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  作者: しゅう


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87/226

巡る3

朝の光が、安普請のアパートの窓から遠慮なく差し込み、机の上に置かれたモノクロ写真を白茶けさせていた。

僕は昨夜から、幾度となくその写真を眺めては、ため息を吐き出していた。写真に写っているのは、どこにでもある都会の路地裏だ。ひび割れたアスファルト、放置された錆びた自転車の影、そして地面に溜まった雨水。けれど、その水溜まりに反射する一筋の光は、まるで深淵から這い出してきた生き物のような、奇妙な意志を持って僕を見返していた。

僕はこの風景を知っている。いや、正確には「この風景の裏側にある温度」を知っている。

100円を拾ったあの路地裏、老人が瓶を拭いていた公園、彼女がバッグを直したコンビニの前。それらはすべて、この写真の中に凝縮されているような気がしてならなかった。

僕は今日、予定されていた就職活動の説明会を欠席することに決めた。カバンの中の重苦しいパンフレットをすべて机にぶち撒け、代わりにその写真を丁寧にクリアファイルに入れ、胸のポケットに差し込んだ。

外に出ると、世界は昨日よりもさらに解像度を増して僕に迫ってきた。

駅へ向かう人波の中で、僕は無意識に自分の胸に手を当て、写真の感触を確かめる。

100円が小瓶に、小瓶が写真に。

形を変えるたびに、僕の手元にあるものの「市場価値」は減少しているはずだった。金銭的には、僕は一円も持っていないのと同義だ。けれど、この写真を抱えているときの僕の足取りは、数万円のブランド品を身に着けていたときよりも、ずっと確かで、重厚だった。

僕は、写真の中の風景を探し始めた。

手掛かりは何もない。ただ、あの女性フォトグラファーが「さっき撮った」と言っていた言葉だけを頼りに、この街の血管のような細い路地を歩き回る。

 

昼過ぎ、僕は街の北れにある、再開発から取り残されたような古い商店街の裏手に迷い込んだ。

湿った土の匂い。古い油の臭い。

ふと、視界の端に既視感のある「光」が飛び込んできた。

そこには、写真と寸分違わぬ路地裏があった。

アスファルトの裂け目、錆びた自転車。そして、昨日の雨が残した大きな水溜まり。

僕は吸い寄せられるようにその場に立ち尽くし、胸から写真を取り出した。

 

「……あった」

 

実物と写真は、鏡合わせのようにそこに存在していた。

けれど、一点だけ違うものがあった。

写真の中で光を反射していたその水溜まりの傍らに、一人の男がうずくまっていたのだ。

男は、高級そうな仕立てのスーツを着ていたが、その肩は激しく震え、泥だらけの手で地面を叩いていた。

 

「ない……ないんだ。あれがないと、すべてが、すべてが終わる……」

 

男の呻き声が、壁に反響して不気味に響く。

僕は、かつての自分を見たような気がした。何かに執着し、それが失われることを死ぬほど恐れ、目に見える「形」だけに縋って生きている人間の姿。

 

「どうしたんですか?」

僕は男の背中に声をかけた。

男は弾かれたように顔を上げた。整えられた髪は乱れ、瞳には血走った絶望が宿っている。

 

「君……ここで、小さな、銀色のケースを見なかったか? 大事な、仕事のデータが入ったUSBメモリだ。今日中にこれを届けないと、うちの会社は倒産する。何百人という社員の人生が、この指先ほどの金属に懸かっているんだ!」

男の声は悲鳴に近かった。

彼はこの泥水の中を、狂ったようにかき回していた。

僕は、彼の足元の水溜まりを見た。

泥が混じり、何一つ見えない濁った水。

僕は、昨日の自分なら、きっと彼と一緒に泥をかき回しただろう。あるいは、何も見つからないことを哀れんで立ち去っただろう。

けれど、今の僕には、あの「写真」がある。

 

「……少し、どいてください」

僕は、彼を押し退けるようにして水溜まりの前に立った。

そして、クリアファイルからモノクロの写真を取り出し、水面に重ねるようにしてかざした。

写真に写った光の反射。

その角度と、現実の太陽の光を重ね合わせる。

すると、濁った水面の一点が、写真の中の光と呼応するように、一瞬だけ鋭く、青白く光った。

 

(そこだ)

僕は迷いなく、その一点に手を突っ込んだ。

冷たい泥の感触。指先が、何らかの硬い異物に触れる。

引き上げると、そこには彼が探していた、銀色の小さなケースがあった。

 

「あ……ああ! それだ! それだよ!」

男は僕の手からケースを奪い取るようにして受け取り、泣きながらそれを胸に抱いた。

「ありがとう、本当にありがとう……。君は、救い主だ。私の、そして何百人という人間の救世主だ!」

男は財布を取り出し、中にある札束をすべて僕に渡そうとした。

「これは礼だ! 受け取ってくれ。君のおかげで、億単位の損失が免れたんだ。これくらい、端金だ!」

目の前に差し出された、厚い札束。

それは、僕が最初に拾った「100円」とは比べものにならないほどの、巨大な「形」を持った価値だった。

これを受け取れば、僕のこれからの人生は、あの就活パンフレットに縛られることもなく、容易に安定を手に入れられるだろう。

けれど、僕の視線は、彼の札束ではなく、彼の手首に巻かれた「一本の古ぼけた革紐」に釘付けになった。

それは、何かの記念品なのか、あるいは子供が作ったお守りなのか。

ボロボロに擦り切れ、今にも千切れそうな、けれど驚くほど丁寧に編み込まれた赤い紐。

その紐を見た瞬間、僕の脳裏に、あの女性フォトグラファーの笑顔と、老人の「光の器」の声が重なった。

 

(巡り、巡っている)

 

もしここで僕が札束を受け取れば、この循環はここで「完成」し、停止してしまう。

巨大な富という終着点。それは、巡り続けるエネルギーを自分の中に封じ込め、再び「個」という殻に閉じこもることを意味する。

「……お金はいりません。代わりに、その革紐をいただけませんか?」


男は、呆然とした顔で僕を見た。

「え……? これを? これは、私が初めて大きな商談を成功させたときに、娘がくれた……ただのゴミ同然の紐だよ? 札束のほうが、君の将来のためになる」

 

「いいえ。僕には、今のあなたを救った『重み』に見合うものは、それしかないように思えるんです」

男は困惑しながらも、僕の揺るぎない瞳を見て、ゆっくりと腕から革紐を外した。

 

「……変わった学生だ。だが、君がそう言うのなら。これは、私の『初心』だ。君に託そう」

手渡された革紐は、使い込まれた汗と、誰かの祈りの匂いがした。

その瞬間、僕の胸ポケットにあったモノクロ写真が、ふわりと風に舞った。

写真はひらひらと空へ舞い上がり、そのまま高いビル風に攫われて、都会の空へと消えていった。

役割を終えたのだ。

100円が、水になり、小瓶になり、写真になり、そして今、誰かの「初心」である革紐へと姿を変えた。

男は何度も振り返りながら、仕事へと向かっていった。

一人残された路地裏で、僕は赤い革紐を指に巻き付けた。

僕の腹は、もう空腹を感じなくなっていた。

出現の仕方は、泥まみれの100円だった。

けれど、その根本にあるものは、価値の大小ではなく、この「魂の交換」を繰り返すことそのものにある。

 

僕は、空を仰いだ。

写真が消えた空は、透き通るような青さをしていた。

しかし、その時だった。

僕の背後から、低く、威圧的な声が響いた。

 

「……おい。その革紐を、どこで手に入れた」

 

振り返ると、そこには黒いコートを羽織った、顔に深い傷跡のある男が立っていた。

その目は笑っておらず、僕の手元の革紐を、獲物を狙う獣のような鋭さで凝視していた。

世界の根っこが書き換わる。

老人の予言が、不吉な響きを伴って脳内で増幅される。

僕が手にした「初心」は、どうやら単なる思い出の品ではなかったらしい。

循環の歯車が、予期せぬ「軋み」を上げ始めた。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

感想などいただけると嬉しいです。

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