巡る2
カバンの底に沈めた青い小瓶は、歩くたびに教科書や就活の資料とぶつかり、小さく、けれど確かな音を立てていた。
公園を後にして駅の改札を抜けるまでの間、僕は何度も自分の肩に伝わるその異質な振動を確かめていた。たった100円の硬貨が消え、代わりにやってきた手の平サイズの硝子細工。重さで言えば、硬貨よりもずっと軽いはずなのに、今の僕には、まるで街一つ分の質量がカバンの中に詰め込まれているような、奇妙な圧迫感があった。
電車の中は、帰宅を急ぐ人々で溢れ返っていた。
吊り革を掴み、スマートフォンの画面を無機質に眺める人々。彼らの表情には、さっき僕が味わったような「摩擦」の形跡はどこにもない。
僕も少し前までは、その光景の一部だった。
適当な情報を選別し、自分に関係のない他人の言葉を消費し、明日という不確かな未来に対して、ただ漫然とした不安だけを担保にして生きていた。
僕は思わず、カバンの隙間からあの小瓶を取り出した。
周囲の目を盗むようにして、瓶の底を覗き込み、片目で世界を透かしてみる。
青い透過光。
網膜に焼き付くその色彩は、車内の蛍光灯の白さを、深い海の底のような沈黙へと塗り替えた。
すると、さっき公園で見たのと同じ現象が起きた。
隣で居眠りをしている会社員の輪郭が、スマホを操作する女子高生の指先が、そしてドアの向こう側に流れていく都会の夜景が、すべて境界線を失い、緩やかな波のように連なっているのが見えたのだ。
(みんな、繋がっているのか……?)
それは、目に見える物質としての繋がりではない。
誰かの吐き出した溜息が、空気を震わせ、別の誰かの体温と混ざり合い、この鉄の塊を動かすエネルギーの一部へと還元されていく。そんな、物理法則の裏側に隠された「流れ」が、青いフィルターを通すことで、濁流のように僕の視界へ流れ込んできた。
僕は眩暈を覚え、慌てて小瓶をカバンに仕舞い込んだ。
心臓が、自分でも驚くほど激しく鼓動を刻んでいる。
あの老人は言った。「世界の根っこが書き換わる」と。
僕が100円を手放したことで始まったこの巡りは、僕がこれまで守ってきた「個としての殻」を、容赦なく内側から壊し始めていた。
大学の最寄り駅を降り、アパートへ戻る道すがら、僕は一軒のコンビニの前に立ち止まった。
本来なら、夕飯を買うために立ち寄るはずの場所だ。
けれど、僕のポケットには、もうあの100円はない。
財布の中の千円札を使えば済む話なのに、なぜか、あの泥まみれの100円硬貨を介さない取引が、ひどく無機質で、空虚なものに感じられて仕方がなかった。
その時、コンビニの入り口付近で、一人の女性が困り果てた様子で立っているのが見えた。
僕と同じくらいの年齢だろうか。
派手な格好をしているが、その手元にあるトートバッグの持ち手が、無惨にも千切れかけていた。
彼女は、バッグから溢れ出しそうな荷物を必死に押さえつけながら、周囲を見渡している。
普段の僕なら、間違いなく素通りしていただろう。
「自分には関係のないことだ」
そう言い聞かせて、視線を逸らすのが一番安全な、この世界の歩き方だったから。
けれど、カバンの底の小瓶が、カチリ、と音を立てたような気がした。
「……あの、大丈夫ですか?」
自分でも驚くほど自然に、言葉が口をついて出た。
女性は驚いたように僕を見た。その瞳には、都会特有の警戒心が浮かんでいたが、僕の困惑したような、けれど拒絶のない表情を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
「バッグの紐が切れちゃって……中に大事な機材が入ってるから、このままじゃ歩けないの」
見れば、彼女のバッグの中には、古いフィルムカメラや、数冊の分厚いノートが詰まっていた。
僕は自分のカバンの中を必死に探った。
けれど、僕が持っているのは、就活のパンフレットと、筆記用具、そして先ほどの青い小瓶だけだ。
ガムテープも紐もない。
どうすればいい。
100円があれば、コンビニでビニール袋なり、安っぽい紐なりを買って渡すことができたかもしれない。
けれど、今の僕には、形のある価値を持ったものは何一つなかった。
いや、一つだけある。
僕は躊躇した。
これは、あの老人から託された「光の器」だ。僕に世界の姿を見せてくれた、唯一無二のきっかけ。
これを手放すことは、せっかく手に入れた世界との繋がりを、自分から断ち切ることに等しいのではないか。
(一度手放せば、その巡りはもう二度とあんたの元には戻らないかもしれないんだぞ)
老人の警告が、耳の奥で蘇る。
けれど、目の前の彼女の、今にも泣き出しそうな、それでいて何かを必死に守ろうとしている横顔を見たとき、僕の中で一つの確信が生まれた。
この小瓶もまた、僕のところで止まっていてはいけないのだ。
巡り、巡る。
出現したものは、停滞すればただの物体に戻る。
けれど、それを他者との境界線を越えるための「道具」として投げ出したとき、初めてそれは真の意味で生命の循環に加わる。
「……これ、中身はないんですけど、少し特殊なガラスなんです」
僕は、青い小瓶を取り出し、彼女に差し出した。
「は? 瓶?」
「はい。この瓶の口の部分、頑丈にできているから……。君のバッグの千切れた持ち手の部分を、この瓶の口に巻き付けて、結び目の芯にしてみてください。そうすれば、即席の持ち手になります。ガラスが滑り止めになって、中身の重さを支えてくれるはずだ」
彼女は呆然とした顔で僕と瓶を交互に見た。
僕自身、何を言っているのか自分でもよく分からなかった。
けれど、僕の手は迷いなく、彼女のバッグの持ち手を引き寄せ、器用に小瓶を芯にして、千切れかけた布を巻き付けていった。
不思議なことが起きた。
ただの空き瓶を芯にしただけなのに、バッグの持ち手は、以前よりもずっと強固に、そして手に馴染むような安定感を持って復活したのだ。
青い硝子の輝きが、ボロボロのトートバッグのアクセントのように光っている。
「すごい……。何これ、ピッタリ。持ちやすい」
彼女はバッグを持ち上げ、何度もその感触を確かめた。
「これ、本当にいいの? 結構綺麗な瓶だけど……」
「いいんです。それは、誰かから僕が預かったもので……。今は、君が必要としている。それだけで、理由は十分ですから」
僕がそう言うと、彼女はふっと、いたずらっぽく笑った。
その笑顔は、夜の街のネオンを反射して、瓶の青色よりも鮮やかに僕の目に焼き付いた。
「変な人。でも、助かった。ありがとう」
彼女はカバンの中から、一枚の「写真」を取り出した。
「お礼、と言っちゃなんだけど。これ、私がさっき撮ったやつ。まだ現像したばかりの、予備のプリント。あげるよ」
手渡されたのは、モノクロの写真だった。
そこには、どこかの路地裏で、一筋の光が水溜りに反射している瞬間が切り取られていた。
何の変哲もない風景。けれど、その写真を見つめていると、凍りついた時間が、再び音を立てて流れ出すような、不思議な躍動感を感じた。
「私、フォトグラファーを目指してるの。いつか、世界の本当の姿を撮りたいと思ってて」
彼女はそう言い残すと、青い小瓶の持ち手をしっかりと握り、夜の闇の中へと消えていった。
僕の手元には、もう小瓶はない。
代わりに残されたのは、一枚のモノクロ写真。
100円が、水になり、老人の命を繋ぎ、青い小瓶へと変わった。
そして今、その小瓶は他人の荷物を支える「芯」になり、僕の手元には「世界の断片を切り取った一枚の紙」が残された。
掌に残る、印画紙の僅かな滑らかさと冷たさ。
僕はそれを大事そうに抱え、再び自分の住処へと歩き始めた。
僕の腹は、相変わらず空っぽのままだ。
コンビニの前まで来たのに、結局何も買わず、何も食べず、ただ掌の中の価値を入れ替えただけ。
世間一般の経済学からすれば、僕はただの愚か者だろう。
けれど、僕の胸の奥は、これまで感じたことのないほど満たされていた。
出現の仕方は、泥まみれの100円だった。
けれど、その根本にあるものは、所有ではなく、この絶え間ない変容を受け入れることなのだ。
アパートの階段を上り、鍵を開ける。
狭いワンルームに灯りを灯すと、机の上に置き去りにされた就職活動の書類が、どこか遠い世界の遺物のように見えた。
僕は、もらった写真を机の真ん中に置いた。
白と黒だけで描かれた、光と水の連鎖。
「巡り、巡っている」
僕は独り言を漏らし、静かに目を閉じた。
明日、この写真が、次には何と出会うことになるのか。
夜の静寂の中で、僕は確かに聞いた。
この世界のどこかで、僕が手放したあの青い小瓶が、誰かの歩みに合わせて、カチリ、カチリと心地よいリズムを刻んでいる音を。
循環の歯車は、さらに速度を上げ、僕を未知の深淵へと運んでいく。
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