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  作者: しゅう


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73/112

神世人世1

それは、歴史の教科書が語る「文明開化」の喧騒が、まだ東北の深い雪に遮られて届かぬ頃の出来事であった。

人知を超えた高天たかまの境界。そこには、形もなければ名もない、ただ純粋なエネルギーのうねりだけが存在する場所がある。万物を外へと押し出す、烈火のごとき「動」の渦。そして、すべてを内へと飲み込み、形をなして定着させる、深淵のごとき「静」の渦。この二つの巨大な螺旋は、永劫とも思える時間をかけて互いの尻尾を追いかけ、混ざり合い、宇宙の絶妙な均衡――「正反のバランス」を保っていた。

だが、ある時、その均衡がわずかに揺らいだ。

地上の世界が、あまりにも「理屈」と「形式」に縛られ始め、生命本来が持つ野性的な輝きを失いかけていたからだ。人々は天を仰いで風の声を聴くことを忘れ、土の匂いに宿る神気を感じることを忘れ、ただ目に見える数字と記号、あるいは西洋から届く新たな「法」という定規で、自らの生命を測り始めていた。

天から見下ろせば、人世はひどく痩せ細り、呼吸を忘れた灰色の塊のように見えた。その歪みを正すためには、神そのものが肉の器を借りて降り立ち、再び「生」の震動を地に刻む必要があった。

「時が、満ちた」

言葉なき意思が、神界の静寂を震わせた。

神の意思の一部が螺旋から引き剥がされた。それは彗星のごとき眩い光の尾を引き、明治という時代の胎内を突き抜け、厳冬の奥州、八戸の地へと真っ向から墜ちていった。それは、物質という不自由な檻への、輝かしい「墜落」であった。


明治初期。八戸の冬は、すべてを凍てつかせるほどに鋭く、大気さえもが鋭利な氷の破片となって肌を刺した。

政府の役人を務める家の屋敷では、産室から漏れ出る女たちの緊迫した叫び声が、氷の張った長い廊下に冷たく跳ね返っていた。主である父は、理知的な顔立ちに隠しきれない焦燥を浮かべ、何度も懐中時計の蓋を開閉していた。彼にとって、秩序こそが世界のすべてであった。文明とは混沌を整理することであり、法とは人の獣性を律することである。

だが、その夜、彼の生涯かけて築き上げた秩序を、根底から揺るがすような「力」が、この世に産声を上げた。

「ぎゃあああああああ!」

それは赤子の泣き声というよりは、地中の奥深くから噴き出したマグマの咆哮のようであった。

産婆が震える手で抱き上げた赤子――後のたけしは、生まれたその瞬間に、カッと両目を見開いていた。その瞳には、生まれたばかりの赤子が持つはずのない、周囲を射抜くような鋭い光が宿っていた。

「この子は……一体……」

産婆は思わず腕の力を緩めそうになった。抱き上げた布越しに伝わってくる熱量が、尋常ではなかった。赤子の小さな体から放たれる圧倒的な生命の「圧」が、部屋中の空気を震わせ、据えられた行灯の火を激しく揺らした。それは、ただの生命力ではない。この世の法則を押し広げようとする、むき出しの「正」のエネルギーであった。

父が恐る恐るその子を腕に抱いた時、彼は慈しみよりも先に、背筋を凍らせるような「恐怖」を覚えた。自分が信じてきた明治の「理」が、この小さな生命の前では紙切れのように無力であると感じたのだ。剛と名付けられたその命は、その夜から、周囲が押し付ける「子供らしさ」という壁を蹴り破り始めた。

二歳になる頃には、邸宅の頑強な土壁を素足で蹴り砕き、庭の若木を素手でなぎ倒した。剛にとって、それは破壊ではなく、溢れ出す力を抑えきれない「生」の震動に過ぎなかった。彼の小さな体は、常に微かな熱を帯びて震えており、触れる者の指先を焼くかのようだった。

その制御不能なエネルギーに耐えかねた父は、ついに自らの安寧を優先し、剛を「手に余る不吉な子」として、人里離れた古びた寺へと預ける決断を下したのである。

父が剛を寺の門前で手放した時、剛は泣きもしなかった。ただ、足早に去りゆく父の背中を、すべてを見透かしたような昏い瞳で見つめていた。その視線には、捨てられた子供の悲しみなどは微塵もなく、ただ「これで、この窮屈な場所から解放されるのか」とでも言いたげな、醒めた納得が漂っていた。彼は幼い身空で、すでに己が「異質」であることを受け入れていたのである。


時を同じくして、わずかに離れた、商家の奥座敷。

そこには、剛の誕生とは正反対の、奇妙なほどに静謐な時間が流れていた。

外では雪が深々と、音もなく降り積もり、街の喧騒も、人の気配も、すべてを白銀の沈黙の中に飲み込んでいた。しかし、産室の中だけは、外の酷寒が嘘であるかのように、まるで早春の陽だまりに包まれているかのような、柔らかな温もりが満ち満ちていた。

産声を上げたきよは、激しく泣き叫ぶことなどしなかった。

ただ、小さく「ふう」と安らかな息を吐き、この世のすべてを肯定し、受け入れるように、そっと静かに目を閉じたのである。彼女を抱き上げた母親は、出産という壮絶な苦しみの直後であったにもかかわらず、その腕に宿った小さな命から、言いようのない深い安らぎを分け与えられていた。

「ああ、なんて、静かな子。まるで神様が雪を撫でる音のようだわ」

清の周囲には、目に見えぬ薄衣のような霧が常に漂っているかのようだった。それは、どんな激しい怒りも、その内にそっと飲み込み、凪いだ湖面のように変えてしまう不思議な包容力――「反」の力であった。

成長するにつれ、彼女のあまりの静かさは、周囲を不安にさせた。食事を与えれば黙って食べ、庭を見つめさせれば、瞬きも忘れたかのように何時間も座り続ける。大人たちは「魂が抜けているのではないか」と囁き合ったが、実際にはその逆だった。

清の魂は、あまりにも巨大な世界の断片を捉えていた。

彼女は、格子戸の向こう側に広がる小さな庭の隅で、雪の結晶が陽光に溶けて土へ還る様子を、一滴の水の旅路を追うように見守っていた。彼女には聞こえていたのだ。雪が重なり合う時の、かすかな結晶のきしみ。土の奥深くに浸透した水が、眠っている木の根を揺り動かし、目に見えぬ早さで生命を脈動させ、春への準備を整える微細な音を。

人々が文明という目隠しの下で、世界との交信を絶っていく中、清はその小さな体で世界の息遣いを全身に受け止め、観測し続けていた。彼女にとって、沈黙こそがこの世界と結ばれる唯一の、そして最も雄弁な言葉であった。


二つの命は、明治という新しい時代の荒波の中で、北の固い土の上に根を下ろした。

神界から降り立った、止まることを知らぬ「動」と、すべてを許し、受け止める「静」。この二つの魂は、まだ互いの存在すら予感することなく、それぞれの場所で孤独な幼少期を歩み始める。

 

剛は、寺の冷たく湿った床の上で、溢れる熱を逃がす場所もなく、ただ夜ごとの月を睨みつけていた。彼にとっての寺は救いの場ではなく、己を抑え込む「型」を押し付けてくる牢獄であった。夜、一人で寝かされる本堂の冷たさは、彼の内に宿る業火を際立たせるだけだった。剛は暗闇の中で、己の手のひらを見つめ、そこから漏れ出す見えない火花が世界を焼き尽くす空想に耽っていた。

一方、清は、格子戸の奥深くに身を潜め、風が運ぶ山の匂いに耳を澄ませていた。彼女は自分が「待っている」ことを、魂の深淵で、あるいは細胞の一つ一つで理解していた。いつか、この広大な静寂を打ち破るほどに激しく、けれど自分という器がなければ瞬く間に自壊してしまうほどに純粋な、もうひとつの命が自分を訪れることを。彼女の静寂は、その嵐のような「正」を、一滴もこぼさず迎え入れるための、底知れぬ海であった。

彼らが肉体を得て、最初の呼吸をこの地の空気に刻んだその瞬間から、北の地の風は、二人を一つの中心へと手繰り寄せるための、果てしない準備を始めていた。

一人は破壊的な力を持つ「正」として、その鋭い牙を研ぎ。

一人はすべてを形にする「反」として、その深い器を清め。

この二つの磁石が引き寄せられ、重なり合う時、初めて「人」という存在を超えた、真の生命現象が幕を開けることになる。それは、歴史という時の流れさえも超越した、究極の均衡への序曲。神世と人世が交錯する、ただ一つの奇跡の物語の始まりであった。

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