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  作者: しゅう


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223/226

茶碗1

 シュン、シュン、シュン、と規則正しい、湿った音が古い平屋の台所に響き渡っている。

どこにでもある普通の、白いプラスチック製の電気炊飯器。特別な漆黒の土鍋風でもなければ、最新の圧力機能を備えた高級品でもない。長年使い込まれて少し黄ばみかけたその機械の頭頂部から、真っ白な一筋の蒸気が勢いよく噴き出していた。

蒸気は天井へと上り、そこでふわりと広がって、木造の古い天井板を湿らせていく。台所全体が、炊きたてのお米が持つ独特の、甘く、どこか懐かしい香りに包まれていく。

彼女は、その炊飯器の前に静かに佇んでいた。

蒸気が顔に当たると、ほんのりとした温かさと湿り気が肌を包み込む。彼女の手には、使い慣れた木製のしゃもじと、小ぶりな陶器の茶碗が握られていた。

その茶碗は、特筆すべき高級な焼き物ではなかった。少し厚みのあるぽってりとした手触りで、全体に淡い生成り色をしている。縁のあたりには、いつ付けたのかも分からないほど小さな欠けがひとつあったが、彼女はその傷も含めて、自分の両手にすっぽりと収まるその重みを深く愛していた。

ピピッ、と電子音が鳴り、炊飯器の規則正しい蒸気の音がふっと途切れる。

静寂が戻った台所で、彼女は一呼吸置き、ゆっくりと炊飯器の蓋を開けた。

軽い音とともに蓋が跳ね上がると、目の前が真っ白になるほどの濃密な湯気が一気に溢れ出し、彼女の視界を完全に遮った。熱い霧の向こう側で、炊き上がったばかりの白米が、まるで無数の小さな真珠を敷き詰めたように、きらきらと光を反射して輝いている。一粒一粒がしっかりと立ち上がり、互いに寄り添いながら、静かに熱を蓄えていた。

彼女はしゃもじを水に浸し、それからそっと、お米の山の中心へとしゃもじを入れた。

底の方から空気を抱き込ませるように、十字に切って優しくひっくり返す。ふっくらとしたお米の塊が崩れ、さらに豊かな香りが台所いっぱいに弾けた。彼女は無駄のない所作で、しゃもじですくい上げたひと塊の白飯を、左手の茶碗へと移した。

ふんわりと山型に盛られた白いご飯から、細かな湯気が揺らめきながら立ち上る。

その茶碗を両手で包み込むようにして持つと、陶器の厚みを通して、炊きたての強烈な熱がじんわりと彼女のてのひらへと伝わってきた。


 彼女の右手には、時折、思い出したように奇妙な痺れが走ることがある。

それは針で突かれたような鋭い痛みではなく、まるで冷たい微弱な電流が、皮膚のすぐ下を絶え間なく流れ続けているかのような、不快で、掴みどころのない鈍い痺れだった。朝、目が覚めたときには、下半身がまるで鉛の塊に変わってしまったかのように重く、寝床から起き上がるだけで息が切れる日もある。

世界がある一つの大きな感染症の波に呑まれ、誰もが怯え、混迷していた時期があった。社会のシステムを維持するため、そして周囲の人々を守るためという大義名分のもと、推奨されるがままに何度も体に受け入れたあの薬品。その後に訪れた、原因の判然としない慢性的な倦怠感と、引き潮のように去ってはまた満ちてくる微熱。医師に相談しても「検査数値には異常がない」「気のせい、あるいは精神的なストレス」の一言で片付けられてしまう、現代特有の後遺症と呼ばれる影が、今も彼女の肉体の一角にひっそりと居座り続けている。

ほんの数年前までの彼女は、この不調に対して、文字通り狂気のような執念で抗おうとしていた。

片時もスマートフォンを手放さず、ベッドの中でも、移動中の電車の中でも、四六時中画面を凝視していた。「後遺症 治し方」「解毒 方法」「免疫 劇的向上」「体質改善 即効性」。検索の海へ飛び込んでは、溢れ返る無数の情報に溺れそうになっていた。ブルーライトの冷たい光が、夜中まで彼女の青白い顔を照らし出し、脳の神経をキリキリと締め付けた。

ネットの向こう側には、不安を煽る言葉と、それを救うと謳う甘い罠が無限に転がっていた。このサプリメントを飲めば体内の毒素が抜ける、この海外製の高価なハーブが免疫細胞を活性化させる、この特殊な波動を含んだ水が細胞を蘇らせる。彼女は藁をも掴む思いで、それらの情報に飛びついた。

毎月のように自宅の玄関に届く、段ボール箱の山。中から現れるのは、色とりどりのかさかさとしたカプセルや、プラスチックのボトルに入った大量の錠剤だった。彼女は毎朝、それらのサプリメントを手のひらに山盛りに乗せ、水で一気に流し込んでいた。情報を食べ、数字を飲み込み、不安を解消するためだけに、自分の胃の中に得体の知れない固形物を詰め込み続けた。

しかし、どれほどサプリメントを飲み、どれほどネットで推奨される健康法を実践しても、体の芯にある冷えと痺れは消えなかった。それどころか、新しい情報を仕入れるたびに「あれもしなければならない」「これをしてはいけない」という目に見えない鎖が増えていき、心はカサカサに乾いていった。他人の健康そうなSNSの投稿を見ては自分と比較し、社会の不条理に憤り、自分の身体を裏切り者のように呪った。彼女の心身は、完全に外側の情報によって振り回され、軸を失ってバラバラに崩壊しかけていた。


 ある日の夕暮れ、彼女は突然、すべての糸が切れたように動けなくなった。

台所の床に座り込んだまま、目の前にある無数のサプリメントのボトルを見つめていたとき、猛烈な虚しさが襲ってきたのだ。私は一体、何のために生きているのだろう。身体を良くするために、なぜこんなにも心を削り、他人の言葉に怯えなければならないのか。

彼女は震える手でスマートフォンの電源を切った。そのままスマートフォンの黒い画面を裏返し、机の引き出しの奥深くへと押し込んだ。

それから、台所の棚の奥に並んでいたプラスチックのボトルをすべて大きなゴミ袋へと投げ捨てた。カシャカシャと軽い音を立てて落ちていくそれらは、彼女がこれまで費やしてきた莫大な時間とお金の、そして何より「不安の重さ」の残骸だった。

部屋が、静かになった。

外からの情報が一切届かなくなった古い平屋の中で、彼女はただ、自分の呼吸の音だけを聞いていた。そして、お米の入った袋を取り出し、計量カップで静かに擦り切った。冷たい水にお米を浸し、指先で優しく研ぐ。手のひらに触れるお米の硬さと、水が白く濁っていく様子を、ただじっと見つめた。

そのとき、彼女は気づいたのだ。自分の外側にある溢れ返った情報や、他人が作った基準に救いを求めるのはもうやめよう、と。私の身体の不調は、確かにここにある。消え去ってはくれないかもしれない。けれど、私の身体には、内なる免疫がある。それをただ信じて、日々の営みを極限までシンプルに削ぎ落としていけばいい。外側の雑音をすべて引き算したあとに残る、たったひとつの確かな軸だけを頼りに生きよう。

そう決意してから、彼女の生活は変わった。


 お茶碗に盛られた白飯の横に、彼女は出来立ての味噌汁の椀を並べた。

味噌汁は、彼女にとっての唯一の「薬」であり、身体への祈りそのものだった。

毎朝、丁寧に煮干しや昆布で出汁をとる。鍋から立ち上る海の香りが、彼女の嗅覚を優しく刺激する。冷蔵庫にあるのは、近所の小さな無人野菜販売所で手に入れた、少し形が歪だったり、不揃いだったりする地元の野菜たちだ。

彼女は包丁を握り、大根をいちょう切りにし、人参を細かく刻み、キャベツの葉をざく切りにする。トントントン、とまな板を叩く木の手応えと音が、彼女の心に心地よいリズムを刻んでいく。その日にある野菜を、ただひたすらに、これでもかというほど大量に鍋へと投入する。

グツグツと野菜が柔らかくなるまで煮込んだら、火を止め、昔ながらの製法で作られた素朴な味噌を静かに溶き入れる。大豆が発酵した深い香りが、出汁の旨味と混ざり合い、台所の中に新しい調和を生み出す。お椀に注がれたその味噌汁は、器の底が見えないほど具だくさんで、どっしりとした温かさを湛えていた。

そして、食卓の最後を彩るのは、小さな小皿に盛られた数切れのぬか漬けだった。

平屋の片隅には、彼女が毎日欠かさず手入れをしている古いぬか床がある。スマートフォンを手放した彼女が、毎日の習慣として始めたことのひとつだ。

ひんやりとしたぬかの中に素手を突き入れ、底の方から空気を入れ替えるようにじっくりとかき混ぜる。爪の間にぬかが入り込み、独特の発酵臭が手肌に染みつく。それは少し前までの彼女なら「非効率的で汚れる作業」として切り捨てていたかもしれないものだった。しかし今、そのぬか床の中に生きる無数の目に見えない微生物たちの気配を感じることは、彼女にとって至上の癒やしとなっていた。私の手と、ぬか床の生き物たちが、対話をしながらひとつの味を作っている。その確かな命の手触り。

ぬかの中から取り出したきゅうりや大根を水で洗い流し、包丁で薄く切る。シャキッとした瑞々しい音が響き、小皿の上できれいな色彩を放つ。


 ご飯と、具だくさんの味噌汁と、ぬか漬けを少し。

それが、彼女の食卓のすべてだった。

かつて都会で暮らしていた頃のように、お洒落なカフェのランチも、華やかな外食も、流行りのスーパーフードもない。栄養のバランスを計算した複雑なメニューでもなければ、味覚を刺激する強烈な調味料も使われていない。

しかし、この引き算された一汁一菜の食卓の前に座るとき、彼女の心は、かつてないほどの豊かさと静寂で満たされていた。

彼女は畳の上に端座し、そっと両手を合わせた。

「いただきます」

小さな声が、誰もいない部屋に溶けていく。

まず、両手で『茶碗』を持ち上げた。親指と残りの指で挟み込んだ陶器の肌から、白飯の熱がダイレクトに手のひらの皮膚へと侵入し、右手の微弱な痺れを優しく溶かしていくようだった。茶碗を口元に運び、箸で一さじの白米を口に含む。

ゆっくりと、何度も何度も咀嚼する。

噛めば噛むほど、お米本来の自然な甘みが口の中に広がっていく。それは大地の養分と、太陽の光と、水が作り上げた奇跡の結晶の味だった。唾液と混ざり合い、身体の奥へと吸い込まれていくそのひとかたまりのエネルギーが、彼女の食道を通り、胃へと落ちていく感覚がはっきりと分かった。

続いて、味噌汁のお椀を持ち上げ、ずず、と汁を口にする。

出汁の濃厚な旨味と、味噌の塩気、そしてクタクタに煮込まれた野菜たちの甘みが一体となって、身体の隅々の細胞へと染み渡っていく。じわ、と胃のあたりから温かさが広がり、血流が良くなるのが分かる。

最後に、ぬか漬けを一枚、口に運ぶ。パリッとした歯ごたえとともに、爽やかな酸味と塩気が広がり、口の中を新鮮に引き締める。

ただ、食べる。その単純な行為に、彼女は全神経を集中させていた。

テレビはつけていない。音楽も流していない。もちろん、スマートフォンでニュースを見ながらの「ながら食べ」もしない。ただ、目の前にある食べ物の命と、それを受け入れる自分の身体の反応だけに耳を澄ます。

一口ごとに、彼女の身体の中心に、一本のまっすぐな、強靭な「軸」が立ち上がっていく感覚があった。それは外側のどんな大嵐が吹き荒れようとも、決して折れることのない、しなやかな竹のような軸だった。サプリメントをいくら飲んでも得られなかった「私はここに生きている」という絶対的な安心感が、電気炊飯器で炊いた普通のご飯と、一杯の味噌汁によって、完全に満たされていく。

彼女は静かに微笑みながら、最後の一粒までお米をきれいに食べ終え、茶碗の底を見つめた。空になった生成り色の茶碗は、彼女の体温を吸って、どこか誇らしげに温かさを保っていた。


 食事を終え、食器を丁寧に洗い終えた彼女は、ふと台所の勝手口のガラス窓の向こうへと視線を向けた。

まだ5月の後半だというのに、窓の外から差し込む光は、すでに暴力的とも言えるほどの鋭さとギラつきを帯びていた。庭の雑草の緑が、光に灼かれてどこか白っぽく霞んでいる。ガラス窓のすぐ外の空気は、まるで真夏の道路のように、陽炎が立っているかのように不自然に歪んで見えた。

ここ数年、気候の狂い方は明らかに加速していた。

かつてあったはずの、穏やかで爽やかな新緑の季節はどこかへ消え去り、春が終わったかと思えば、次の瞬間には命を脅かすほどの酷暑が列島を襲うようになっていた。5月にして連日のように真夏日や猛暑日の記録が更新され、ニュースキャスターたちが深刻な顔で「過去に例のない異常高温」を連呼する日々が、今年もまた始まろうとしている。

彼女は部屋の隅にある古いラジオのスイッチを、静かにひねった。

ザザ、というノイズの向こうから、落ち着かないアナウンサーの声が流れてくる。


「……各地で記録的な少雨が続いており、主要なダムの貯水率が急速に低下しています。一部の地域では、早くも農作物の生育不良や、水不足による出荷制限が報告されており、今後の価格高騰が懸念されています。農家の方からは、このまま雨が降らなければ秋の収穫は絶望的だという、悲痛な声が上がっており……」


ラジオから流れる声。

遠くの土地での干ばつ。

ひび割れていく田畑。

実を結ぶ前に枯れ果てていく稲の苗。

水を求めて天を仰ぐ、見知らぬ誰かの焦燥と絶望の表情。

そして、物価の高騰や将来への不安から、互いに余裕をなくし、インターネットの海や現実の街角で、トゲトゲとした言葉をぶつけ合っている人々の乾ききった心。

世界全体が、まるで水分を失った枯れ葉のように、カサカサと音を立てて乾き、傷つき、悲鳴を上げている。

彼女は、ラジオの声にじっと耳を傾けていた。

そのニュースを聞いて、彼女の心に浮かんだのは、「これから野菜が高くなったら困るな」というような、自分自身の生活の損得勘定ではなかった。電気代が上がる恐怖や、自分の取り分が減るという利害の計算は、彼女の頭の中には一切存在しなかった。

ただ、ただ、純粋に胸の奥がぎゅうと締め付けられるように痛んだ。

大地そのものの苦しみが、水を失っていく植物たちの渇きが、そして不安によって心が干からびていく現代人たちの痛みが、まるで自分の身体の新しい痺れであるかのように、リアルな感覚として彼女の胸に流れ込んできたのだ。自分を勘定に入れないからこそ、彼女の心は、世界の痛みを遮るフィルターを持たず、そのすべてを剥き出しのまま受け止めてしまう。

悲しかった。世界がこんなにも乾いていることが、どうしようもなく切なかった。

彼女の大きな瞳の縁に、じんわりと熱いものが溜まっていった。

それは、彼女自身の悲しみではない。世界の代わりに流す、祈りのような涙だった。

一滴の涙が、彼女の頬を静かに伝わり、顎のラインを伝って、ぽつりと台所の古い木の床へと落ちた。床に落ちた涙は、小さな、けれど濃い水分となって、乾いた木肌にゆっくりと染み込んでいった。

外では、ギラギラとした残酷な太陽の光が、平屋の屋根を容赦なく照らし続けている。

けれど、彼女は逃げ出さず、目を背けず、その世界の乾きを我がことのように胸に抱きしめたまま、静かにそこに立ち続けていた。台所には、先ほど彼女の手によって洗われ、水切り籠の中で静かに伏せられた、あの温かい生成り色の茶碗が、ただひとつ、静かに佇んでいた。

読んでいただきありがとうございます。

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