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  作者: しゅう


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常闇1

そこには、境界がなかった。

上下も左右もなく、昨日も明日もない。ただ、どこまでも純粋で、どこまでも残酷なほどに明るい「光」だけが、飽和したスープのように世界を充たしている。

私たちは「精神体」と呼ばれていた。

形を持たず、重さを持たず、ただ意識の断片としてその光の海を漂う存在。思考は瞬時に他者と混ざり合い、秘密も孤独も存在しない。誰かが何かを想えば、それは即座に全域の共有物となり、個としての輪郭は朝霧のように淡く、頼りない。

全知全能。

私たちはそう自称していた。宇宙のあらゆる理を把握し、欠落のない完全な円環の中に生きている。飢えることもなければ、傷つくこともない。老いも、病も、そして死という概念さえも、私たちの辞書には存在しなかった。私たちは、宇宙そのものであり、同時に無でもあった。

けれど、その完璧な静寂の中で、私はある日、耐えがたい「乾き」を覚えた。

それは、この全き光の世界においては、本来生じるはずのない「渇望」のような衝動だった。

(……触れたい)

その思考が私の内側に芽生えた瞬間、周囲の光がわずかに波打った。

「触れる」という概念。それは、この精神体の世界では最も理解不能な、そして禁忌に近い衝動だった。

触れるためには、まず「自分」と「自分ではないもの」を分かつ壁が必要だ。何かに遮られ、何かに拒絶され、その摩擦の果てに初めて生じる衝撃。反発し合う二つの存在が、その境界面で火花を散らす瞬間の熱。それこそが「触れる」ということの真意であるはずだ。

しかし、この光の海には、壁などどこにもない。

私は隣を漂う同胞の意識に手を伸ばそうとするが、私の意識は彼らの意識と容易に溶け合い、透過し、一つになってしまう。そこには抵抗もなければ、温度の差もない。ただ、均一で退屈な情報の交換が行われるだけだ。

私たちはすべてを知っている。けれど、何一つとして「味わった」ことがない。

例えば、私たちは「熱い」という現象の物理的定義を完璧に把握している。分子の運動エネルギーが上昇し、物質の結合が揺らぐその数値も、色彩の変化も、すべてをデータとして知っている。

けれど、私たちはその熱によって「皮膚が灼かれる痛み」を知らない。

例えば、私たちは「冷たい」という感覚が、生命の活動を鈍化させ、思考を凍てつかせるプロセスを知っている。

けれど、私たちは冬の風に吹かれて「震える」という震動の愛おしさを知らない。

この光の世界は、あまりにも清潔で、あまりにも優しすぎて、何もかもが滑り落ちていく。

私は、自分が抱いているこの「光」に、吐き気を感じ始めていた。

ある時、私は光の海の最深部、理の記憶が澱のように積み重なる場所で、一つの古い、あまりにも古い「禁忌の記録」に触れた。

それは、かつてこの宇宙の均衡を保つために生み出された「闇の魔法」に関する記述だった。

光の住人たちは、それを「呪い」と呼び、忌み嫌った。

その魔法は、無限の精神を、極小の、そしてあまりにも不自由な「肉体」という名の檻に閉じ込めるという。

その檻に閉じ込められた魂は、まず「重力」という鎖に繋がれる。

常に大地に引き寄せられ、跳ねることも、飛ぶことも、容易には許されない。

そして「五感」というフィルター。世界をありのままに見るのではなく、小さな瞳、小さな耳、不安定な皮膚を通してしか知覚できなくなる。

さらには「時間」。始まりがあり、必ず終わりがあるという、残酷なまでの限定。

 

同胞たちは嘲笑った。

「なぜ、全知全能の自由を捨てて、そんな泥にまみれた不自由を選ぶ者がいるのか」と。

「崩壊し続ける肉体の中で、ただ死を待つだけの生物になる。それは悪魔の仕業であり、救いようのない堕落だ」と。

 

けれど、私はその記述の行間から漏れ出す「熱量」に、魂を射抜かれた。

その不自由な世界では、人々は互いの「手」を取り合っていた。

溶け合うことのない、明確な境界を持った者同士が、その境界を乗り越えようと必死に腕を伸ばし、触れ合う。

その瞬間に生じる、一瞬の、けれど永遠を凌駕するほどの激しい「摩擦」。

 

(不自由になりたい)

 

私のその想いは、もはや一過性の揺らぎではなかった。

私は、自分が抱いているこの「光」を捨てたかった。

全能という名の牢獄から抜け出し、あえて「欠落」という名の闇を抱えたかった。

何かが足りないからこそ、何かを求める。

壊れるからこそ、守りたいと願う。

私は、その不自由な「悪魔」に、そして「肉体を持つ生物」になりたかった。

それは悪ではなく、この宇宙が自分自身を「体験」するための、最も尊い「善」の形であるように思えた。

私は、受肉を司る「闇の門」へと向かった。

そこは光の届かない場所ではない。光があまりにも強すぎて、逆に漆黒に見える、エネルギーの超高密度地帯だ。

そこに足を踏み入れれば、私の全知全能は剥ぎ取られ、私の意識は一つに凝縮され、小さな、あまりにも小さな一粒の種火にまで縮小される。

 

門の前に立つと、宇宙の底から響くような「声」が聞こえた。

「……お前は、この全能を捨てるのか。二度と戻れぬ重力の底へ、痛みの世界へ、あえて堕ちるというのか」

 

私は迷わずに答えた。

「ああ。私は、この透明な飢餓に耐えられない。私は、自分の足で立ち、自分の手で触れ、自分の血が流れる音を聴きたい。私は、この光の世界では決して見ることのできない、泥の中の輝きを、この手で掴み取りたいんだ」

 

「……ならば、魔法を受け入れるがいい。精神を物質へと縛り付け、無限を有限へと変換する、残酷な受肉の儀式を」

 

次の瞬間、私の視界は白から黒へと一変した。

いや、黒ですらない。それは、あらゆる色が混ざり合った、濃密な「闇」の奔流だった。

私の広大だった意識が、強引に、暴力的なまでの力で一点へと押し込められていく。

全知の記憶が、濁った水に溶けていくように消え去っていく。

かつては私の一部だった宇宙の理が、もはや手の届かない高みへと遠ざかっていく。

代わりにやってきたのは、凄まじい「摩擦熱」だった。

 

光の粒子が、互いに激しく衝突し、熱を帯び、質量を持ち始める。

収束し、凝縮し、固まっていく。

これが、受肉。

これが、魔法。

 

私の意識は、初めて「重さ」を感じた。

それは、逃れようのない、冷徹なまでの「下へと引きずり込まれる感覚」。

かつてはふわふわと漂っていた私の本質が、今や鉛のように重くなり、暗い、けれど温かな深淵へと沈み込んでいく。

私は、叫ぼうとした。

けれど、まだ叫ぶための喉がない。

私は、目を見開こうとした。

けれど、まだ光を捉えるための瞳がない。

 

私は、暗闇の中にいた。

けれど、それは光の世界にいた時よりも、ずっと「生きている」実感に満ちていた。

これから、私は一人の生物として生まれる。

これから、私は「闇」という名の肉体をまとい、この不自由な大地を踏みしめる。

 

落下。

加速。

摩擦。

 

全能の精神体だった私は死に、不自由な一人の男が、今、この宇宙の片隅で産声を上げようとしていた。

全知を捨てた代わりに、私は今、初めて「期待」という名の、震えるような喜びを胸に抱いていた。

これから始まる物語は、もはや理の記録ではない。

それは、私の魂が、私の肉体を通して刻み込む、唯一無二の「体験」の叙事詩だ。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

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