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  作者: しゅう


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巡る1

六月の湿った風が、アスファルトの熱を中途半端に撫でていく。

大学の講堂を出た瞬間に感じる、あの何とも言えない解放感と、それ以上に重くのしかかる「所在のなさ」。僕は、就職活動のパンフレットをカバンに突っ込み、最寄り駅へと続く代わり映えのしない通学路を歩いていた。

周りの学生たちは、サークルの話や週末の予定で盛り上がっている。彼らの声は、僕の鼓膜を滑り落ちていくだけだ。

僕は、自分という存在がこの世界において一体どれほどの質量を持っているのだろうかと、時折不安になる。

この世界に、本当に「現れている」という実感がないのだ。まるで、深い霧の中から半分だけ体が突き出しているような、あるいは、誰かの夢の中に不法投棄された影のような、そんな曖昧な感覚。

自分という個体が、この社会という巨大な織物の一筋として、正しく噛み合っているとは到底思えなかった。

大学での四年間、そしてこれからの数十年。

僕がいてもいなくても、この街の循環は何一つ変わらず、誰かが僕の代わりに講義を受け、誰かが僕の代わりに働き、誰かが僕の代わりに消えていく。その「代替可能性」の寒々しさが、絶えず胸の奥を削り取っていた。

 

ふと、視線を足元に落とした時だった。

ガードレールの支柱の根元、雨水で削れた土の窪みに、それは落ちていた。

泥を被り、少しだけ縁が欠けたような、100円硬貨。

僕は立ち止まり、周囲を一度見渡してから、それを指先でつまみ上げた。

指先に伝わってきたのは、死者の体温のような無機質な冷たさ、そして金属特有の確かな重みだった。

 

100円。


コンビニで安いおにぎりすら買えない、けれどこの世界の「やり取り」に参入するための、最小の切符。

 

(拾っちゃったな……)

 

その瞬間、僕の中に奇妙な感覚が走った。

ただの100円だ。警察に届けるほどでもなく、かといって自分の財布に入れるには少しばかりの罪悪感が伴う、中途半端な額。

けれど、その泥まみれの硬貨を手にした瞬間、僕を包んでいた停滞した空気が、微かに、けれど確実に震え始めたのを感じた。

この100円という物質は、ただの金属ではないはずだ。

かつて誰かが何らかの対価として稼ぎ、誰かが支払いに使い、そして誰かが不注意に落とした、無数の「意志」と「時間」が凝縮され、硬く形を成した結晶なのだ。

目に見えない誰かの形跡が、この小さな銀色の円盤に閉じ込められている。

100円という単位は、この国において、最も多くの人々の手を経てきた「経験の塊」だ。子供が握りしめた駄菓子代かもしれないし、誰かの切実な公衆電話代だったのかもしれない。そう思うと、掌の中の金属が、急に熱を帯びたような錯覚に陥った。

僕は指先で、100円の表面をなぞった。

摩耗した桜の意匠。ギザギザとした縁の感触。

この100円を拾うという行為によって、僕は初めて、この世界の冷徹なルールと「噛み合う」ことになったのだ。

財布の中には、親からの仕送りで食いつないでいる数枚の千円札が入っている。

けれど、それらは「最初からそこにあるべきもの」として、僕の存在を揺さぶることはなかった。

この、道端の泥の中から拾い上げた100円だけが、今の僕にとって唯一の、世界との生々しい接点のように思えた。

僕はその硬貨を握りしめたまま、駅とは反対方向にある、古びた公園へと向かった。

 

公園のベンチには、一人の老人が座っていた。

日焼けした顔に深い皺を刻み、破れた麦わら帽子を目深に被っている。彼の足元には、たくさんの古い「空き瓶」が並べられていた。

老人は、一つひとつの瓶を丁寧に布で拭き、太陽の光に透かして眺めていた。

その所作は、まるで壊れやすい宝石を扱っているかのように慎重で、静謐だった。

「……それ、どうするんですか?」

気づけば、僕は声をかけていた。

普段の僕なら、こんな見知らぬ他人に話しかけることなど、絶対にあり得なかった。

100円という「異物」が、僕の内側にあったはずの、臆病な境界線を壊してしまったのかもしれない。

老人は顔を上げ、細められた目で僕を見た。

その瞳は、濁っているようでいて、奥のほうで不思議な光を湛えている。

「これかい? これはね、『光の器』だよ。ただの瓶じゃない。中に何を入れるかで、光の屈折が変わる。それを眺めているだけで、世界の姿が少しずつ違って見えるんだ」

老人の声は、枯れ葉が擦れ合うような静かな響きを持っていた。

「でも、今日はもう仕舞いだよ。喉が渇いて、もう瓶を拭く力も残っていない」

老人は力なく笑い、並べた瓶をカゴに入れ始めた。

その様子を見ていた僕の手の中で、拾ったばかりの100円が、じりじりと熱を帯びた。

この老人の前に、僕が現れた理由。

その根本にあるものは、ただ自分を安全な場所に置いておくことではなく、この巡り続ける仕組みの中に自分を投げ出すことではないか。

「……これ、使ってください。さっき拾ったんです。あそこの自販機で、何か飲み物を」

僕は、掌の100円を差し出した。

泥だらけで、少し欠けた硬貨。

老人は驚いたように僕の手を見つめ、それから、ゆっくりと首を振った。

「若いの、これはあんたが拾った大切な『きっかけ』だろう。私のような老いぼれに、簡単に渡してはいけないよ。一度手放せば、その巡りはもう二度とあんたの元には戻らないかもしれないんだぞ」

 

「きっかけ……」

 

「そうさ。この世に現れるものは、すべて理由があって現れる。100円がそこにあったのも、あんたがそれを拾ったのも、それは単なる偶然じゃない。巡り合わせの一部だ。あんたがそれをどう動かすかで、世界の根っこが書き換わるんだよ。その重みを、忘れてはいけない」

老人の言葉が、重力を伴って僕の胸に深く沈み込む。

僕は黙って、その100円を老人の膝の上に置いた。

「僕には、まだ何が必要なのか分からないんです。でも、今のあなたには水が必要だ。それだけで、十分な理由になりませんか?」

老人は、しばらくの間、膝の上の100円を見つめていた。

やがて、彼は震える手でそれを取ると、深々と頭を下げた。

その瞬間、彼と僕の間に流れる空気が、パチンと弾けるように澄んだのが解った。

「……ありがとう。それじゃあ、この『巡り』の礼に、私の光の器を一つ、あんたに託そう。これは特別な品だ」

老人が差し出してきたのは、数ある空き瓶の中でも、一際小さく、不思議な青色をした「小瓶」だった。

中には何も入っていない。けれど、夕暮れ時の光を反射して、まるで海の底のような深い青を湛えている。

「その瓶を覗いてごらん。何が見えるかは、あんた次第だ」

老人は100円を持って、公園の隅にある自販機へと歩いていった。

100円が機械に吸い込まれる音が、静かな公園に響く。

ガタン、と。

冷たいお茶の缶が落ちる音。

僕の手の中には、100円の代わりに、青い小瓶が残された。

僕は、その瓶を空に透かしてみた。

青いガラス越しに見える世界は、さっきまでの灰色に塗り潰された風景とは、全くの別物だった。

大学の校舎も、就活のパンフレットも、通り過ぎる車も。

すべてが青い光に包まれ、境界線が溶け出し、一つの大きなうねりとなって流れているように見えた。

 

(巡り、巡っている……)

 

僕の腹は、相変わらず空っぽのままだ。

100円で菓子パンの一つでも買っておけば、この虚脱感は収まったのかもしれない。

けれど、僕の内側には、100円を持っていた時よりもはるかに強烈な「重み」が宿っていた。

100円が、水になり、老人の命を潤し、そして今、僕の手の中で「青い光」へと変容した。

現れたのは、ただの泥まみれの硬貨だった。

けれど、そこから始まった連鎖は、僕という人間を、否応なしに世界の仕組みへと引き摺り込んでいく。

僕は、青い小瓶をカバンに仕舞い、再び歩き出した。

カバンの中には、まだ就職活動のパンフレットが入っている。

けれど、さっきまでの所在なさは、もうなかった。

この小瓶が、次には何と出会うことになるのか。

この世界は、目に見えない何かが、誰かの手を介して形を変え、巡り続ける、壮大な劇場だ。

僕は、その舞台の幕が、今、自分の一歩によって上がったのを感じていた。

100円という、あまりにも小さなコインが投じられた、僕の人生という静かな水面。

そこに広がった波紋は、これから僕を、どこへ運んでいくのだろうか。

巡り、巡る物語は、まだ、始まったばかりだ。

読んでいただきありがとうございます。

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