茶碗2
ダダダダダーーー……、と重い音が、古い平屋のトタン屋根を絶え間なく叩きつけている。
それはかつて日本が知っていた、情緒ある五月の雨の音ではなかった。バケツをひっくり返したような、などという生易しい表現では追いつかない。まるで空そのものが巨大な滝と化して、地上のすべてを押し潰そうと躍起になっているかのような、質量を持った水の塊の落下音だった。
季節は、梅雨を飛び越えて一気に盛夏、あるいは台風の季節へと無理やり引きずり込まれていた。
あれほど世界を焼き尽くさんばかりにギラついていた太陽は、いつの間にか厚い、墨を流したような積乱雲の底に隠され、代わりに世界は果てしない湿気と濁流に呑み込まれようとしていた。
テレビのニュースやスマートフォンの通知は、連日のように同じ不穏な単語を叫び続けている。――「線状降水帯」。
かつては気象の専門用語に過ぎなかったその言葉は、今や誰もが日常的に耳にし、そのたびに背筋を凍らせる恐怖の代名詞となっていた。次々と発生する雨雲の列が、まるで一本の巨大な槍のように特定の地域に居座り、数時間にわたって狂ったような豪雨を降らせ続ける。気象庁が発表する警戒レベルは瞬く間に最高位に達し、画面の隅では常に、赤や紫の不気味な色彩で塗られた危険度分布マップが明滅していた。
彼女は、暗い台所の窓辺に立ち、ガラスを伝って流れ落ちる無数の水の筋を見つめていた。
外の景色は、激しい雨のカーテンによって完全に白く霞んでいる。普段なら見えるはずの、向かいの家の生垣も、細い路地の電柱も、すべてが水の結界の向こう側に消え去っていた。足元からは、古い木造住宅の床下をかすめて流れていく、側溝から溢れた水のゴーという低い地鳴りのような音が響いてくる。
彼女はそっと、自分の右手に触れた。
雨が降り始めてからというもの、あの掴みどころのない微弱な痺れは、一層その深みを増しているように感じられた。気圧の乱高下は、現代の後遺症を抱える彼女の肉体に、目に見えない微細な楔を打ち込んでいく。関節の奥が重く痛み、頭の芯には常に薄い霧が立ち込めているかのような不快感がある。
それでも、彼女の心の中に焦りはなかった。
机の上で、静かに伏せられたままのスマートフォンが、時折、ブルリ、ブルリと短く震えていた。災害警戒アラームや、登録しているSNSの通知が届いているのだろう。
彼女は一度だけ、その画面を表に返した。
液晶画面が冷たい光を放ち、タイムラインが超高速で流れていく。そこには、災害への純粋な恐怖だけでなく、それ以上に肥大化した人々の「トゲトゲした諍い」が満ち満ちていた。
「避難勧告が出ているのに逃げない奴は自業自得だ」
「いや、この状況で高齢者を連れて外に出る方が危険だ」
「行政の対応が遅すぎる、知事は何をやっているんだ」
「こんな日に営業を続ける会社は異常だ」
誰もが自分の正しさを振りかざし、見知らぬ誰かを激しい言葉で糾弾していた。不安という名の毒に冒された人々が、画面の向こう側で互いの足を引っ張り合い、言葉の刃を突き立て合っている。それは、肉体的な災害以上に、現代の人間たちの心が限界まで乾き、荒廃していることを証明する、もうひとつの恐ろしい嵐だった。
彼女は、悲しそうに目を細めた。
そして、何も書き込まず、誰の意見にも賛同せず、ただ静かに画面を再び裏返した。
この指先ひとつで繋がる無限の世界には、今の彼女が救えるものは何一つない。数字の中に、記号の中に、彼女の居場所はなかった。画面の向こうの嵐に狂わされるのではなく、今、自分の足が立っているこの場所で、自分にできることだけをすればいい。
彼女は引き出しから、古びたビニール傘を取り出した。右手の痺れを意識しながら、ゆっくりと玄関の戸を開ける。体にまとわりつくような、重く湿った風が彼女の髪を揺らした。彼女は一歩、激しい雨の中へと踏み出した。傘を叩く水の音に包まれながら、彼女はただ、祈るようにオロオロと、しかし確かな足取りで歩き始めた。
彼女が向かったのは、平屋から歩いて数分の場所にある、築四十年の古びた木造アパートだった。
外階段を上る足元を、泥水が滝のように流れ落ちていく。傘を差していても、横殴りの風によって、彼女の衣服は瞬く間に半分以上が濡れそぼっていた。
そのアパートの二階の角部屋。そこには、数ヶ月前に引っ越してきたばかりの、若い母親と幼い男の子が暮らしている。
母親は昼も夜もなく働きに出ており、この激しい豪雨の中でも、どうしても外せない仕事のために遠くの職場へと向かったことを、彼女は昨日の夕方、すれ違ったときの会話で知っていた。そして今日、この線状降水帯による電車の運休。母親は間違いなく、帰宅困難者となって遠くの駅で立ち往生しているはずだった。
部屋のドアの前に立ち、耳を澄ます。
激しい雨音の隙間から、かすかに、本当に小さく、引き絞るような子供の泣き声が聞こえてきた。
彼女は躊躇なく、ドアを軽くノックした。
「……蓮くん、いる? お隣の、平屋のおばちゃんだよ」
鍵はかかっていなかった。不用心というよりも、パニックになった子供が中から開けてしまったのかもしれない。ゆっくりとドアを開けると、薄暗い玄関の奥、万年床の上に、小さな丸い塊が見えた。
四歳になる蓮くんは、薄い布団にくるまり、激しい恐怖で全身をガタガタと震わせながら泣いていた。
彼女が近づいてその額に触れると、驚くほどの熱気が手のひらに伝わってきた。
「あついね……」
蓮くんは、この災害のストレスと、急激な気温の変化によって、高い熱を出して孤立していたのだ。スマートフォンも持たない小さな子供にとって、電気が消えかけ、外で世界の終わりような雨音が響くこの部屋は、底なしの恐怖の国そのものだったに違いない。
彼女はすぐに、自分の濡れた上着を脱ぎ、蓮くんの枕元に腰を下ろした。
右手の痺れなど、もう完全に忘れていた。台所へ向かい、まだ辛うじて出る水道の水でタオルを濡らし、固く絞る。それを蓮くんの熱いおでこにそっと乗せた。
「大丈夫だよ、大丈夫。お母さんは今、頑張ってこちらに向かっているからね。おばちゃんがずっと、ここにいるから」
彼女は、蓮くんの小さく、汗ばんだ手を両手でそっと包み込んだ。
その手は、冷たく、怯えきっていた。彼女は自分の体温をすべて分け与えるかのように、じっとその手を握り続けた。
蓮くんは、タオルの冷たさと、彼女の手の温もりに安心したのか、とき折ビクッと身体を震わせながらも、次第に激しい泣き声を収め、小さな寝息を立て始めた。
彼女は、夜が明けるまで、あるいは雨が止むまで、その枕元から一歩も動かない覚悟だった。誰に頼まれたわけでもない。ここにいても、社会の誰も彼女を褒め称えることはない。それでも、自分の目が届くところで、一人の小さな子供が恐怖に震えているなら、それをただ、全力で受け止める。それが彼女の生き方だった。
翌朝、雨は一時的に小康状態となり、蓮くんのお母さんが泥だらけになりながらアパートへと帰り着いた。
涙を流して感謝する母親に、彼女は「蓮くん、頑張ったよ」とだけ言い残し、静かにアパートをあとにした。
しかし、彼女の仕事はそれで終わりではなかった。
自分の平屋に戻る途中、別の路地で、呆然と立ち尽くしている中年の女性の姿が目に入った。
その女性は、近くで小さな高齢者向けの介護施設、あるいは保育補助のような仕事を個人で営んでいる人だった。日頃からの激務に加え、この連日の豪雨による対応、さらには家族の介護という二重三重の重圧が重なり、彼女の顔は完全に土気色に変わり、目は虚ろになっていた。
足元には、雨水で濡れて使えなくなった大量の洗濯物や、処理しきれない書類が散乱している。女性は、それを片付ける気力すら失ったように、ただ雨上がりの泥水を見つめていた。現代社会において、誰もが自分の生活を守るだけで精一杯のとき、こうした「ケア」を一身に背負わされた人間は、誰にも助けを求められず、静かに限界を迎えて倒れていく。
彼女は、すうっと女性の傍らに歩み寄った。
「手伝いますね」
短い言葉だった。女性が驚いて顔を上げる前に、彼女は泥の中に膝をつき、濡れた洗濯物を手際よくまとめ始めた。
「えっ、でも、あなたにそんなことをしてもらう筋合いは……」
「いいの。私、今日はもう、何もやることがないから」
それは優しい嘘だった。彼女の体は、一晩中の看病と自身の不調によって、悲鳴を上げかけていた。それでも、彼女の口から出る言葉は、どこまでも平坦で、押し付けがましさがなかった。
彼女は女性の代わりに、溜まりに溜まった家事や、施設の雑用といった「具体的な肉体的負担」を、黙々と自分の背中に移し替えていった。
洗濯物を何度も洗い、干し、散らかった部屋を雑巾で拭き上げる。自分の時間も、労力も、すべてをその疲れ果てた母親のような女性のために差し出していた。
女性は最初、申し訳なさそうに恐縮していたが、彼女のあまりにも自然で、勘定のない働きぶりを見ているうちに、張り詰めていた心の糸がふっと緩んだのだろう。やがて、堰を切ったように、日頃の愚痴や、誰にも言えなかった孤独を口にし始めた。
彼女は、その言葉を遮ることなく、ただ「うん、うん」と聞きながら、手を動かし続けた。女性の心の中にあるトゲトゲとした不安(毒)が、彼女の沈黙という器の中で、少しずつ、穏やかな空気へと変換されていくようだった。
そんな彼女の姿を、近所の人々が全員、好意的に見ているわけではなかった。
スマートフォンの画面を通して世界を効率的に生きようとする現代の人々にとって、彼女の行動は、理解しがたい「奇行」に近いものとして映っていた。
ある日、アパートの近くのゴミ集積所で、近所の住人たちがひそひそと話しているのが聞こえてきた。
「あの平屋の人、また隣の棟の手伝いに行ってるらしいよ」
「物好きだよねえ。自分の時間を使って、一円の得にもならないのに」
「今の時代についていけないのかね。要領が悪いというか、世間知らずというか……」
「ちょっと、変だよね」
冷ややかな笑い声が、湿った空気の中に響く。
彼女の行動は、自己責任論という現代の物差しで測れば、最も愚かで、最も無駄な生き方に見えるのだろう。自分の利益を最大化することこそが「賢い生き方」とされる世界において、見返りを求めず、他人の具体的な苦痛をただ背負い込むだけの彼女は、ただの「要領の悪い存在」に過ぎなかった。
彼女は、その言葉を偶然、細い路地の陰で聞いていた。
しかし、彼女の心に怒りや悲しみは湧いてこなかった。言い返そうとも思わなかったし、自分の正しさを証明するためにSNSに何かを書き込もうとも思わなかった。
賢く立ち回って他人を排斥し、画面の中で数字を競い合う生き方よりも、要領が悪くとも、目の前の凍えている手をただ握り返すだけでいい。
彼女は、ビニール傘の下で、ただ静かに笑っていた。
その笑顔には、一切の諦念も、他人への蔑みもなかった。ただ、春の陽だまりのような、どこまでも穏やかで、ブレない温かさだけがあった。
外では、再び黒い雲が急激に広がり始め、遠くの方からゴロゴロと、次の激しい雨を予告する雷鳴が響き渡っていた。
それでも彼女は、濡れた路地を、少しオロオロとした歩調で、静かに、一歩一歩、自分の平屋へと向かって歩き続けていた。
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