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  作者: しゅう


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生命の源4

事件の翌朝、街はもはや昨日までの場所ではなかった。

邸宅の重厚なカーテンを突き抜けてくる報道ヘリの爆音は、まるで巨大な羽虫の羽撃きのように空気を震わせ、家全体に不吉な振動を伝えていた。テレビの画面は、どのチャンネルも「夏祭りの惨劇」を緊急特報として報じ続け、犠牲者の数が一人、また一人と更新されるたびに、アナウンサーの声は上ずり、社会全体が制御不能なパニックへと滑り落ちていくのが分かった。


彼は、窓のない書斎に閉じ込められていた。

扉の外には、父が緊急に呼び寄せた、感情を剥ぎ取ったような顔の護衛たちが立っている。軟禁、という言葉が相応しかったが、彼の中に悲壮感や恐怖は微塵もなかった。ただ、祭りの夜に感じたあの強烈な全能感――自分が世界の因果を指先一つで支配しているという、痺れるような陶酔――が、時間の経過とともに急速に冷めていくことへの、耐えがたい「退屈」だけが、彼を支配していた。


そこへ、父が現れた。

中央政界で数々の政敵を葬り、この国の「裏の秩序」を維持してきた男の顔は、一晩のうちに石灰のように白く、無機質に変貌していた。父は無言で、息子の前にいくつかの物品を置いた。彼が犯行に使用し、ゴミ箱に捨てていた和紙の残骸。地下の実験室から回収された、ラベルの剥がれた劇薬の瓶。そして、彼が当日着ていた、目立たないはずの白いポロシャツだ。

「……すべて、書き換えた」

父の声は、地底から響くような重圧を伴っていた。そこには息子への怒りも、落胆も、悲しみもなかった。あるのは、自分が生涯をかけて築き上げた権力と家名という「城」を守るための、冷徹な事務作業の意志だけだった。

「お前は、あの日、この部屋にいた。重い夏風邪を出し、専属の医師が付き添い、一歩も外へは出ていない。そういう『事実』を、今この瞬間に構築し終えた。警察も、検察も、メディアも、我々の用意した筋書き以外の言葉を口にすることはない。お前の存在は、この事件から完全に切り離された」

彼は、父の瞳の奥を覗き込んだ。そこには、一人の人間を救おうとする親の姿ではなく、不都合な物を消去しようとする何かそのものがあった。


父の指示により、邸宅の地下にあった「実験室」は数時間のうちに解体され、すべての薬品は高熱炉で焼却された。彼のパソコンの履歴、海外への発注記録、それらすべてが、父の息のかかったサイバー対策班によって、最初から存在しなかったかのように消去された。


数日後、社会の怒りを鎮めるための「生贄」が、白日の下に引きずり出された。

ターゲットに選ばれたのは、広場の近くに住む、過去に小さな金銭トラブルを起こしたことがあるという一人の主婦だった。彼女がかつて趣味で扱っていた古い殺虫剤や、生活の苦しさを吐露した日記の断片が、父の息のかかった情報操作官たちの手によって、「怨恨に満ちた冷酷な殺人鬼」という完璧な物語へと編み上げられていった。

 

警察の捜査資料は、水面下で鮮やかに、かつ無慈悲に修正された。

現場のカレー鍋から検出されたはずの、彼が使用した「純度の高いヒ素」のデータは、女がかつて入手可能だった「不純物の混じった古いヒ素」のデータへとすり替えられた。彼の目撃情報は、巧妙に配置された偽のアリバイ工作によって組織的に打ち消され、代わりに「不審な動きをする女を見た」という、出所不明の目撃証言がメディアを埋め尽くした。

 

民衆は、生贄を求めていた。

自分たちの隣に、理由もなく死を撒き散らす「純粋な悪」が存在するという恐怖に耐えられなかったのだ。だからこそ、分かりやすい「悪役」が提供されたとき、彼らは真実など二の次にして、一斉に石を投げ始めた。

ワイドショーのコメンテーターたちは、女の生い立ちや過去の言動を「異常者の証拠」として並び立て、視聴者はそれを真実として飲み込んだ。それはもはや報道ではなく、集団的な魔女狩りだった。真実を追求するための機関は、父という巨大な太陽の影に隠れ、ただ巨大な嘘を「真実」として固着させるための歯車に成り下がっていた。


月日が流れた。

事件は「解決」したものとして処理され、世間の関心は次の新しい刺激へと移り変わっていった。女は獄中で無実を叫び続け、絶望のあまり精神を病んだが、その声は権力の壁に吸い込まれ、誰の耳にも届くことはなかった。

 

一方、邸宅の中。

彼は依然として、何不自由ない、完璧に整えられた世界で暮らしていた。

だが、恐ろしい変化は、彼の内側から始まっていた。

父が作り上げた「偽りの現実」は、あまりにも強固で、隙がなかった。周囲の人間、ニュース、流れる時間――すべてが「彼は無実であり、犯人はあの女である」という前提で回っているうちに、彼の脆弱な記憶の回路が、その強力な外部の磁場に屈し始めたのだ。

あの日、カレーの鍋に薬を落とした記憶。

苦悶する人々の表情。

手のひらに残った和紙の感触。

それらが、霧が晴れるように、あるいは古いフィルムが色褪せるように、彼の脳裏から抜け落ちていった。

 

父が徹底して「なかったこと」にした現実に、彼自身の精神が同調してしまった。

自分が悪を為したという自覚さえ、父の権力という巨大な消しゴムによって消去された。彼の中に残ったのは、理由のない、しかし絶対的な「自分は特別で、守られている」という全能感の残滓だけだった。


数年後のある夏の日。

彼は庭の池の縁に座り、錦鯉に餌を撒いていた。

ふと、遠くの街から祭りの太鼓の音が風に乗って聞こえてきた。

その音を聞いた瞬間、彼の胸の奥で、氷のような冷たい違和感が小さく疼いた。

「……何か、忘れているような気がする」

彼は自分の白い、汚れ一つない指先を見つめた。

かつて、この指で何かを掴み、何かの色を変えたような……そんな断片的な、幻のようなイメージ。

だが、その輪郭は驚くほど曖昧で、すぐに夏の陽炎の中に溶けて消えた。

 

彼は小さく首を傾げると、何事もなかったかのように、再び鯉たちの口元へ餌を落とした。

自分がかつて、この街を地獄に変えた主犯であること。

一人の女性の人生を永遠に奪い、生贄に捧げたこと。

それらすべてを、彼はもう、記憶の底から引き出すことができなくなっていた。

真実は、誰にも知られないまま、分厚いコンクリートの下に埋められた。

権力が作り上げた「模造された平穏」の中で、彼はこれからも、自分が何者であるかも知らぬまま、無垢な怪物のまま微笑み続けるだろう。

 

空には、あの日と同じ、冷たく無機質な月が昇り始めていた。

それは、真実を失い、空虚な物語だけが固着したこの世界を、ただ静かに、永遠に見下ろしていた。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございます。

本作はこれにて終話となります。

本作の着想は、「カタカムナ第18首」から得たものでした。


この首を読み解く中で、私の脳裏に「生命の源」という言葉が強く浮かび上がりました。

その言葉を軸に、どのような物語を紡ぐべきかと思案していたある日の昼食時、カレーを口にした瞬間に、かつて社会を震撼させた「カレー事件」の記憶が鮮明に蘇りました。その不気味な違和感と恐怖を、一つのミステリー作品として描くことを決意したのです。

実在の事件を着想の起点としているため、これを空想の物語として昇華させるべきか、執筆中も深い葛藤がありました。しかし、人間の心の深淵や、権力によって歪められる真実というテーマに向き合うべく、私なりの物語として形にいたしました。

拙い点もあったかと思いますが、一つの作品として受け止めていただければ幸いです。


【読者の皆様へ】

読んでいただきありがとうございます。

今後の励みと勉強のため、下の★〜★★★★★で評価をいただけますと幸いです。

また、感想なども心よりお待ちしております。

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