、麦わら帽子を目深に被ったあの老人が、静かに佇んでいた。

 

「何だ、これは……。なぜ、貴様らがここにいる! 」

傷のある男は、包囲された状況に狼狽し、その場に崩れ落ちた。彼の世界では、人間は互いに奪い合うだけの点に過ぎなかったのだろう。だからこそ、こうした「巡りによる結託」という事象を、彼は最後まで理解できなかった。

スーツの男が、僕の前に歩み寄った。

 

「君が教えてくれたんだよ。この革紐に刻まれた『重み』が、私を呼んだんだ。USBメモリを届けた後、どうしても胸騒ぎがしてね……。君に渡したあの紐は、私の娘が、私が道を踏み外さないようにと編んでくれたものだ。それを狙う者がいることは薄々気づいていたが、君という『純粋な器』がそれを守ってくれたおかげで、ようやく過去のしがらみを断ち切ることができた。ありがとう。君がいなければ、私はまた別の何かを失っていたところだった」

 

フォトグラファーの女性も、いたずらっぽく笑って僕にウィンクした。

「あの写真、不思議なことにね、風に舞って私のスタジオまで戻ってきたのよ。窓から滑り込んできたその写真を見て、ピンときたわ。そこに写っていた光の反射が、時計の針のようにこの場所を指し示していた。巡り巡って、また出会えたね、変な人。でも、今の君は昨日よりもずっと良い顔をしてる」

 

僕は、呆然とその場に立ち尽くした。

バラバラだった「巡り」が、今、この一瞬にすべて収束し、一つの巨大な円を描いたのだ。

自分がただの点ではなく、巨大な波紋の一部であることを、これほどまでに生々しく感じたことはなかった。

 

老人がゆっくりと近づいてきた。

彼は僕の掌から、そっと赤い革紐を解いた。

「若いの、よくやったな。あんたが自分のためではなく、この流れを止めないために自分を投げ出したからこそ、世界はあんたを助けるために動き出したんだ。これこそが、この世の真の理だよ。現れるものは巡り、巡るものはいつか必ず、最善の場所へと着地する」

老人はそう言うと、手にした革紐を空に向かって放り投げた。

赤い紐は、夕暮れ時の空を滑るように舞い上がり、そのまま光の粒子となって溶けていった。

 

役割は終わったのだ。

100円から始まったエネルギーは、多くの人々を癒し、繋ぎ、そして悪しき執着を浄化して、本来あるべき「無」の場所へと帰っていった。

僕の手元には、もう何も残っていない。

青い小瓶も、モノクロ写真も、赤い革紐も。

けれど、今の僕は、物語の冒頭で感じていたあの「所在のなさ」を、微塵も感じていなかった。

僕の身体は、確かな質量を持ってこの世界に根を下ろしている。

僕という存在は、代替不可能なこの循環の一部であり、僕が投げ出した一歩一歩が、誰かの明日を形作っているという確信があった。空っぽであることは、これから何かが流れ込んでくるための準備に過ぎないのだと、今は理解できる。

僕は、隣にいたスーツの男と、フォトグラファーの女性、そして老人に深く頭を下げた。

 

「……ありがとうございました。僕、やっと分かった気がします。現れるということは、何かを持つことじゃない。こうして、誰かと響き合うことそのものなんだって。100円の重みも、この紐の熱も、全部僕の中に残っています」

老人は満足げに頷き、カゴの中から最後の一つとなった「空き瓶」を取り出した。

 

「さあ、お帰り。あんたの新しい日常が、もうそこで待っているよ。次はあんたが、誰かの『きっかけ』になる番だ」

 

僕は公園を後にし、再びあの代わり映えのしない通学路を歩き始めた。

けれど、見える景色は昨日までとは全く違っていた。

アスファルトの裂け目に咲く名もなき花。

すれ違う見知らぬ人々の、懸命に生きる背中。

すべてが愛おしく、輝いて見えた。

僕は自分のアパートに戻り、机に向かった。

そこには、昨夜ぶち撒けた就職活動のパンフレットが散らばっている。

僕はそれを一つずつ丁寧に拾い上げ、整理した。

「どこでもいいから働きたい」という消極的な思いではない。

「この循環の中で、次は誰のために自分を投げ出そうか。どんな役割として、この世界に現れようか」という、静かな情熱が胸に灯っていた。

ふと、窓の外を見ると、六月の夜空に一際明るい星が瞬いていた。

僕はふと、ジャケットのポケットに手を入れた。

そこには、指先に触れる小さな、けれど確かな金属の感触があった。

取り出してみると、それは新しく、輝くような、一枚の「100円硬貨」だった。

それは、あの老人が別れ際にそっと忍ばせてくれたものか、あるいは世界が僕にくれた、新しい旅の切符か。

表面には、あの日拾った硬貨と同じ桜の意匠。けれどその輝きは、今の僕の心を映すようにどこまでも澄んでいた。

僕はその100円を、そっと机の上に置いた。

明日の朝、僕はまた外に出る。

そして、この100円を「きっかけ」にして、また新しい巡りを始めるのだ。

 

終わりは、常に新しい始まりの種だ。

出現し、噛み合い、そして巡り続ける。

僕という魂が、この世界という大きな劇場で、新しい一幕を書き換えていく。

夜風が、優しく僕の頬を撫でていった。

それは、湿った熱を孕んだ昨日までの風ではなく、どこまでも清々しく、透明な希望の匂いがした。

 

巡り、巡る物語。

その真実のハッピーエンドは、僕の掌の中から、今、再び現れようとしていた。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。

本作『巡る』は、これにて完結となります。


本作の着想は、古代の叡智である「カタカムナ第23首」から得たものでした。

この首の響きに初めて触れたとき、私の中に「わらしべ長者」のような連鎖のイメージが浮かび上がりました。

後にその真意を紐解いてみると、この首は「生命の循環と、現象として目に見えるカタチが完成するプロセス」を説くものであると知り、直感の導きに従って、100円玉から始まるこの物語を編み上げるに至りました。

目に見える物質は形を変え、巡り続けますが、その過程で交わされる「意志」や「祈り」こそが、私たちをこの世界に真に「出現」させてくれるのだと信じています。



【読者の皆様へ】

今後の励みと学びのため、以下の5段階評価で今の率直な感想をいただけますと幸いです。

評価:★ 〜 ★★★★★

また、「このシーンが特に心に残った」「主人公の覚悟に魂が震えた」など、お気に入りの場面についての感想も心よりお待ちしております。皆様の言葉が、また新しい「巡り」の種となります。

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