↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  作者: しゅう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
222/230

イベリアの赤き大地4

 あの午後を境に、世界を隔てる壁の厚みが変わってしまったようだった。マドリードの喧騒はヴィリアトゥス・バエナの耳に届く前に不自然に減衰し、大学の重厚な石造りの校舎さえも、張り子の玩具のようにひどく脆く、実体のないものに思えた。彼の右の掌の熱感は消えるどころか、今や皮膚の直下で恒常的な脈動となり、特定の場所――とりわけ、地下深くの寄託図書室へと続く古い階段の周辺で、その熱は鋭く方向性を持って彼を導くようになった。

そこで、彼は何度も「彼」と遭遇した。

ある時は、薄暗い書架の影で17世紀の教区記録を静かにめくる黒い背中として。またある時は、閲覧室の隅で、微動だにせず窓外の曇天を見つめる横顔として。老牧師の名は、大学のどの名簿にも記載されていなかった。事務員たちは「ああ、大聖堂から時折来られる、文書整理のボランティアの先生ですよ」と、その存在を空気のように受け流していたが、ヴィリアトゥスにとって、その黒いスータンを纏った老人だけが、この平坦で退屈な現実の中で唯一の「質量」を持った存在だった。


 二人の間に、言葉による自己紹介は不要だった。すれ違いざまの短い視線の交わし合いが、やがて書架の狭い通路での、極めて静かで、しかし濃密な対話へと変わっていくのに時間はかからなかった。


「アルヴァレス教授の新しい論文の草稿を読みました」


ある夕暮れ、歴史学部の地下閲覧室の片隅で、ヴィリアトゥスは自ら語り出した。彼の声には、抑えきれない傲慢さと、冷ややかな侮蔑が混じっていた。


「イベリア半島における先住民族の同化と消滅。ローマの圧倒的な軍事力と文化的優位の前に、土着の言語も信仰も、幸福な混血の末に融解し、完全に滅び去ったという定説です。教科書の数ページを飾るにふさわしい、実につまらない、そして浅薄な結論だ」


ヴィリアトゥスは、自身の指先がロットリングの黒いインクで汚れているのを見つめながら、せせら笑った。


「彼らは、目に見える陶片の破片や、ローマ側の都合の良い記録だけを繋ぎ合わせて歴史を偽造している。かつてこの大地に、地中海世界のいかなる文明をも凌駕する、独自の文明を持った巨大な秩序が存在していた可能性を、最初から排除している。理解できない記号を『地方的な特殊変形』の一言で片付け、鍵をかけて保管庫に閉じ込める。それが彼らの言うアカデミズムの本質です。混血の末に滅びた? 違う。彼らは滅びたのではない。この大地の底に、より強固なつながりとして自らを潜伏させただけだ。私は、あの青銅板の文字の配列をなぞりながら、確かにそれを感じた。現在の講義で語られる歴史など、何も知らない道化たちが踊る舞台裏の影絵に過ぎない」


ヴィリアトゥスの独白を、老牧師は遮ることなく聞いていた。その表情は、薄暗い書架の影の中で完全に凪いでいた。ただ、その透明な瞳だけが、ヴィリアトゥスの興奮を観察し、その脳内の温度を正確に測っているようだった。

長い沈黙ののち、牧師の薄い唇が、微かな、しかし深く染み入るような声音で動いた。


「……きわめて興味深い見解だ、バエナ。公式の歴史というものは常に、生き残った大衆を安心させるための、最大公約数の物語に過ぎないからね。だが、真実というものはいつの時代も、網の目をすり抜けた極小の底流にこそ宿る」


牧師は、スータンの袖から、驚くほど白く、細い指を伸ばした。その指先が、ヴィリアトゥスの右の手のひら、今なお微かに燻る熱感の宿る中心を、触れるか触れないかの距離で指し示した。


「君の言葉には、単なる学術的な反感を超えた、肉体的な響きがある。どうやら君には、このイベリアの、最も古い地層に流れる血が、奇妙なほど濃く残っているようだ。大地の記憶に、直接肌を灼かれるほどの血がね」


牧師はそれ以上その件には触れず、携えていた色褪せた革の書類鞄を開けると、そこから一冊の書物を取り出した。

それは、黒い牛革の表紙が長年の手垢で赤黒く変色し、角が丸く擦り切れた、厚みのある古い聖書だった。一般的な聖書にあるような、金色の十字架の刻印はどこにもない。


「これに目を通してみるといい。我が一族が、代々管理を任されてきた寄託文書の一部だ。君が探している『舞台裏の真実』を紐解く、ささやかな手がかりになるかもしれない」


ヴィリアトゥスは、差し出されたその書物を受け取った。その瞬間、まるで火傷のような激痛が走った。しかし彼は表情を変えず、その重み――ただの紙と革の質量とは思えない、奇妙な重圧を伴った質量を、しっかりと両手で抱え込んだ。


 その夜、大学の寮の狭い自室で、ヴィリアトゥスはデスクの電気スタンドの光だけを頼りに、貸し出された聖書を開いた。

最初の数ページをめくった時点で、彼は強烈な目眩を覚えた。それは、ラテン語の古体文字で記されてはいたが、内容の構造が、彼が知るいかなるキリスト教の教典とも根本から異なっていたからである。創世記に該当するはずの冒頭には、天と地を創造した全能の神の姿は描かれていなかった。そこに記述されていたのは、言葉(言語)という概念が誕生する以前、この世界を物理的に統治していた、名前を持たない超古代の文明に関する記述だった。

新約聖書も、旧約聖書も、この凄絶な「真実」を大衆向けに歪曲し、擬人化された『神』という物語に書き換えた二次創作の残骸に過ぎない――ヴィリアトゥスの脳内に、そのような過激な確信が、電撃のように走り抜けた。

読み進めるにつれ、彼の呼吸は荒くなっていった。書物に記された、物質の定着、大地の質量の制御、そして生命の根源的なエネルギーの循環に関する記述は、彼がアンダルシアの第四層で目撃したあの「青銅の板」の、歪んだ幾何学的な対称性と、完全に同一の論理で構築されていた。


「これは……神の言葉ではない。いにしえの文明が、この地表に残した、物理的な解説書だ」


ヴィリアトゥスは、自らの身体的違和感――前夜から続く右手の熱感や、大地の底から磁力で引きずり込まれるような過敏さが、この偽書の記述によって、完璧なジグソーパズルのように噛み合っていくのを感じていた。彼はベッドの上にのけぞり、天井の闇を見つめながら、狂気的な歓喜に身を震わせた。アルヴァレス教授たちが「解読不能」としてゴミのように扱い、保管庫に放り込んだあの金属板は、人類の歴史が始まる以前の、地球の真の支配者たちが遺した遺産だったのだ。そして、それを正しく「知覚」し、トレースできたのは、世界中で自分ただ一人しかいない。


 三日後の夜、ヴィリアトゥスは指定された大聖堂の裏手にある、一般の立ち入りが制限された古い司祭館の扉を叩いた。

案内された部屋は、窓のない、四方を高い書架に囲まれた地下の執務室だった。部屋の中央にある古いマホガニーの机を挟んで、老牧師は静かに座っていた。ヴィリアトゥスは、抱えていた黒い聖書を机の上に厳かに戻し、真っ直ぐに牧師の瞳を見つめた。


「これは、何なのですか。あなた方は、一体何を隠している」


ヴィリアトゥスの声は震えていたが、それは恐怖からではなく、世界の核心に触れた者の、制御できない興奮のせいだった。

牧師は、机の上の聖書に一度も目を落とすことなく、引き出しから一連の書類を取り出し、ヴィリアトゥスの前に滑らせた。

そこに並んでいたのは、古い羊皮紙の系図の写し、そして最新のデジタルデータで打ち出された、いくつかの医療記録のナンバーだった。そして、そのすべての書類の最上部には、彼のファミリーネームである「BAENA」の文字が刻まれていた。


「我々は、君のことをずっと見ていたのだよ、ヴィリアトゥス」


牧師の声から、これまでの穏やかな調律が消え、冷徹な、測定器のような響きが室内に満ちた。


「君の曾祖父がアンダルシアの荒野で不審な死を遂げたことも、君の父親が鉱山での事故の際、直感だけで崩落を予知して生き残ったことも、すべて我々の記録にある。バエナの血。それは、数千年前、ローマの軍靴がこの大地を蹂躙する遥か以前、このイベリアの地表に『留まる』ことを選んだ、いにしえの文明の直接の末裔、その強力な受容体(レセプトール)としての配列を遺した血統だ」


牧師はゆっくりと立ち上がり、ヴィリアトゥスの背後に回り込んだ。その気配は、まるで巨大な影が部屋全体を侵食していくかのようだった。


「我々は、世界の裏側で、この大いなる歴史の真実を絶やすことなく存続させてきた組織だ。キリストの教会という外皮を纏いながら、大衆には決して理解できない超古代の叡智を、ただひたすらに管理し、伝承してきた『伝道者』の集まりだ。君が大学の講義を、アルヴァレスたちの考古学を哀れみ、見下したのは当然のことだ。なぜなら君の肉体は、彼らが決して到達できない『血脈』を、最初から記憶していたのだから」


牧師の手が、ヴィリアトゥスの凍りついた肩の上に、そっと置かれた。


「だが、ヴィリアトゥス。真実を知るということには、それ相応の、絶対的な等価交換が要求される。この部屋の敷居を跨ぎ、その偽書を開き、大地を理解した君は、もはや我々の世界の一員、真実の境界線上に立っている」


牧師の声が、ヴィリアトゥスの耳元で、甘美な宣告のように響いた。


「選択肢は二つしかない。これまでの世俗の身分、大学という模造品の知性を捨て、真の伝道者として、世界の裏側でこの叡智を存続させるために生きるか。あるいは……この真実を抱いたまま、今この場で、土へと還るかだ。どちらを選ぶかね、バエナの息子よ」


「死か、それとも伝道者か」という極限の脅迫。


しかし、ヴィリアトゥスの脳内を満たしたのは、純粋な、そして圧倒的な「全能感」だった。彼の瞳の奥で、歪んだ対称性のパズルが、最後の音を立てて噛み合って完結した。

恐怖など、微塵もなかった。むしろ、牧師が提示したすべての客観的なデータ、血統の執拗な追跡、そしてこの地下室の狂気的な状況のすべてが、彼にとっては「自分が特別な人間であること」「この世界に選ばれた唯一無二の存在であること」を証明する、絶対的なお墨付きに他ならなかった。


「迷う必要が、どこにありますか」


ヴィリアトゥスは、ゆっくりと微笑んだ。その唇の端は歪み、瞳の光は、周囲の現実世界を完全に拒絶する異質なものへと変質していた。


「私は、最初からこのために生まれてきた。あの泥だらけの発掘現場で、アルヴァレスの退屈な講義を聴いている時から、私は自分がどこへ行くべきかを知っていた。私は伝道者になります。世界の真の理を、この肉体で受け継ぐ」


牧師は、満足そうに低く笑い、ヴィリアトゥスの肩から手を離した。


「賢明な選択だ。歓迎しよう、我が同胞よ。これで君も、世界の裏側からこの地球を正しく動かす、真の統治者の一部となったのだ」


大学の研究室に戻ったヴィリアトゥス・バエナは、窓外に広がるマドリードの街並みを、高い場所から見下ろすように見つめていた。彼の表情には、かつてないほどの穏やかな、そして絶対的な全能感が満ちていた。

彼は、自分が世界の裏側から地球を動かす、選ばれし「影の統治者」の仲間入りを果たしたのだと、心の底から信じて疑わなかった。彼がノートに書き殴る客観的な考古学のデータ、発掘調査の数字のすべては、彼の脳内において「自分が選ばれし者である証拠」へと、独自の論理で都合よく書き換えられていった。その思考の飛躍は、彼にとっては不気味なほど完璧で、美しい真実の姿だった。


超古代文明からの「伝道者」「この世界の真の統治者」。

彼が「世界の裏側」と信じたその場所は、知性のアカデミズムから完全にドロップアウトした、最果ての地に潜むカルト宗教といえる。

牧師という男が巧妙に仕掛けた血統と偽書の論理。

それは閉鎖的なマインドコントロールの檻に過ぎなかったかもしれない。


彼は、大学から、そしてまともな人間社会から、自分が刻一刻と、決定的に隔絶されていくことすらも、「偉大なる先住イベリア人が、俗世のローマから身を隠した聖なるプロセス」と同じなのだと、歓喜とともに受け入れた。

蛍光灯の白い光が虚しく照らす、誰もいなくなった研究室の片隅で、ヴィリアトゥスはただ、自らの右の手のひらに宿る、幻影の熱感だけを愛おしそうに見つめていた。その瞳に静かに宿る狂気は、マドリードの夜闇へ融けていった。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

本作『イベリアの赤き大地』は、これにて完結となります。


本作の着想は、古代の叡智である「カタカムナ第54首」に示されたことわりから得たものでした。

このうたには、生命の根源的な響きである「始元と重合統合したヒト」、そして「魂の成長」の関わりという本質が示されているとされています。


この言葉の響きに触れた瞬間、私の中に「スペイン・イベリア」という言葉が強く浮かび上がりました。

以前投稿いたしました「観測者:余談8スペイン」のイメージに引っ張られたのかなとも思いましたが、最初に脳裏に浮かんだその圧倒的なイメージを、そのまま一つの物語へと結晶化させてみました。


【読者の皆様へ】

本作を読み終えた皆様の率直な感想が、今後の執筆の大きな糧となります。

もしよろしければ、以下の5段階評価、および皆様の心に残った情景をお聞かせいただけますと幸いです。


評価: ★ 〜 ★★★★★

コメント: 最も印象に残った場面や、心に触れた描写など、自由にお聞かせください。


皆様からいただく言葉が、この物語に最後の一片を付け加え、真の完成へと導いてくださることを願っております。

最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。