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  作者: しゅう


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神世人世2

八戸の街外れ、鬱蒼とした杉林が昼なお暗い影を落とす場所に建つ古刹。

そこが剛に与えられた「揺り籠」であり、最初の「戦場」であった。父の手によって預けられた時、剛はまだ幼く、己の中に渦巻く力が何であるかを知らなかった。ただ、寺という場所が、石を彫るノミのように自分を削り、定まった「型」に押し込めようとする不自由な場所であることだけは、肌に刺さる空気の冷たさから察していた。

「剛、また裏庭の結界を破ったのか。何度言えばわかる」

住職の叱責は、剛にとっては虚空を通り過ぎる風に過ぎなかった。剛が寺の柱を素手で叩き、裏庭の古木をなぎ倒すのは、破壊衝動ゆえではない。体内から噴き出す、行き場のない灼熱のエネルギーを外部へと放出しなければ、己の肉体が内側から焼け落ちてしまうという、切実な生存本能の結果であった。

冬の朝、修行僧たちが震えながら雑巾がけをする廊下を、剛は常に裸足で駆け抜けた。彼の足裏が触れた板の間には、陽だまりのような微かな熱が残り、冬の厳寒期でさえ、そこだけは霜が降りることがなかった。


そんなある日のこと。

寺の裏手に広がる、誰も踏み入らぬ深い森の入り口で、剛は「彼」に出会った。

それは徳高い僧侶でもなく、ましてや里の人間でもない、世捨て人のような風色の男だった。男の体は風雨に晒された古い枝のように痩せ細っていたが、その瞳には剛と同じ、あるいはそれ以上に深い、世界の深淵を見つめる光が宿っていた。

「小僧、お前の火は、薪が足りずに自分を焼いているな。そんなことでは、いずれ灰も残さず消えるぞ」

その一言が、剛の心臓を射抜いた。

これまでの大人たちは、皆、剛の火を「不吉なもの」として消そうとするか、あるいは恐怖から遠ざけようとするばかりだった。だが、この男は初めて、剛の火を「燃やすための方法」があることを説いたのである。男は後に剛の「師匠」となる存在であった。

師匠との修行は、言葉による教えではなかった。

「風を聴け。木の葉が揺れる音を聴くのではない。揺らされる前の、空気の重みの変化を聴くのだ」

剛は師匠に連れられ、断崖絶壁の上に何時間も立たされた。吹き付ける烈風を全身で受け止め、その風の力と己の内の熱を同調させる。初めは反発し、風に弾き飛ばされていた剛だったが、やがて悟った。己の力は、世界を壊すためのものではなく、世界の巨大な流れの一部となり、それを守り抜くために与えられた「正」のいかずちであることを。


剛が山々の呼吸を学び、その野性を研ぎ澄ませていた頃。

商家の奥深く、格子戸に守られた座敷で、清もまた自分だけの孤独な成長を遂げていた。彼女に与えられたのは、静かな座敷と、古来より続く厳格な礼儀作法。街の人々は、彼女を「美しく、けれど魂の不在な人形」のように見ていたが、清の内側には、剛の野性にも負けぬ広大な宇宙が広がっていた。

清の日常は、極めて微細な変化の「観測」に費やされた。

朝、茶を点てる時。釜から立ち上がる湯気のゆらゆらとした揺らぎの中に、彼女は天を舞う龍の動きと、気流の法則を見た。

夜、着物を畳む時。絹の擦れる微かな「衣擦れ」の音の中に、彼女は遠い太平洋の波頭が砕ける轟きを聴いた。

彼女にとって、座敷の四畳半は狭い檻ではなく、世界のあらゆる事象が収束し、透過して見える「特異点」のような場所であった。清は一歩も屋敷の外へ出ずとも、風が運んでくる一粒の砂の匂いから、今、奥州の山々で何が起きているか、どの木が芽吹こうとしているかを、手に取るように感じ取ることができた。

「清、何をそんなに見つめているの? お花なら、もう活け終わりましたよ」

母親の戸惑うような問いに、彼女はただ、水面のように穏やかな微笑みを返すだけで答えない。

彼女は、自分が日々蓄積しているこの「静」の力が、いつか絶対的な必然性を持って必要になることを、予感というよりは確信に近い形で知っていた。

ある夜、清は鮮明な夢を見た。

真っ赤な火の粉を散らして、暗闇の中を咆哮しながら駆ける一頭の獣。その獣はあまりに強く、あまりに純粋なために、自分を包み込む「反」の器がなければ、そのまま光の速さで自壊し、灰になってしまうだろう。

清は夢の中で、その獣の燃え盛る鬣にそっと触れた。その瞬間に指先から伝わってきた、熱く、けれど涙が出るほど懐かしい震動。

彼女の魂(反)は、目に見えぬ因果の糸に導かれるように、山の向こう側で己を研ぎ澄ましている剛(正)の存在を、確実に捉え始めていた。


月日は流れ、剛は筋骨逞しい、瞳に鋭い英知を宿した青年に、清は凛とした美しさと、底知れぬ包容力を湛えた乙女へと成長した。

明治という時代は急激に加速し、文明の波は八戸の地にも鉄道を敷き、人々の暮らしを「効率」と「金銀」の計算で塗り替えていく。社会が「理屈」へとさらに傾斜し、神々がその居場所を追われていく中、二人の異質さは、より隠しきれない、隠すべきではないものとなっていく。

剛は、師匠との十数年にわたる修行の果てに、もはや人間としての身体能力を遥かに超越した領域に足を踏み入れていた。音もなく断崖を駆け上がり、素手で荒ぶる川の流れを分かち、大地の鼓動を足裏から読み取る。彼にとって、人世の道徳やちっぽけな常識は、あまりに脆く、不自由な足枷に思えた。

「師匠、俺はこのまま、人でなくなってしまうのではないか。この熱は、どこへ向かえばいい」

ある新月の夜、剛の問いに、師匠はただ高く澄み渡った夜空を指差した。

「星は皆、孤独に回っているが、天の掟という見えぬ糸で繋がっておる。お前もまた、お前の掟に従え。無理に人に合わせるな。いつか、お前の掟を共有し、その熱をすべて受け止める者が、向こうから現れる。その時までは、ただ己を研げ」


一方、商家の清のもとには、彼女の噂を聞きつけた各地の良家から、見合いの話が引きも切らずに舞い込んでいた。

多くの青年たちが、彼女の類まれなる美しさと、実家の財産を求めて屋敷を訪れたが、清は誰に対しても、鏡のように冷ややかな、けれど完璧な静寂を保った。彼らの瞳の中に、自分が求める「魂の震動」が全く欠けていることを、一目見ただけで見抜いていたからだ。彼らは清を「所有」しようとしたが、清が待っているのは、共に「世界を完成させる」相手であった。

「わたくしが待っているのは、肩書きや家柄を持つ『人』ではありません。この命を使い切らせてくれる、命そのものです」

清が漏らしたその言葉は、理解されぬまま街の風へと消えていった。


そしてついに、避けることのできない「その日」が近づいていた。

明治も半ばを過ぎたある冬の日、剛の父は、家系の存続と自らの地位を盤石にするため、剛を寺から呼び戻した。あてがわれたのは、八戸でも有数の商家との縁談――即ち、清との見合いであった。

見合いの当日、剛は十数年過ごした寺の門を叩き、深々と一礼した。背負った「正」の熱量はもはや布一枚では隠しきれず、彼が歩く道すがら、凍てついた道端の霜が溶け、冬枯れの草木がまるで春の訪れを予感したかのように微かに色づいた。彼は知っていた。今日出会う相手は、父が選んだ単なる「役人の嫁」などではない。己の魂を、この肉体という重苦しい檻から解き放つか、あるいは永遠に繋ぎ止めるための、唯一無二の「対極」であることを。

同じ頃、清は鏡の前で静かに髪を梳いていた。

鏡の中に映る自分の瞳は、いつにも増して深く澄み渡り、まるで銀河の螺旋をそのまま湛えているかのようだった。彼女は、部屋に生けられた一輪の寒椿が、まだ見ぬ誰かの接近を感じて、意志を持つかのように震えているのを観測していた。

「いよいよ、一つに重なるのですね」

彼女は誰に言うともなく呟き、淡い紅を差した。その唇から漏れた吐息は、冷たい冬の空気を一瞬で真っ白な霧に変えた。それは、形なき「静」が、形ある「動」を迎え入れ、共に宇宙の均衡を修復するための、最後の浄化の儀式であった。

二人の魂は、もはや個人の意思を遥かに超え、奥州の広大な大地そのものを根底から震わせながら、一つの点へと収束していく。

古い神々と、新しい「文明」という名の理屈が激しく衝突する明治の狭間で、二つの魂がついに相まみえる時が来た。それは、家同士の政略によって仕組まれた「見合いの席」という名の、俗世が用意した最後の関門。

二人が初めて目を合わせたその瞬間、奥州の地が微かに震え、天の螺旋が大きく鳴動したことを、当の二人以外に知る者はいなかったのである。

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