一筆(いっぴつ)の辻(つじ)3
水沢の夜は、どこまでも深く、そして冷酷な静寂に満ちていました。
日を追うごとに、高野の家の中に漂う空気は目に見えて重苦しくなり、それはまるで、目に見えない真綿で十七歳の少年の首をしめつけていくかのような、息の詰まる圧力となって長英の心身を削り削りしていきました。朝の膳の席でも、昼の往診の手伝いの最中でも、そして夕暮れの書斎でも、養父・玄斎や集まってくる親族たちの口から発せられるのは、判で押したような「家を継げ」「水沢の医者として生きよ」という、逃げ場のないお説教ばかりだったのです。
大人たちの言葉は、どれもこれもが正しく、それゆえに反論の余地を与えない凶器のようでした。彼らが長英に求めているのは、何も特別なことではありません。ただこの土地のルールに従い、お上が定めた帳簿の枠からはみ出すことなく、おとなしく地を耕し続ける生き方。それは昨日と同じ明日を無事に迎えるための、もっとも安全で、もっとも確実な、けれど果てしなく狭い檻の中の暮らしでした。
「お前のためを思って言っているのだ」
「高野の家を背負うということが、どれほど名誉なことか、まだ分からぬのか」
「余計な横文字など忘れろ。あれは人間を狂わせる毒だ」
耳の奥にこびりついて離れないその声を振り払うように、長英は夜の闇の中で、幾度も幾度も小さな頭を振りました。
しかし、一度知ってしまった広い世界への恋しさは、少年の胸の内で日に日にその輝きを増し、烈火となってその五体を内側から焼き焦がし続けていたのです。行灯の細い灯りの向こう側、蘭書の行間に広がっていたあのどこまでも論理的で、四方の海へと繋がっている果てしない叡智の世界。そこには、伊達と南部を狭苦しく隔てている国境の塚も、人間の生まれや名前を勝手に縛り付ける古臭いしきたりも、何ひとつとして存在していませんでした。
衣服を透かして皮膚まで焦がしてしまいそうなほどの、真昼の太陽のような光を一度でもその瞳に焼き付けてしまった者が、いまさら目をつぶって、暗い闇の中だけで満足して一生を終えられるはずがありません。知ってしまったというその事実そのものが、いまや長英にとっては、水沢の古い土に繋ぎ止められていることへの、耐え難いほどの「飢え」と「痛み」に変わっていました。
家を継ぐという、逃れようのない巨大な現実の重力。
そして、まだ見ぬ外の世界へ飛び出したいという、狂おしいほどの切なる憧れ。
そのふたつの巨大な力の狭間に挟まれ、押し潰されそうになりながら、十七歳の少年の心はいよいよ限界を迎えていました。昼間、大人たちの前でおとなしく頭を垂れている間も、その脳裏では常に、目に見えない烈火が爆ぜるような音を立てて渦巻いていたのです。
このまま大人たちの言う通りに、目をつぶって生きるのか。何も見えなかったことにして、耳を塞ぎ、お上の決めた境界線の内側だけで、ただ黙々と与えられた荷物を背負って一生を終えるのか。それとも、すべてを投げ打って、親不孝の謗りを受け、親族から裏切者と罵られようとも、おのれの足でまだ見ぬ地平へと駆け出すのか。
畳に押し付けた拳が、血の気が引いて白くなるほどに固く握りしめられます。どちらの道を選んでも、そこには鋭い刃のような痛みが待ち受けていることは分かっていました。けれど、そのどちらを切り捨てるべきなのか、少年の魂は暗闇の中で激しく引き裂かれ、血をにじませていた。
障子の隙間から差し込む月光が、しんと静まり返った部屋の床を青白く照らし出していました。
長英はふと、己のこれまでの半分生を振り返っていました。文化元年にこの水沢の地で産声をあげてから、今日に至るまでの十七年という歳月。それは思えば、常に「文字」という目に見えない恐ろしい力に振り回され、翻弄され続けてきた半生。
幼い頃、おっかさんの温かい懐の中で聞いた、伊達と南部の騙し合いの民話。たった一筆、ほんの小さな墨の線が突き出ているかいないかで、何十里もの土地の持ち主がガラリと変わってしまうという不思議なお話。あの時は、大人たちの愉快そうな笑い声につられて、自分もただ胸を躍らせていただけでした。
けれど、その文字の力が持つ本当の冷酷さを知ったのは、優しかった実のお父が俄かの病で亡くなった、あの作法盛りの頃のことです。
あの日、お上の帳簿が広げられた役所の机の上で、昨日まで自分の名前の頭に当たり前のようにくっついていた「後藤」という馴染み深い二文字が、お役人の無機質な筆先によって、冷たく書き換えられました。その墨が乾いた瞬間から、長英という一人の人間の血筋も、これから歩むべき未来の道筋も、大人の都合とお上の解釈ひとつによって、全く別のものへと作り変えられてしまったのです。
自分という人間は、一体何なのだ。役所の白い紙の上に黒々と光る「高野」の文字を見つめながら、幼い胸を満たしたあの言いようのない寒けが、いま再び、十七歳の長英の五体を駆け巡りました。
人間なんて、文字ひとつ、誰かが決めた解釈ひとつの変換によって、どちら側の境界へだって簡単に転がされてしまう、頼りないものなのだ。そんな冷酷なルールに縛られたまま、おとなしく檻の中で飼われ続けることが、果たして本当に「生きる」ということなのだろうか。
その瞬間、少年の心の中で、ぽんと何かが弾けました。
それは、これまで彼を縛り付けていた、家という名の重力や、大人たちの言葉という名の壁が、一瞬にして木端微塵に吹き飛んだかのような、静かで、圧倒的な衝撃でした。
――もう、引き返せない。
心の奥底から湧き上がってきたその確信は、長英の全身の血を沸騰させるかのように激しく駆け巡りました。
文字に名前すら変えられてきた己の半生を、これ以上、他人の書いた帳簿の通りに生きてなるものか。誰かが引いた境界線の内側で、目をつぶって大人しく生きることを、私の魂は、これ以上絶対に拒む。
もしも文字というものに、人間の運命をガラリと作り変えてしまうほどの恐ろしい力があるのだとすれば、私は私の手で、私自身の運命を書き換えてみせる。古い帳簿の文字を突き破り、その向こう側にある本物の世界へ、私の足で歩みを進めてみせる。
養父・玄斎の恩は痛いほどに分かっていました。残される母への情愛も、決して偽りではありません。けれど、それらすべての情愛を天秤にかけたとしても、なお余りあるほどの強烈な渇望が、いまや長英の魂を完全に支配していました。このまま水沢の泥にまみれて一生を終えるくらいなら、いっそ文字の壁に切り刻まれて死んだ方がましだ。あの夜、蘭書の隙間に見てしまった、あの強烈な覚悟が、ついに言い訳の立たない、絶対的な形を結んだのです。
藩の境目を越えて、何が何でも江戸へ走ろう。
お上の許しもない出奔がどれほどの重罪か、そんなことはもうどうでもよかったのです。捕まれば身の破滅、高野の家への不忠、親族からの勘当――あらゆる恐怖の影が頭をよぎりましたが、いまの長英の瞳からは、すでに迷いの色は完全に消え去っていました。彼の内に灯った青い炎は、それらの影をすべて綺麗に払い落とすほどの、圧倒的な熱量を持って燃え盛っていた。
行灯の油の匂いが満ちる静寂のなかで、長英の横顔は、青白い知性の炎、そして決して折れることのない強固な決意の光に照らされて、かつてないほどに冴え渡っていた。
国境の塚を越えるのではない。自分を縛り付けている、この国そのものの古い境界線を越えるのだ。その先にある、本物の蘭学が息づく江戸へ、そしてそのさらに先にある長崎の地へと、この命が尽きるまで駆け抜けてみせる。
十七歳の少年は、暗闇の中で、静かに、けれど絶対に折れることのない誓いを胸の底へと深く突き立てた。
水沢の乾いた土埃を含んだ冷たい夜気が、障子の隙間から吹き込んできて、長英の頬を撫でていきます。しかし、もうその冷たさに身体を震わせる少年は、そこにはいませんでした。その瑞々しい魂の奥底には、すべての重力を振り切り、まだ見ぬ世界へと今まさに飛び立とうとする、駿馬のような強烈な決意の光が、黒々と、そして美しく宿り始めていたのでした。
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