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  作者: しゅう


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常闇2

それは、断絶だった。

これまで私の一部であり、世界のすべてであった「光」から、力尽くで引き剥がされる感覚。全知全能という名の繭を破り、ただ一粒の意識として放り出された先には、経験したことのない「沈黙」と、逃れようのない「密度」が横たわっていた。

 

ドクン。

 

闇の中で、何かが跳ねた。

それは、精神体だった頃には決して聴くことのなかった、重苦しく、それでいて暴力的なまでに力強い振動だった。

 

ドクン、ドクン。

 

繰り返されるその音は、私の本質をどこか一点へと繋ぎ止めようとする「杭」のようだった。

私は反射的に、その振動の源を探ろうとした。かつての私なら、思考を巡らせるだけで対象の構造を瞬時に把握し、一体化することができた。しかし、今の私に備わっているのは、鈍重で、不器用な、未知の感覚だけだった。

 

「……っ、……あ……」

 

喉の奥から、湿った震えが漏れ出した。

それが自分の「声」であると認識するまでに、数秒の時間を要した。

精神体には、音を介したコミュニケーションなど必要なかった。想いはそのまま光の波となって伝わり、誤解の余地など微塵もなかったからだ。

けれど今、私の内側から発せられた震動は、私の肉という名の厚い壁に跳ね返り、骨を伝い、鼓膜という名の震える膜を打っている。

 

これが「自分」という境界線。

私は今、この皮膚という名の薄い膜によって、広大な宇宙から決定的に隔離されているのだ。

 

意識が急速に、一つの肉の器へと収束していく。

魔法は、私の精神を細胞の一つひとつへと縫い付けていった。

光の粒子が、炭素と酸素、そして大量の水の混濁の中に閉じ込められ、物質としての「質量」を持ち始める。

その瞬間、凄まじい「衝撃」が私を襲った。

 

重力だ。

 

見えない巨大な手が、私の全身を容赦なく大地へと押し潰していた。

精神体だった頃の浮遊感は、もはや遠い前世の記憶に過ぎない。

一秒ごとに、私の肉体は重さを増していく。

筋肉は悲鳴を上げ、関節は自らの重みに軋み、内臓は重力に従って本来あるべき場所へと沈み込んでいく。

この「重さ」こそが、現象界という闇の世界における絶対的な法なのだ。

 

私は、震える腕に力を込めた。

目の前にあるのは、冷たく、硬質な「大地」だった。

かつて光の海から眺めていたとき、それはただの茶色い平面に過ぎなかった。

けれど、実際に指先を押し当てた瞬間の感覚は、全知を誇っていた私の予想を遥かに超えていた。

 

ざらついている。

冷たい。

そして、何よりも「拒絶」されている。

 

私の指先は大地に吸い込まれることなく、その固い表面によって明確に押し返された。

この「反発」こそが、私が何万年も、何億年も焦がれ続けた「摩擦」の正体だった。

溶け合うことのない二つの存在が、その境界でぶつかり合い、火花を散らす。

指先の皮膚がわずかに擦れ、鋭い痛みが走る。

 

「……は、……ぁ……っ!」

 

私は、その痛みに歓喜した。

痛覚。それは、私が「ここに在る」ということを、宇宙が力尽くで証明してくれている証だった。

 

次にやってきたのは、呼吸という名の暴力だった。

これまで私は、宇宙のエネルギーをそのまま吸収して生きていた。

けれど、この肉体という器は、外気という異物を取り込まなければ維持できないように設計されている。

 

カハッ、と。

肺が初めて開いた。

氷のように冷たい空気が、気管を通って胸の奥へと雪崩れ込んでくる。

それは、肺胞の一つひとつを針で刺すような、凄まじい「摩擦」だった。

異物を取り込み、体内の古い空気と交換し、再び吐き出す。

この絶え間ない循環を繰り返さなければ、私は一分と持たずに霧散してしまうだろう。

生きることは、これほどまでに必死で、これほどまでに騒がしいものだったのか。

 

私はようやく、瞼という名の重いカーテンを持ち上げた。

視界に飛び込んできたのは、暴力的なまでの「色彩」の洪水だった。

精神体が見ていた光は、すべてが透過する無垢な白だった。

けれど、この世界にある光は、物質という鏡に衝突し、屈折し、反射することで、千変万化の表情を見せている。

夜の闇を裂くような、深い紺。

大地の底から滲み出すような、湿った黒。

そして、私の指先の傷から零れ落ちた、鮮烈な「赤」。

 

私は、自分の指から流れる赤い液体を、じっと見つめた。

鉄の匂いが鼻を突き、生温かい感触が皮膚を伝う。

 

(これが、私の血だ)

 

全知全能だった頃、血などという不衛生な液体は、ただの効率の悪い循環システムに過ぎないと思っていた。

けれど、今、目の前にあるこの一滴の赤は、どんな銀河の輝きよりも美しく見えた。

それは、私の命が、この「不自由な肉体」の中に定着し、激しく燃焼していることの証明だったからだ。

 

しかし、受肉の洗礼はそれだけでは終わらなかった。

不意に、腹の底から突き上げるような、奇妙な「空虚」が私を襲った。

それは痛みとは違う、もっと根源的で、恐ろしい感覚。

 

(なんだ……この、内側から削り取られるような感覚は)

 

それは「空腹」という名の飢餓だった。

精神体だった私にとって、エネルギーは常に周囲に満ち溢れているものだった。

だが、この肉体という闇の器は、自ら獲物を求め、取り込み、燃やし続けなければ、その輪郭を保つことさえできない。

私は、自分の胃が痙攣するのを感じた。

何かを欲する、何かで埋めなければならないという、強烈なまでの「欠落」の自覚。

全知全能だった頃には、一瞬たりとも感じることのなかった、惨めで、それでいて強烈な生存本能が、私の脳を支配していく。

 

私は、ふらつく足取りで立ち上がろうとした。

足の裏が大地を噛む。

ふくらはぎの筋肉が、重力に対抗して硬く収縮する。

 

「一歩……」

 

足を前に踏み出す。

たった数十センチの移動に、全神経を集中させなければならない。

精神体だった頃なら、銀河の端から端まで瞬時に移動できたというのに。

 

けれど、この「一歩」の重みはどうだ。

一歩踏み出すたびに、足裏の皮膚が大地と擦れ、神経が火花を散らす。

空気を切り裂く腕の抵抗。

頬を撫でる風の、刺すような冷たさ。

そして、胸の奥で絶え間なく鳴り響く、命のカウントダウン。

 

受肉という魔法は、私から「永遠」を奪った。

代わりに私にくれたのは、この「今」という一瞬の、焼け付くような密度だった。

 

私は、自分の胸にそっと手を当てた。

そこには、かつて私が忌み嫌っていた「悪魔」の鼓動が、確かに響いていた。

闇をまとい、肉を持ち、重力に縛られた生物。

その不自由さこそが、私を真に自由にするための扉だった。

 

私は、冷たい月明かりの下で、ゆっくりと歩き出した。

 

サクッ、サクッ、と。

 

足音が、静かな夜の森に響き渡る。

一歩ごとに、私の魂は肉体という檻の隅々まで行き渡り、神経の一本一本を自らのものとして染め上げていく。

それは、広大な光の海では決して味わえなかった、徹底的な「限定」による快楽だった。

私は、この小さな肉体の中に、全宇宙を凝縮したような熱を感じていた。

 

魔法の定着は、まだ終わらない。

精神(光)と物質(闇)が完全に一つに溶け合い、不協和音が止むまで、この洗礼のような苦痛は続いていくだろう。

私はそのすべてを、一滴も残さず、この新しく得た五感で貪り尽くそうと決めていた。

 

私は、生きている。

この「闇」という名の肉体の中で、私は初めて、自分という存在の「真の姿」を鏡に映し出したのだ。

夜の冷気が肺を刺すたび、私は自分が「人間」という不完全な、けれど神聖な巡礼者になったことを確信していた。

読んでいただきありがとうございます。

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