イマ、イマ、イマ4
スッスッ ハッハッ
スッスッ ハッハッ
スッスッ ハッハッ
スッスッ ハッハッ
スッスッ ハッハッ
ゴールラインを越えた瞬間、世界から一切の音が消えた。
数万人の歓声も、マイクを通した実況の声も、激しく波打つ自分の鼓動さえも、遠い宇宙の彼方へと吸い込まれていくような奇妙な静寂。
私は、震える膝を抱えるようにしてアスファルトに突っ伏した。
視界に入るのは、誰かに踏みつけられた紙コップと、何万もの足跡が刻まれた冷たい地面だけだ。けれど、その光景がこの上なく神聖なものに見えた。
「……あ、……りがとう、ございます……」
喉の奥から絞り出した声は、風にさらわれて消えるほど微かだった。
けれど、その瞬間の私には確信があった。私の発した感謝は、空に消えたのではなく、この大地へ、そして私という肉体の細胞一つひとつへ、永遠に「定着」したのだ。
係員から肩にかけられた完走タオルは、驚くほど重く、そしてあたたかかった。首に下げられたメダルの冷たさが、これが現実であることを静かに告げていた。
私は、ゆっくりと立ち上がった。
三万五千円の最新シューズは、今や見る影もなく泥に汚れ、ソールの角は限界まで削り取られている。かつてはあんなに見栄を張るために欲しがった「形」の象徴。しかし、今私の足元にあるそれは、私のエゴを燃やし尽くし、本当の「今」へと連れてきてくれた聖なる残骸だった。
会場を後にし、駅へと向かう道すがら、私はスマートフォンを取り出した。
通知画面には、削除しきれなかったアプリからの広告や、さほど親しくもない知人からのメッセージがいくつか並んでいた。
かつての私なら、完走した証拠の写真を即座にアップロードし、賞賛のコメントが付くのを一分おきに確認していただろう。他人の目に映る自分を確認しなければ、自分の価値を信じられなかったからだ。
しかし、今の私は、一度もカメラを起動しなかった。
この内側に灯った静かな光を、安っぽいデジタル信号に変えて切り売りしたくない。誰に認められる必要もない。神様と私だけが知っている、あの三十五キロ地点での「宇宙との合意」。それだけで、私の魂は満ち足りていた。
私は静かに、電源を切った。
翌朝、私は凄まじい全身の激痛とともに目を覚ました。
指一本動かすのも困難なほどの筋肉痛。ベッドから這い出すのに数分を要し、這うようにして洗面所へ向かう。
鏡の前に立った私は、そこに映る自分を見て、ふと手を止めた。
そこには、一昨日までの私と同じ顔をした男が立っていた。年齢相応のしわ、寝不足のクマ、少しだけ引き締まった程度の肉体。
けれど、瞳の奥にある輝きだけが、決定的に変わっていた。
濁りのない、透き通った湖のような静寂。
私は、自分の胸にそっと手を当てた。
(イマ、イマ、イマ……)
あのリズムは、走るのをやめた今も、私の内側で脈動し続けていた。
走っている時だけの特別な現象ではなかったのだ。私が生きている限り、眠っている時も、仕事をしている時も、絶望している時でさえ、宇宙はこの「今」というリズムを刻み続け、私という存在を支え続けてくれている。
私は、洗面台の鏡に向かって、小さく、けれど確かな言葉を口にした。
「神様、お助けいただきましてありがとうございます」
その言葉を口にした瞬間、私の日常は、魔法にかかったようにその色彩を変えた。
出勤途中の満員電車。
以前なら、肩をぶつけてくる他人に苛立ち、遅延を繰り返す運行状況に悪態をついていただろう。けれど今の私は、目の前で苦しそうに吊り革に掴まる若者や、スマートフォンの画面を虚ろに見つめる会社員たちの中に、かつての自分の姿を見た。
誰もが、それぞれの「42.195キロ」を必死に走っているのだ。
彼らもまた、気づいていないだけで、同じ宇宙の中心から湧き出すリズムによって生かされている。
そう思ったとき、心の中から刺々しい感情が消え去った。私は、心の中でそっと呟いた。
(あなたも、お助けいただけますように)
職場に着くと、デスクには相変わらず山積みの書類と、不機嫌そうな上司の背中があった。
「おい、昨日は休みだったんだから、これ今日中に終わらせろよ」
投げつけられた言葉に、以前の私なら腹を立て、自分を正当化する言葉を探していただろう。けれど今の私は、ただ静かに「承知いたしました」とだけ答え、キーボードに指を置いた。
キーを叩く音。誰かの話し声。コピー機の作動音。
それらすべての雑音が、不思議と心地よいオーケストラのように聞こえた。
どんなに理不尽な状況であっても、私が「今」に定着し、感謝の声を持ち続けている限り、私の魂が汚されることはない。私の価値は、他人の評価や仕事の成否によって決まるのではなく、宇宙の中心と繋がっている、その一点にのみ存在しているからだ。
冬が深まり、夜が早くなった。
私は、仕事帰りの冷たい空気の中を歩くのが好きになった。
空を見上げると、そこには凛とした月が浮かんでいる。
「月の灯……」
ふと、そんな言葉が口をついて出た。
かつての私は、暗闇を恐れていた。将来の不安、老いへの恐怖、孤独への絶望。それらを紛らわすために、高価なブランド物やSNSの反応という、刹那的な「光」を求めて彷徨っていた。
けれど、今の私にはわかる。
本当の光は、外側から得るものではない。
暗闇を照らす灯は、すでに私の内側に神様との約束として定着しているのだ。
私は、静かに歩みを止めた。
街の喧騒から少し離れた小さな公園。冬の枯れ木の間から、月光が地上に降り注いでいる。
私は深く息を吸い込み、全身の細胞を開放した。
私が走った四十二キロ。
あれは、単なるマラソン大会の記録ではなかった。
それは、私の魂が「形」という牢獄から抜け出し、宇宙の真理へと辿り着くための、神聖な巡礼だったのだ。
これからも、私の人生は続くだろう。
また壁にぶつかり、膝を突き、立ち上がれなくなる日も来るかもしれない。
けれど、私はもう、迷わない。
私の中には、あの三十五キロ地点で見つけた、ダイヤモンドのように純粋な「声」がある。
「神様、お助けいただきましてありがとうございます」
その一言があれば、どんな暗闇も穏やかな光に変わる。
私は、再びゆっくりと歩き出した。
冬の夜気を胸いっぱいに吸い込み、アスファルトを叩く一歩一歩に、感謝を込めて。
(イマ、イマ、イマ……)
足音が、銀色の月夜に響き渡る。
その音は、もはや私一人のものではなく、この世界、この宇宙、すべての生命と共に鳴り響く、祝福の賛歌だった。
私は一歩を踏み出す。
永遠へと続く、この「今」という瞬間の中に、確かな足跡を刻みながら。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。
本作『イマ、イマ、イマ』は、これにて完結となります。
本作の着想は、古代の叡智である「カタカムナ第21首」から得たものでした。
この歌の中に流れる「アマツクニ」という響きに触れたとき、私の内側で「天之御中主神」という御名が強く共鳴したのです。
宇宙の根源を司る神話的な存在と、肉体の限界に挑むマラソンというスポーツ。一見、対極にあるような二つが、なぜ私の中で分かちがたく結びついたのかは、今でも不思議でなりません。けれど、走り抜いた主人公が見つけた「イマ」というリズムは、まさに私たちが元来持っている、宇宙と繋がるための鼓動だったのかもしれません。
【読者の皆様へ】
長い旅路を最後まで共にしていただき、心より感謝申し上げます。
皆様からいただく温かな眼差しが、次なる物語を紡ぐための何よりの糧となります。
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