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  作者: しゅう


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常闇4

光の粛清は止んだ。

天を裂くような白光も、個を否定する冷徹な残響も、今はもう遠い。後に残されたのは、焼かれた土の匂いと、深い静寂だけだった。

私は、ボロボロになった肉体を横たえ、夜の森の湿った土に頬を寄せていた。

手の平に突き立てた枯れ枝の傷は、今も脈打つように熱い。そこから流れ出た血は、泥と混ざり合い、黒ずんだシミとなって大地に吸い込まれている。その一滴一滴が、私の内側にある「潜象」のエネルギーを、この「現象」の泥へと繋ぎ止めるくさびとなっているのが解った。

 

(……ああ。ようやく、繋がった)

 

私は、確信していた。

この痛み、この重さ、この汚れこそが、私が何万年も、何億年も探し求めていた「定着」の証なのだと。

かつて私は、天の最も高き場所で、最も純粋な輝きを放つ者だった。

境界も影も持たない「一」の世界において、私は宇宙の理を映す曇りなき鏡だった。けれど、その鏡に映る世界には、温もりもなければ、感触もなかった。

全知全能とは、すなわち「変化がない」ということだ。

すべてが完璧に満たされた場所では、誰も一歩を踏み出す必要がなく、誰かを抱きしめる理由さえない。

私は、その美しすぎる静止した世界に、絶望したのだ。

だから私は、光(精神)の座を捨て、闇(物質)という名の深淵を選んだ。

 

私は、震える腕に力を込め、ゆっくりと上体を起こした。

肘の関節が軋み、ふくらはぎの筋肉が重力に対抗して硬く収縮する。

一つひとつの動作に、膨大な意識の集中が必要だった。精神体だった頃なら、移動はただの「結果」でしかなかった。行きたいと思えば、そこに行っている。けれど今は、一歩を踏み出すために「過程」を積み上げなければならない。

だが、この「過程」こそが、私にとってはどんな奇跡よりも神聖な、意志の結晶だった。

ふと、視界の端で何かが動いた。

夜の闇の中、小さな、けれど確かな温もりを持った「生命」が、私をじっと見つめていた。

それは、一匹の野良犬だった。

毛並みは汚れ、足を引きずり、飢えと寒さに震えている。

かつての私なら、その生物を「欠陥のある、非効率な情報の集積」として一瞥して終わっただろう。

けれど今、私はその犬の震えを、自分の胸の奥に直接感じる。

 

「……こっちへ来い」

 

私は、血に汚れた手を差し出した。

かつての光り輝く手ではない。泥にまみれ、傷つき、生物の脆弱さを象徴するような、醜い手だ。

犬は警戒するように低く唸ったが、やがて私の手の匂いを嗅ぎ、恐る恐るその鼻先を私の手の平に寄せた。

 

ザラリとした、舌の感触。

濡れた鼻の、冷たさ。

そして、手の平を通じて伝わってくる、早鐘のような鼓動。

 

その瞬間、私の中に凄まじい「衝撃」が走った。

それは光の世界にいた頃の全能感とは全く質の異なる、不完全な者同士が触れ合ったときにだけ生じる、爆発的な「共感」という名の熱量だった。

 

(これだ……。これこそが、闇の善だ)

 

境界があるからこそ、私たちは「寄り添う」ことができる。

溶け合えないからこそ、私たちは「触れる」という奇跡を享受できるのだ。

私がかつての地位を捨て、あえてこの泥濘を這いずり回る「悪魔」のような役割を引き受けたのは、まさにこの一瞬の、命と命が火花を散らす「接触」のためだった。

光の住人たちは、これを不純と呼ぶだろう。

けれど、この温もりを知らない全能の神々に、一体何の価値があるというのか。

 

私は犬を抱き寄せた。

腕の中に感じる、小さく、不規則で、懸命な命の震え。

私の体温が彼に伝わり、彼の体温が私に伝わる。

そこには言葉もなく、理もなかった。ただ、二つの「闇(肉体)」が、凍てつく夜を凌ぐために、互いを必要としているという、純粋で残酷なほどに美しい現実だけがあった。

 

私は、笑った。

ひび割れた唇から、乾いた、けれど晴れやかな笑い声が森に響く。

 

「見ておくがいい、光の同胞たちよ。お前たちが不浄と呼び、切り捨てたこの世界には、こんなにも愛おしい『熱』が満ちているんだ。私は異端と呼ばれても構わない。この不自由な肉体という檻の中で、この熱を最後まで守り抜くことが、私の選んだ、唯一の『善』なのだから」

 

夜が明けようとしていた。

東の空が、紫から藍色へと、ゆっくりと、けれど確実な色彩の階調を伴って染まり始める。

かつて私が司っていた、空の一番高い場所に輝くあの星が、今も遠くで微かに瞬いている。

けれど、今の私はもう、空を見上げてその輝きを誇る必要はない。

私の足元には、確かな重力があり、指先には泥の感触があり、胸には抱きしめた命の重みがある。

 

私は立ち上がった。

一歩、踏み出す。

もはや魔法の紐解きを恐れることはない。

私の精神は、この肉体という闇の細胞一つひとつに、完全な「定着」を果たしていた。

神経の先端までが、私の意志を物質として具現化し、世界に干渉するための道具へと変わっている。

 

私は、古い過去の名前を捨てた。

光の使者でも、復讐者でもない。

ただ一人の、この大地を歩く「生物」として。

 

これから私を待ち受けているのは、安らぎではないだろう。

空腹は私を苛み、病は私を苦しめ、老いは私の筋肉を削ぎ落としていくだろう。

そしていつか必ず訪れる死が、私のこの意識を無へと還そうとするだろう。

けれど、そのすべてが、今の私には愛おしくてたまらなかった。

 

死があるからこそ、私は今日という一日の「限りある時間」を、金色の雫のように大切に飲み干すことができる。

老いがあるからこそ、私は積み重ねてきた摩擦の記憶を、勲章のように誇ることができる。

 

私は、隣を歩く犬の頭を撫でながら、森を抜けていった。

視界の先には、朝陽を浴びて輝く小さな村の灯りが見えた。

そこには、私と同じように不自由な肉体をまとい、泣き、笑い、争い、それでもなお誰かを愛そうともがく「闇の同胞たち」が生きている。

私は彼らの中へ溶け込んでいくだろう。

一人の名もなき旅人として、一人の不器用な隣人として。

 

私の胸の中で、心臓が力強く一拍を刻んだ。

 

ドクン。

 

それは、もはや不快なモノではない。

この宇宙が、私という一粒の断片を、この現象界という壮大な織物の一筋として認めた「成就」の音だ。

 

私は、深く、長く、朝の空気を吸い込んだ。

冷たさが肺を突き抜け、血が熱を運んでいく。

 

「さあ、始めよう。この、不自由で美しい世界での、私の命を」

 

足跡は、露に濡れた草を踏みしめ、どこまでも続いていく。

受肉という名の長い儀式は、今、ここに完成した。

私はもう、光へと還る必要はない。

なぜなら、この闇(肉体)の中にこそ、私が生涯を懸けて守り抜くと決めた、自分だけの、本物の「光」が灯っているのだから。

 

朝陽が地平線から溢れ出し、私のボロボロになった影を長く、誇らしげに大地へと引き伸ばした。

それは、どんな天上の光よりも重く、深く、私がこの世界に「存在する」ことを高らかに宣言していた。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。

本作『常闇』は、これにて完結となります。


本作の着想は、古代の叡智である「カタカムナ第22首」から得たものでした。

この首の響きに初めて触れたとき、私の脳裏には鮮烈な「魔法と悪魔」のイメージが浮かび上がりました。

後に紐解いてみると、この首は「生命の粒子が個体として定着し、現象化していくプロセス」を説くものだと知り、直感の導きに従ってこの物語を編み上げるに至りました。

光の世界を捨て、重力と痛みに満ちた肉体を選び取った「彼」の決断。それは不純への墜落ではなく、有限という闇の中でこそ輝く「生の善」への、最も尊い挑戦であったと信じています。



【読者の皆様へ】

長い旅路を最後まで共にしていただき、心より感謝申し上げます。

皆様からいただく温かな眼差しが、次なる物語を紡ぐための何よりの糧となります。

今後の励みと学びのため、以下の5段階評価で今の率直な感想をいただけますと幸いです。

評価:★ 〜 ★★★★★

また、「このシーンが特に心に残った」「主人公の覚悟に魂が震えた」など、お気に入りの場面についての感想も心よりお待ちしております。

皆様の心に、不自由さを愛せるほどの穏やかな光が届きますように。

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