表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  作者: しゅう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
221/226

イベリアの赤き大地3

 その日は、朝から大気の粘度が異常なほどに高かった。アンダルシアの空はいつも通りの酷薄な青さを湛えていたが、地表を覆う乾いた風はピタリと止み、掘削区画の底に溜まった赤茶けた埃は、まるで重力から解放されたかのように、じっとその場に浮遊していた。ヴィリアトゥス・バエナの皮膚は、前夜から執拗なまでの局所的な熱感を感知し続けていた。それは、右の掌の真ん中が、目に見えない炭火でじりじりと炙られているかのような、神経を逆なでする痛覚に近い過敏さだった。大地の底が、自らの肉体を構成する何らかの元素を、強烈な磁力で引きずり込もうとしている。その確信が極限に達した正午過ぎ、掘削区画の最深部、第四層のさらに下方に位置する未調査の斜面で、それは起こった。乾燥によって極限まで強度の失われていた古い土留めの壁が、乾いた音を立てて突如として崩落したのである。

大量の赤土と礫が崩れ落ち、周囲の学生たちが悲鳴を上げて退避する中、ヴィリアトゥスだけはその場に立ち尽くし、砂煙の奥を見つめていた。崩落によって剥き出しになった大地の肉割れ、その垂直に裂けた土壁の奥から、周囲の酸化鉄の赤とは明らかに異なる、鈍く、淀んだ色を放つ金属の塊が姿を現していた。それは、数千年の歳月を土壌の重圧の中で過ごしてきた、肉厚の「青銅の板」だった。表面には、緑青とも泥ともつかない暗緑色の物質が強固に固着していたが、その隙間から、人間の指の太さほどの深い溝で刻まれた、異様な記号の列が覗いていた。発見の報を聞きつけ、テントから飛び出してきたアルヴァレス教授とセバスティアンは、狂喜乱舞してその青銅板の周囲を取り囲んだ。彼らはすぐにブラシと薬品を取り出し、表面の汚れを乱暴に落とし始めた。


「これは……フェニキア文字の変形、あるいはその亜種か? いや、カルタゴの古い西地中海方言の可能性もあるな。おい、セバスティアン、すぐに高解像度で写真を撮れ。文字の配置をデータ化して、マドリードの比較言語学(リングイスティカ・コンパラーダ)のデータベースと照合するんだ」


アルヴァレス教授は興奮で声を震わせ、ルーペを片手に青銅の表面を血眼になって這いまわった。しかし、その興奮は数時間もしないうちに、深い当惑と、それを隠すための不機嫌さへと変わっていった。現存するどのフェニキア文字の体系とも、あるいは既知のイベリア半島の先住民族の文字とも、その配列は根本的な規則性を異にしていたからである。記号の形状そのものは一見すると地中海世界の古代文字に類似しているように見えるが、その並び、幾何学的な対称性の持たせ方、そして何よりも文字自体が内包している「視覚的な威圧感」が、あまりにも異質だった。それは、人間が言葉を伝達するために作った道具というよりは、大地の質量そのものを狭い金属の板の中に呪術的に封じ込めるための、物理的な回路のようにすら見えた。

数日間の現地での格闘の末、アルヴァレス教授は「フェニキア文字の亜種であることは疑いないが、地域的な特殊変形が著しく、現段階では意味の解読は不可能である」という、自らの学術的権威を守るための妥協に満ちた結論を下し、その青銅板をこれ以上の発掘現場の過酷な環境から保護するという名目で、大学の研究室へと持ち帰ることを決定した。彼らにとって、意味の分からない記号は、カタログの分類番号を割り振ることもできない「異物」に過ぎなかったのだ。解読不能というラベルを貼って匙を投げ、研究室の頑丈な鍵のかかる保管庫の奥にしまい込むことこそが、彼らの言う「学術的な処理」の本質だった。


 マドリードに戻った大学の古びた研究室は、アンダルシアのあの焼き付けるような陽光の代わりに、蛍光灯の白い光と、カビ臭い古い書籍の匂いが支配する閉鎖空間だった。中央の大きな作業台の上には、厳重に梱包されて運ばれてきた青銅の板が横たわっている。教授や他の学生たちは、すでにこの「解読不能な厄介者」に対する興味を失いかけており、秋の学会に向けた、もっと分かりやすいローマ時代の陶片のデータ集計へと意識を移していた。研究室の隅で、ヴィリアトゥス・バエナだけが、教授から命じられた「報告書添付用のトレース作業」という退屈な名目のもと、その青銅板と一対一で対峙していた。

薄いトレーシングペーパーを青銅の表面にあて、ロットリングの細いペン先で、刻まれた文字の輪郭を一本ずつなぞっていく。ペン先が金属の溝を捉えるたびに、あのアンダルシアの荒野で掌を土に押し当てたときと同じ、焦げ付くような熱感が指先から逆流してくる感覚だった。彼の手は、自らの意志を離れて、まるでその文字を刻んだ超古代の何者かの指の動きを正確に再現するように、滑らかに、そして冷徹に動いていた。彼には、その文字が何を意味しているのかを言葉で説明することはできなかった。しかし、文字の配列が持つ歪んだ対称性が、不気味なほど完璧なジグソーパズルのように噛み合っていくと感じていた。この文字は、フェニキア人が作った流通の記録などではない。人間という存在が地表に現れるよりも遥か昔、あるいは地球の裏側でこの世界を真に統治していた古代文明が遺した、大いなる手がかりなのだと。その確信が、ヴィリアトゥスの脳内を満たし、彼の瞳の奥の光を、周囲の誰とも分かち合えない異質なものへと変質させていった。


 彼が周囲の雑音から完全に遮断された真空の底で、その黒いインクの列を紙の上に定着させていたとき、研究室の重い木製の扉が、ギィと小さく軋んだ音を立てて開いた。作業に没頭していたヴィリアトゥスは、視線を落としたまま、その部屋に足を踏み入れてきた人物の気配を察知した。入ってきたのは、大学の歴史的な寄託文書や、中世の教会記録の整理のために、日常的にこの研究室や図書館の奥に出入りしている、一人の初老の「牧師」だった。彼は黒いスータンに身を包み、手には色褪せた革の書類鞄を提げていた。いつも通りの、目立たず、空気のように静かな存在であるはずのその男の足音が、なぜか今日のヴィリアトゥスの耳には、大地の底を叩くステッキの音のように重く響いた。

牧師は、部屋の奥のデスクで別の書類を作成していたアルヴァレス教授の方へと歩み寄り、事務的な用件を極めて低い、しかしよく通る声で告げた。寄託文書の返却期限に関する、どこにでもあるありふれた手続きの話だった。教授は視線を書類から上げることなく、生返事でそれに応じ、牧師は「それでは、失礼します」と短く一礼して、部屋を去ろうと出口に向かって歩き出した。


その帰り際だった。扉の前まで達した牧師は、フッとその静かな足取りを止めた。そして、まるでそこに、本来あるはずのない異物が存在していることに今初めて気づいたかのように、ゆっくりと身体を反転させた。


牧師の視線が、研究室の片隅で黙々と文字を書き写していたヴィリアトゥスへと向けられた。ヴィリアトゥスもまた、ペンを握ったまま、引き寄せられるように視線を上げた。


その瞬間、部屋の中の空気が一気に凍りついたかのような錯覚がヴィリアトゥスを襲った。牧師の顔は、蛍光灯の逆光のせいで影になり、その表情の細部を読み取ることはできなかった。しかし、その影の奥にある二つの瞳だけが、異常なまでの透明度を持って、ヴィリアトゥスの存在を正確に捉えていた。


牧師は、数秒間、じっとヴィリアトゥスの瞳の中の深いところをのぞき込んできた。


それは、単に人間が人間を観察するような、表面的な視線ではなかった。ヴィリアトゥスの肉体を透過し、その皮膚の過敏さの根源、彼の血脈の最深部に脈打っている「バエナ」の記憶の檻の、そのさらに奥にある暗黒の深淵までを、鋭利なガラスの破片で一気に突き刺し、中身を冷徹に検分するような、凄絶なまでの浸食力を伴った視線だった。数秒という時間は、無限の長さへと引き延ばされ、ヴィリアトゥスは全身の筋肉が硬直していくのを感じていた。呼吸をすることすら忘れ、自らの全存在がその老牧師の瞳の底に完全に曝け出されているかのような、圧倒的な敗北感と、背筋を凍らせるような明確な違和感が、彼自身を激しく揺るがした。


 牧師は、ヴィリアトゥスの瞳の奥にある「何か」を確かに確認したかのように、わずかに顎を引いて小さく頷くと、それ以上は何も言わず、何事もなかったかのように踵を返して扉の向こうへと去っていった。パタン、と静かに閉まった扉の音だけが、静寂の戻った研究室に虚しく響いた。ヴィリアトゥスは、自らの掌が、今まで経験したこともないほどの冷たい汗でびっしょりと濡れていることに気づいた。ペンを持つ指先が、微かに震えていた。あの牧師の視線は何だったのか。彼は、自分がこの青銅の板から感じ取っている世界の真実を、そして己の血の正体を、最初からすべて知っているのではないか。その強烈な違和感と予感だけが、白い光に満ちた部屋の中に、不吉な影のように長く、深く、取り残されていた。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

感想などいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ