アメノウズメ4
結局、その後も仕事は一行に進まなかった。
佐藤がキーボードを一文字叩くたびに、アマテラスが「その変換、徳が足りないわ! もっとこう、後光が差すような漢字を選びなさい!」と黄金の光を浴びせてくる。モニターはホワイトアウトし、佐藤は「目が! 網膜が焼ける!」と叫びながら、机に突っ伏した。
さらにウズメは、佐藤のマウスの上に自分の手を重ねるようにして、「ねえ、佐藤くん。このカーソルの動きに合わせて、我が魂の咆哮を入れてあげる!」と鼻息を荒くする。クリックするたびに「イェイ!」「アヒョッ!」「神の御業!」といちいち大音量で叫ぶものだから、佐藤の集中力は粉々に砕け散り、最終的にはバックスペースキーを連打するだけのマシーンと化していた。
ふと、佐藤が重い瞼をこすりながら顔を上げると、ブラインドの隙間から、白々とした光が差し込んでいた。
深夜の濃紺は、いつの間にか淡い群青色へと溶け出し、さらにその端が薄い桃色に染まり始めている。街が、冷たい沈黙を脱ぎ捨て、目を覚ます準備を始めているのだ。
「……あ。もう、朝だ」
佐藤が呆然と呟くと、それまで騒がしかった二人の神が、ぴたりと動きを止めた。
アマテラスは窓の外をじっと見つめ、その瞳に夜明けの光を映し出している。
「あら、もうそんな時間? 楽しい時間は、宇宙の瞬きよりも早いわね。……下界の朝も、案外悪くないじゃない」
アマテラスが、背負っていた八咫鏡をカチャリと音を立てて整え、優雅に立ち上がった。彼女が動くたびに、オフィスには朝露のような清涼な香りが広がる。
「我らも、そろそろ高天原へ戻る時間よ。あんまり長くこっちにいると、本物の太陽と喧嘩になっちゃうからね」
ウズメも、床に散らばった柿の種の袋を、なぜか折り紙のようにして「鶴」に折りながら、佐藤に不敵な笑みを向けた。
「ほら、佐藤くん、顔を上げなさい! そんな猫背じゃ、福の神も素通りしちゃうわよ!」
二人は、佐藤の「お腹に当たる部分の平たい引き出し」に、慣れた手つきで足をかけた。引き出しは、彼女たちの重みで「ギギッ」と頼りない音を立てる。
帰り際、ウズメがまず振り返った。
「佐藤くん! 知ってた? 知ってた? あんたの笑い声、神界の奥までビリビリ届いてたんだよ。次はもっと大きな声で呼びなさい! 柿の種、わさび味とチョコ味のハイブリッドを用意しとくのよ!」
続いて、アマテラスが上品に会釈をした。その背後の小さな太陽が、一瞬だけ優しく明滅する。
「佐藤くん。……また、寂しくなったら、この箱を開けなさい。私はいつもあなたを、液晶モニターの反射越しにでも照らしているから。……あと、部長のマグカップ、アロンアルファは二度塗りが基本よ」
黄金の煙と、キンモクセイの香りがふわりと舞った。
ガコンッ!
あまりにも無造作に閉まった引き出しの音を最後に、オフィスの空気は一変した。
耳を劈くような笑い声も、眩しすぎる黄金の輝きも、鼻をくすぐる醤油とキンモクセイの混じった不思議な香りも、すべてが幻だったかのように霧散していく。
佐藤は、自分の手がまだ少しだけ震えていることに気づいた。
「……夢、だよな。やっぱり」
独り言が、冷えたオフィスに空虚に響く。
椅子に深く沈み込むと、徹夜明け特有の、脳が水浸しになったようなダルさが全身を支配した。瞼は重く、肩には鉛のような疲労が乗っている。
だが、不思議なことに、いつも彼を窒息させそうに追い詰めていたあの「泥のような絶望感」はどこにもなかった。
代わりに、胸の奥には、熱いスープを飲んだ後のような、仄かな温かさが居座っていた。
佐藤は、祈るような心地で、そっと視線をパソコンのモニターに戻した。
「……え?」
そこには、奇跡があった。
数時間前まで、真っ赤なエラーメッセージを吐き出し続けていた無慈悲な画面が、今は澄み渡るような青い背景を映し出している。
あんなに苦戦していた複雑なプログラムのコードが、まるで音楽を奏でるように完璧な整列を見せ、ビルド成功を告げる文字が静かに点滅していた。
しかも、最下行。佐藤が書いた覚えのない、コメントアウトされた一行が目に飛び込んできた。
『今日も一日、天晴に。 追伸:柿の種のピーナッツだけ抜くのはマナー違反よ。 ウズメ&CEO』
佐藤は思わず、鼻から抜けるような声で笑った。
「……はは。……敵わないな、本当に」
彼は事務椅子を思い切り後ろに倒し、天井の蛍光灯を見上げた。
窓の外からは、駅に向かう足音や、シャッターが開く音など、街が動き出す確かな喧騒が聞こえ始めている。
あれは極限状態が見せた、ただの白昼夢だったのかもしれない。
明日になれば、また部長が阿修羅の顔で怒鳴り込み、終わりのないバグとの戦いが始まるのかもしれない。
けれど、佐藤は確信していた。
昨日の自分よりも、今の自分の方が、世界というクソ真面目なプログラムの中に「遊び心」という名の隙間を見つけられるようになっていることを。
佐藤はゆっくりと立ち上がり、乱れたワイシャツの襟を整えた。
ふと思いついて、あの運命の引き出しをゆっくりと引いてみた。
そこには、未来から来た青い猫型ロボットも、太陽の女神も、おでんで合唱するちくわもいなかった。
もぬけの殻になった引き出しの隅。
そこに、一粒の「ピーナッツ」が、朝日に照らされて黄金色に輝きながら、コロリと転がっていた。
佐藤はそれを指先で摘まみ上げると、そっと口に放り込む。
カリッ。
香ばしい味が、乾いた喉に広がった。
その確かな歯応えは、どんな高度なプログラムよりもリアルで、温かかった。
「……さて。ハワイのガイドブックでも買ってくるか。」
佐藤はそう呟くと、誰もいないオフィスに向かって「イェイ!」と小さくピースサインを作り、軽やかなステップで、黄金色に染まり始めた街へと踏み出した。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。
本作はこれにて完結となります。
本作の着想は、「カタカムナ第19首」から得たものでした。
この首の中にある「アメノウツメ」という響きから、天岩戸の前で踊った「天宇受賣命」の姿を想像し、そこからこの物語が生まれました。
神話では「裸踊り」で八百万の神々を笑わせた彼女ですが、現代の物語にするにあたって、日常のあちこちに潜む「理屈抜きの笑い」をテーマに描いてみました。
慣れない執筆に試行錯誤の連続でしたが、読んでくださった皆様が、佐藤くんと一緒に少しでもクスッと笑っていただけたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
【読者の皆様へ】
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
今後の励みと勉強のため、以下の5段階評価で今の率直な感想をいただけますと幸いです。
評価:★ 〜 ★★★★★
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