一筆(いっぴつ)の辻(つじ)4
文化十七年の春――それは、水沢の厳しい冬の外套がようやく薄れ、心なしか風のなかに仄かな土の緩みが混じり始める、そんな季節の変わり目のことでした。
しかし、まだ雀の一羽さえもがその小さな喉を鳴らして歌うことのない、しんと冷え切った夜明け前の静寂のなかでは、大気は未だに凍てつく刃のような鋭さを持って、人間の肌を容赦なく刺してくるのでした。家々の屋根も、城下の通りも、すべてが濃い藍色の闇としっとりとした朝靄のなかに深く沈み込み、まるで世界そのものが息をひそめて、これから始まるひとつの破滅と誕生の瞬間をじっと見守っているかのようでした。
高野家の、長英のあてがわれた小さな部屋のなかには、行灯の油の匂いがうっすらと立ち込めていました。
すでに芯の灯りは消され、部屋のなかに残されているのは、障子の隙間から微かに射し込む、白々と明けゆく空の頼りない薄光だけです。その仄暗い闇のなかで、十七歳の長英は、音を立てないように細心の注意を払いながら、小振りの風呂敷に細い旅立ちの荷をまとめていた。
何度も何度も指先で結び目を確認するその両手は、冷気のためにわずかに震えていましたが、その動きに躊躇いはひとかけらもなかった。
懐の奥へと滑り込ませたのは、これまで彼が必死に集め、あるいは書き写してきた、わずかばかりの路銀。そしてもうひとつ、これまでの夜な夜なの渇望のなかで、それこそ四角が丸く擦り切れるほどに貪り読んできた、一冊の使い古した蘭書でした。その粗末な紙の表紙に指先が触れた瞬間、長英の胸の奥底で、かつて灯ったあの青い烈火が、トクトクと静かに、しかし力強く脈打ち始めるのが分かりました。この一冊こそが、彼を特定の土地やしきたりに縛り付ける家制度の重力から解き放ち、まだ見ぬ無限の世界へと羽ばたかせてくれる、唯一の、そして最強の自由の翼だったのです。
荷物をしっかりと身体に引き付けた長英は、部屋の戸口の前に立ち、ふと、自分がこれまで暮らしてきた高野の家の闇を見つめました。
静まり返った廊下の奥、その先には、彼を我が子のように厳しく、そして深い情愛をもって育ててくれた養父・玄斎の寝所があり、そして実のお父を亡くしたあとの自分を温かいぬくもりで支え続けてくれた、お母の部屋。
誰にも、お母にさえも、この旅立ちを告げてはいません。
もしも一言でも言葉を交わしてしまえば、お母のあの優しい眼差しや、自分を労わる細い手のぬくもりに命を絡め取られ、二度とこの境界を越えることができなくなってしまう。それが痛いほどに分かっていたからこそ、少年はただ黙って、暗闇のなかに背を向けるしかありませんでした。
お上のお許しもない出奔。それはすなわち、高野の家に対する、そして育ててくれた親に対する、言い訳の立たないあまりにも手酷い裏切り。
――残された母や親族はどうなる。
脳裏に蘇る養父のあの烈火のような怒声と、親族たちの冷酷な罵声の嵐が、容赦なく長英の細い両肩にのしかかり、その身体を古い畳の上へと引き戻そうとする。親不孝の謗りを受け、裏切者と指を差され、家を破滅へと導くかもしれないという、底知れない罪悪感。
激しい胸の痛みに、少年の五体は一瞬、すくんだ。
喉の奥まで込み上げてくる涙を、長英はきゅっと奥歯を噛み締めて、無理やり腹の底へと押し戻しました。不孝をお許しください、とお母のいる闇の向こうへ向かって、心のなかで何度も何度も深く頭を下げながら、少年は未練を断ち切るように、そっと勝手口の戸を押し開けた。
隙間から滑り込んできた冷たい夜気が、長英の火照った頬を叩く。その冷徹な感触に導かれるようにして、十七歳の少年は、生まれ育った高野の家を、そして水沢の町を、ついにその足でそっと抜け出したのです。
城下を包み込む霧は、いつも以上に重く、湿った土の匂いを濃厚に孕んで長英の視界を遮ってきた。
一歩、また一歩と足を進めるごとに、背後に残してきた確実で安全な世界が、霧の向こう側へと白く溶けて消えてゆく。それと引き換えに、少年の前方に広がっているのは、お上が定めた帳簿の文字からはみ出した、一寸先も見えない漆黒の不確かに満ちた世界でした。
――北へ向かえば、すぐに恐ろしい南部藩との境目。
本来、長英が目指すべき叡智の地、江戸や長崎は、水沢から見れば遥か南の方角に位置していました。しかし、少年は吸い寄せられるように、まず北の藩境へと向かってその足を速めていたのです。それは、幼い頃にお父の大きな背中を見上げながら聞いた、あの「文字の力」の原点――伊達と南部を隔てる、あの執念の境界線を、この目で、己の新しい生き方の始まりとして見届けねばならないという、魂の根底からの命令によるものでした。
次第に歩みは早くなり、やがて長英の足は、湿った地面を激しく蹴立てて走り始めた。
周囲の暗がりのなかからは、常に張り詰めた、ピリピリとした緊迫感が容赦なく押し寄せてきます。国境を守る番所のお役人たちの、すべてを見通すかのような鋭い目が、霧の隙間からこちらを睨みつけているのではないか。伊達の目を盗み、南部の目を掠めて走るこの道筋のどこかで、お上のルールを破った罪人として、組み伏せられてしまうのではないか。
恐怖は、冷たい霧の形をして、少年の行く手を幾度も阻もうとする。
うしろから、自分を連れ戻そうとする高野の追っ手が、激しい足音を響かせて追いかけてくるのではないかという恐怖が、長英の耳の奥で、心臓のトクトクという狂おしい脈打ちと混ざり合って、爆音となって渦巻いていました。冷たい大気を無理やり吸い込むたびに、細い喉が焼けるように痛み、四肢の筋肉は悲鳴を上げ始める。
けれど、一度走り出した長英の足は、もう誰の言葉によっても、どんな絶対的なルールによっても、決して止めることはできない。
少年の五体を突き動かす血は、いまや恐怖を焼き尽くすほどの、激しい胎動へと変わっていた。
それは、これまで檻のなかにがっちりと閉じ込められていた暴れ馬が、ついに鎖を噛み千切り、広大な野へと解き放たれたかのような、凄まじい勢い。かつて文字によって運命を縛られ、名前まで奪われてきた十七年の歳月を、おのれの脚力ひとつで踏みつぶしてゆくかのような、猛烈な突進でした。長英の身体は、もう誰にも制御することのできない馬の勢いそのものとなって、朝靄のなかを、風を切り裂きながらひた走った。
水沢の城下を離れ、鬱蒼とした木々の合間を抜け、どれほど走り続けたことでしょうか。
伊達と南部の境目、ぽこぽこと歪な土の山が幾重にも並ぶ「相去」の境塚に辿り着いたとき、長英はついに、激しい息を吐き出しながらふっと足を止めた。
喉からは、白い呼吸が塊となって夜気のなかに吐き出され、激しく上下する胸の奥では、凍てつく空気が肺を激しく引っ掻いた。
ちょうどその時、東の地平の彼方から、うっすらと真昼の太陽へと繋がる朝の光が差し込み始め、朝靄に濡れた相去の山肌を、青白く、そして厳かに照らし出していきました。光のグラデーションが描き出す影のなかに、静かに浮かび上がってきたのは、かつて先祖たちが、夜の闇に紛れて、南部の役人の目を欺きながら必死に築き上げたという、あのぽこぽこと連なる土の塊――国境の塚でした。
少年は、その湿った土の連なりを、じっと見つめました。
かつて幼い頃、お父から「一筆で領地が広がる愉快なお話」として聞いたその場所が、いま、己の運命の境界線として、目の前に厳然と横たわっている。お上の帳簿、家制度の血筋、大人たちのしきたり。それらすべてが、太く黒い墨の線となって自分を縛り付けてきた壁の正体が、まさにこの相去の土のなかに眠っているのだと、長英は確信していた。
朝光に照らされる境塚を見つめる長英の澄んだ瞳の奥で、かつてないほどに冴え渡った知性の炎が、静かに、しかし激しく爆ぜました。
少年は、激しい呼吸を整え、心の内でそっと、しかし地鳴りのような確信を込めて呟いた。
「お上の記録には『千田左馬らが夜間に塚を築いた』とだけある。だが、民が語り継ぐのは『牛と午の文字の騙し合い』だ。
どちらが真実かは問題ではない。重要なのは、文字一つ、解釈一つの変換によって、一国の境界線などいくらでも書き換えることができるという、この地が持つ執念の記憶だ。
ならば私は、西洋の文字を携えて、この国そのものの境界を書き換えてみせる」
その独白が、相去の冷たい大気のなかに消え去った瞬間、長英の顔からは、先ほどまで彼を苦しめていたあらゆる恐怖の影、罪悪感の鎖が、跡形もなく綺麗に払い落とされていました。
お上の書いた帳簿が絶対のルールだというのなら、自分はそれ以上の叡智をもって、そのルールそのものを裏側から突き動かしてやればいい。漢字や仮名が人間をこの狭い土地に縛り付けるための墨の線ならば、懐にある蘭書の横文字は、世界を等しく繋ぎ、この頑なな国そのものの境界線を消し去ってしまうための、自由な光。
長英はきゅっと唇を結び、まっすぐな、いささかの曇りもない眼差しで、かつて誰も超えることの許されなかった伊達と南部の国境の線を、一歩、力強く踏み越えてゆきました。
朝靄のなかを歩み去ってゆく、少年の小さな背中。
それは、生まれ育った水沢の古い土に、そして自分を縛り付けようとしたすべてのしきたりに、永遠の別れを告げる背中でした。しかし同時に、これから始まる無限の苦難の道を、おのれの足でどこまでも突き進んでゆくという、決して折れることのない強固な意志に満ちあふれた、駿馬の背中でもあったのです。
ここから先、彼を待ち受けているのは、お上の容赦のない追及であり、家や親族を捨てた者としての果てしない孤独の旅路であることは間違いありません。けれど、その小さな背中には、自分の命をぜんぶ燃やし尽くしてでも、おのれの選んだ道を全うしようとする、切なくも美しい青い火花が静かに、しかし確かに散っていく。
長英はもう、振り返ることはしませんでした。
相去の境塚を背に、少年は今度こそ、朝の真昼の太陽が昇りゆく方角へと、まだ見ぬ世界が待つ、遥かなる南の江戸の方角へと向かって、朝靄を突き破りながら、力強く、どこまでも真っ直ぐに駆け出した。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
本作『一筆の辻』は、これにて完結となります。
本作の着想は、古代の叡智である「カタカムナ第53首」に示された理から得たものでした。
この首には、生命の根源的な響きである「生命の方向性に向け重合する電気粒子」、そして「使命を果たすこと」の関わりという本質が示されているとされています。
この言葉の響きに触れた瞬間、私の中に「高野長英」という存在が強く浮かび上がりました。
彼が己の「使命を果たすこと」を選択し、未来へ向けて力強く出奔(旅立ち)していく――その瑞々しくも激しい心の軌跡を物語にしたいと考え、筆を執りました。
【読者の皆様へ】
本作を読み終えた皆様の率直な感想が、今後の執筆の大きな糧となります。
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コメント: 最も印象に残った場面や、心に触れた描写など、自由にお聞かせください。
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最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




