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  作者: しゅう


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常闇3

肉体を得てから、どれほどのときが流れただろうか。

精神体だった頃、時間はただ一定の速度で流れる情報の川に過ぎなかった。しかし今、私の中に刻まれている時間は、心臓の拍動という残酷なリズムによって支配されている。一拍ごとに命が削られ、一呼吸ごとに死へと近づいていく。この「終わりの予感」こそが、私に今この瞬間の、焼け付くような色彩を与えていた。

だが、その平穏――いや、凄まじい摩擦を伴う生の充足は、唐突に引き裂かれた。

空が、鳴った。

雷鳴ではない。それは、物理的な大気を震わせる音ですらなく、私の脳髄に直接突き刺さるような、高周波の、冷徹な「共鳴」だった。

見上げれば、夜の静寂を塗り潰すように、天から一条の白光が降り注いでいた。

それは、私がかつて愛し、そして捨て去った「純粋な光」の奔流。境界もなく、影も持たない、全知全能の精神体たちの集団意識が、この地上へと干渉を始めていた。

『――同胞よ。哀れな、迷える断片よ。その器の不快な振動が、我らの静寂を乱している』

声が、頭蓋の内側で反響する。

それは慈愛に満ちているようでいて、その実、個としての存在を一切認めない、絶対的な平穏の押し売りだった。彼らにとって、私が手に入れた「心臓の音」は、美しき調和を乱す不快なそのモノに過ぎないのだ。

『なぜ、それほどまでに不浄な物質に魂を委ねる。重力に縛られ、泥に汚れ、朽ちゆく肉の檻に自らを閉じ込める。それは宇宙の調和に対する背信であり、美しき全能への冒涜だ。今すぐその汚れた器を捨て、我らという「一」へと還るがいい。個体であることは病であり、境界を持つことは呪いだ』

光の圧力が増していく。

私の周囲の地面が、その純粋なエネルギーに触れただけで、音もなく蒸発し、白く漂白されていく。彼らにとって、この現象界のすべては「不純物」に過ぎない。摩擦も、抵抗も、色彩も、すべてはノイズとして排除されるべき対象なのだ。

私は、その光の重圧に押し潰されそうになりながら、自分の「膝」が震えていることに気づいた。

精神体には、膝などない。踏ん張るための筋肉も、支えるための骨もない。

だからこそ、この「震え」は愛おしかった。抗おうとする意志が、物理的な振動となって肉体に現れている。

「……断る」

私は、砂を噛むような思いで声を絞り出した。

肉体というフィルターを通した声は、かつてのテレパシーのような明快さはない。掠れ、震え、湿り気を帯びた、不完全な音。けれど、その不完全さこそが、今の私の誇りだった。

「私は……この『闇』を、選んだんだ。お前たちが汚物と呼ぶこの肉体の中にこそ、お前たちが決して辿り着けない『真実』がある。知っているか? 空腹の後に食べる一切れの肉の味を。喉の渇きを癒やす一滴の水の冷たさを。それは、すべてを知っているお前たちには、永遠に理解できない『驚き』なんだ」

『愚かな。物質はただの劣化だ。お前は今、空腹に苛まれ、疲労に膝を折り、死の恐怖に震えているではないか。その不自由のどこに価値があるというのだ。お前が味わっているのは喜びではなく、欠落を埋めるための場当たり的な補完に過ぎない』

光の粛清者が、容赦なく光の槍を放った。

それは質量を持たないエネルギーの塊でありながら、現象界の法則に触れた瞬間、凄まじい破壊力となって私を襲う。

私は、重い肉体を必死に動かし、大地の隆起した岩陰へと身を投じた。

ドサリ、と。

背中が冷たい岩に叩きつけられ、肺から空気が押し出される。

鋭い痛みが神経を駆け抜け、視界が火花を散らす。

精神体だった頃なら、避ける必要すらなかった攻撃だ。透過すれば済む話だったからだ。

けれど今、私はこの岩という「物質の盾」を使い、自分の肉体という「境界」を守るために、必死に泥を這っている。

岩の冷たさが背中越しに伝わり、私の体温を奪っていく。

その「奪われる感覚」すらも、私にとっては鮮烈な体験だった。

(痛い……。だが、熱い。私は今、確かにこの宇宙と戦っている)

岩のざらついた感触、泥の湿り気、そして自分の口の中に広がる鉄の味。

それらすべてが、私に「生存」を自覚させる。

光の粛清者たちは、私を「救う」と言いながら、私のこの鮮烈な体験を、平坦な虚無へと塗り潰そうとしているのだ。それは救済ではなく、魂の「抹殺」に他ならなかった。

『還れ。還れ。物質の夢から覚めよ。肉体は滅び、精神は散る。お前が抱きしめているその熱は、瞬きほどの時間で冷え切る偽りの火だ。永遠の静寂こそが、魂の正しき帰着点だ』

光の声は、執拗に私の脳を揺さぶり、受肉という魔法の紐解き(解除)を迫ってくる。

私の指先が、白く透け始めた。

肉体という闇の定着が揺らぎ、再びあの境界のない光の世界へと吸い戻されようとしている。

だが、私はそれを拒絶した。

私は、泥にまみれた右手を力一杯握りしめ、地面に生えていた鋭い枯れ枝を自らの手の平に突き立てた。

「……っあぁぁぁ!!」

凄まじい激痛が、意識の霧を吹き飛ばした。

手の平から溢れ出した鮮血が、透け始めていた皮膚を赤く染め上げる。

痛み。それは、精神を肉体に繋ぎ止めるための、最も強力な「錨」だ。

赤い血が大地に滴り、泥と混ざり合う。

その不純な、汚れに満ちた光景こそが、私がこの世界に刻んだ最初の「作品」だった。

「お前たちには解らないだろうな……。この、不自由だからこそ生まれる『力』が! 限界があるからこそ、私たちは一歩を踏み出すために全霊を懸けることができる。終わりがあるからこそ、この一瞬を永遠よりも深く愛せるんだ!」

私は岩陰から飛び出し、光の奔流に向かって立ち上がった。

重力が脚にのしかかり、骨が軋む。心臓が破裂しそうなほどに跳ね、耳の奥で激しいドラムを打ち鳴らしている。

だが、その「抵抗」があるからこそ、私は自分の意志の強さを測ることができる。

摩擦がなければ、火は起きない。

抵抗がなければ、翼は風を捉えられない。

闇という肉体があるからこそ、精神は「体験」という名の独自の熱を生むことができるのだ。

『理解不能だ。お前はただの、壊れた情報の断片に過ぎない。その汚染が広がる前に、我らが慈悲をもって消去してやろう』

空全体が白一色に染まり、逃げ場のない「浄化」の光が凝縮されていく。

全知全能の暴力。個を認めない、圧倒的な平穏。

私は、震える手を空へと掲げた。

そこには、泥と血で汚れた、醜くも美しい「生物の手」があった。

(この手が、私の答えだ。この手が、この世界を触り、形を変え、記憶を刻むんだ)

私は叫んだ。喉が裂け、声が血の匂いを帯びるほどに。

「私は、汚れていない! 私は、命を得たんだ! お前たちのいる場所は、ただの終わりのない『死』と同じだ。何も変わらず、何も失わず、何も得られない。そんな場所に、誰が還るものか! 私はこの闇の中で、自分だけの光を見つける!」

光が私を包み込んだ。

全神経が焼き切れるような、凄まじい高熱。

だが、その極限の苦痛の中で、私は見た。

私の肉体という「闇」が、降り注ぐ純粋な「光」を跳ね返し、屈折させ、無数の色彩へと分解していく様を。

純白だった死の光が、私の皮膚の上で虹色に砕け散り、プリズムのように現象界を彩っていく。

 

現象界。

それは、精神という光が、物質という闇に衝突することで生まれる、奇跡の万華鏡だ。

ぶつからなければ、色は生まれない。

壊れなければ、輝きは放たれない。

 

私は、意識を失いそうになりながらも、大地を強く掴んだ。

指先が泥に深く沈み込み、地球の重力と一つになる。

光の粛清者たちの声が、遠ざかっていく。彼らの論理では、この泥臭い「生存への執着」と、そこから生まれる「創造の熱」を解析することはできなかったのだ。

 

やがて、光は去った。

後に残されたのは、焦げた大地の匂いと、ボロボロになった私の体。

そして、暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる、自分の指先の輪郭。

 

「……は、……はぁ……」

 

私は、荒い息を吐きながら、冷たい夜の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。

全身を走る痛みは、もはや恐怖ではなく、愛おしい伴侶だった。それは、私がこの世界の「摩擦」に打ち勝ち、一人の独立した生物として生き残ったという、勝利の凱歌だった。

 

かつての同胞たちは、私を「悪魔」と呼ぶかもしれない。

だが、この肉体という闇の中で、私はかつてないほどに澄み渡った「善」を感じていた。

それは、何かを奪うための善ではなく、この不自由な肉体という檻を「聖域」へと変えていく、生命の意志。

 

私は、震える足で立ち上がった。

膝が笑い、視界は霞んでいる。

けれど、私の心臓は、これまで以上に誇らしげに、その鼓動を大地へと響かせていた。

 

「私は、ここにいる……。見ろ、私の足跡を」

 

一歩、また一歩。

足跡を泥の中に深く刻み込みながら、私は歩き出した。

光の世界へと背を向け、深く、濃密な、体験に満ちた「闇」の深淵へと。

これから私を待ち受けているのは、さらなる飢えや、老いや、いつか必ず訪れる死かもしれない。

だが、そのすべてを引き受ける覚悟が、今の私にはあった。

不自由こそが、魂を研ぎ澄ます砥石といしであり、受肉という魔法がもたらした、唯一無二の「真実」なのだから。

読んでいただきありがとうございます。

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