一筆(いっぴつ)の辻(つじ)2
水沢の城下を包み込む夜霧は、いつもどこか重たく、湿った土の匂いを孕んでいます。
十七歳の長英が毎夜、養父・玄斎の目を盗んで貪り読んでいた異国の書物――蘭書は、少年の中に一度灯ってしまえば二度と消すことのできない、猛烈な烈火を植え付けていました。行灯の頼りない橙色の光のなかで、虫の這い跡のように並ぶ横文字を追いかけるたび、長英の胸の奥底には、この狭い国境の町を、そしてこの頑なな国そのものを裏側から突き動かす物が、幾重にも、恐ろしいほどの密度で積み重なっていった。
読めば読むほど、一語一語を頭に叩き込むごとに、長英の五体は激しく脈打ちました。それは、この古い土地にがっちりと張り巡らされた、お上の解釈や大人の都合といった目に見えない境界線を、一吹きで木端微塵に吹き飛ばしてしまうほどの凄まじい力でした。
(江戸へ行きたい。いや、江戸だけでは足りない。日の本の最西端、異国の言葉と最新の叡智が文字通り生きて動いているという、あの長崎の地へ行って、本物の蘭学を学びたい。)
少年の心の中には、もう水沢の狭い空にはどうしても収まりきらないほどの、巨大な地鳴りのような渇望が膨らみきっていました。その憧れは、水平線の向こう側から昇る真昼の太陽のように、あまりにも眩しく、少年の瑞々しい魂の奥底を捉えてどうしても離さなかったのです。衣服を透かして皮膚まで焦がしてしまいそうなほどの強烈な光を前にして、いまさら暗い行灯の光だけで満足できるはずがありませんでした。
けれど、一歩書斎を出て、白々と明けていく現実の朝を迎えてみれば、そこは古いしきたりと絶対的な家制度が、何百年もの時間をかけてがっちりと根を張る武家と医家の世の中でした。
高野家は、この水沢の地でお上からも領民からも厚い信頼を寄せられる、由緒正しき蘭方医の家柄。実のお父を亡くし、後藤の名字をお役人の筆先ひとつで冷たく剥ぎ取られたあの日、長英はこの高野の家を背負って生きるべき跡取り息子として、帳簿の上に確かに登録されたのです。それは、どれほど長英が己の内で烈火を燃やそうとも、決して逃れることのできない、冷徹な現実の重力そのものでした。
「長英、お前は一体、何を考えているのだ」
ある日の夕暮れ時、ついに胸の内に溜め込みきれなくなった熱を言葉にして漏らした長英を、養父・玄斎は鋭い眼光で射すくめました。玄斎の前に置かれた机の上には、いつもと変わらぬ、生薬を調合するための古い道具や、お上へ提出するための厳格な医業の記録が、整然と並んでいます。それらはすべて、この水沢の古い土にがっちりと根を下ろし、定められたお上のルールに従って、おとなしく、堅実に医者としての本分を全うする生き方の象徴でした。
「お前が夜な夜な書斎に忍び込み、蘭書を読んでいることは知っていた。熱心に学ぶ姿勢は医者として褒め千切るべきことだ。だが、長崎へ行きたいなどという大それた戯言は、金頭の耳にも入れたくはない。お前の本分は、この高野の家を継ぎ、水沢の医者として生涯を捧げることだ。それ以外の道など、最初からこの家には存在せぬのだよ」
玄斎の声は、怒りに震えているというよりも、この世界の絶対的な法則を言い聞かせるかのように、静かで、冷たく、そして重いものでした。長英を我が子のように厳しくも温かく育ててくれた養父だからこそ、その言葉には、長英を心から案じる本物の情愛がこもっていました。だからこそ、長英にとっては、それが何よりも重い枷となってその両肩にのしかかる。
「しかし、お父様」
長英は膝の上で拳を固く握りしめ、必死に声を絞り出しました。
「この水沢で得られる蘭学の知識は、ほんの、ほんの一握りの煤のようなものにすぎません。長崎には、オランダの国から直接渡ってきた高名な医師がおり、日々、新しい医術や世界の真実が文字となって生み出されていると聞きます。私は、その本物の叡智に触れたいのです。ただお上の決めた枠の中だけで、古い書物をなぞるような生き方では、本当の意味で人を救う医者にはなれないのではないでしょうか」
「口を慎め!」
普段はめったに声を荒らげることのない玄斎が、机を激しく叩きました。その衝撃で、筆立ての中の筆たちが一斉に不穏な音を立てて揺れました。
「お前が見ているものは、ただの分不相応な夢だ。外の世界へ飛び出すなど、身の破滅を意味する。この国で、お上の許しもなく、勝手に生まれ故郷の境界を越えて遠国へ赴くことがどれほどの重罪か、お前は分かっていない。お前がひとつの名字を失い、我が高野の人間となったあの日の重みを、もう忘れたのか。お前一人の我が儘で、この高野の家が取り潰しにでもなってみろ。残された母や親族はどうなる。お前は、泥にまみれてでも、この水沢の地で地道に薬を調合し、領民の命を繋ぎ続ける義務があるのだ。それが、お前が生きるべき定められた境界の内側だ」
玄斎の言葉は、正論でした。非の打ち所のない、大人の、そしてこの土地を支配する絶対的なルールの言葉でした。長英に求められているのは、ただ黙々と、重い荷物を背負って地を耕し続けるような、そんな堅実で、確実で、けれど果てしなく狭い歩みだけだったのです。
摩擦は、養父との間だけにとどまりませんでした。長英が長崎への留学を望んでいるという噂は、またたく間に高野家の親族たちの知るところとなり、彼らはまるで、一頭の暴れ馬を狭い檻の中に閉じ込めようとするかのように、寄ってたかって長英の行く手を阻みにかかりました。
親族の集まる寄合いの席は、長英にとって、息もできないほどの濃密な重力に満ちた生き地獄のようでした。薄暗い座敷の中に、煤けた着物を着た年長者たちがずらりと車座になって座り、その中心に十七歳の少年を立たせて、容赦のない言葉の矢を浴びせるのです。
「後藤の家から、せっかく名門の高野の家へ養子に入らせていただいたというのに、なんという恩知らずな男だ」
「長崎だの江戸だの、異国の学問に頭を狂わせおって。あのような得体の知れない横文字ばかりを見つめているから、お上のありがたみも、家の尊さも忘れてしまうのだ」
「若気の至りという言葉では済まされんぞ。お前のやろうとしていることは、この水沢の平穏を裏切る大逆だ。おとなしく玄斎殿の跡を継ぎ、この土地の泥にまみれて生きることこそが、人の道というものだ」
親族たちの口から吐き出される言葉は、どれもこれも、長英の魂をじわじわとすり潰していくような、古く、湿った、重たい土の塊のようでした。彼らの目には、長英が夢見る真昼の太陽のような世界は、ただの「狂気」や「身の破滅」としか映らないのです。彼らが守りたいのは、お上が定めた帳簿の文字通りに、昨日と同じ明日が繰り返される、狭く安全な世界だけでした。
長英は、その罵声の嵐の中で、じっと頭を垂れて耐えるしかありませんでした。けれど、その小さな胸の内は、言いようのない寒けと、激しい拒絶の炎で今にも引き裂かれそうになっていました。
(なぜ、誰も分かってくれないのだ。なぜ、この国の人々は、お役人が紙の上に書いたほんの数文字のルールや、伊達と南部を隔てるあの狭苦しい国境の塚ばかりを有難がり、その向こう側に広がる無限の世界に目を向けようとしないのだ。)
かつて幼い頃、お父の背中を見上げながら聞いた「文字の力」のお話が、再び長英の脳裏をよぎりました。あの時は、たった一筆で領地が広がる昔話を愉快だと思っていました。けれど、いま自分が直面しているのは、その文字の力が持つ、もう一つの、恐ろしいほどに冷酷で絶対的な側面でした。お上の帳簿、家制度の血筋、親族たちのしきたり――それらすべてが、太く黒い墨の線となって、十七歳の少年のまわりに強固な壁を築き上げ、そこから一歩も外へ出るなと、その自由を縛り付けていく。
夜、自分の部屋に戻った長英は、激しい自己嫌悪と、どうしようもない切なさに襲われました。
彼の中に宿る、外の世界へ飛び出したいという切なる願いは、決して家を憎んでいるからではありませんでした。自分を我が子のように育ててくれた玄斎の恩は痛いほどに感じていましたし、実のお父を亡くしたあとに自分を支えてくれた母や、水沢の優しい人々を傷つけたいわけでは決してなかったのです。むしろ、本物の蘭学を学び、より多くの人々を、この国そのものを救うための力を得たいという、純粋なまでの情愛がその根底にはありました。
しかし、その情愛から生まれる願いが、現実に存在している「高野の家を想う情愛」と、真っ向から衝突してしまっている。家を想うならば、この水沢の泥にまみれて一生を終えねばならない。けれど、魂の乾きを癒すために真昼の太陽のような外の世界を目指すならば、それは家を捨て、親族を裏切る不忠の者にならねばならない。
この二つの、どちらも偽りのない本物の想いの間で、十七歳の少年はひとり、暗闇の中で身体を引き裂かれそうな激しい痛みをこらえていました。畳に額を押し付け、声を殺してむせび泣く長英の涙は、冷たい夜気の中ですぐに乾いていきました。
障子の隙間から差し込む月光が、長英の手元にある蘭書を青白く照らし出しています。
少年は、震える指先で、その異国の横文字をなぞった。この文字たちは、昼間の大人たちが使う漢字や仮名のように、人間を特定の家や土地に縛り付けるためのものではないはずだ。もっと広く、もっと論理的で、四方の海を越えて世界中の人間を等しく繋ぐための、自由な翼のような力を持っているはずだ。その予感が、長英の傷ついた心臓を、トクトクと再び激しく脈打たせます。
まわりの大人たちが長英に求めたのは、ただ黙々と、頭を低くして地を耕し続ける生き方でした。お上の解釈ひとつの変換によって、どちら側の境界へだって簡単に転がされてしまう、頼りない人間のままでいることでした。
しかし、長英が異国の本の隙間に見てしまった世界は、あまりにも巨大で、あまりにも美しかったのです。
行灯の油の匂いが満ちる静寂の中で、長英の横顔は、青白い知性の炎に照らされて、かつてないほどに鋭く冴え渡っていきました。どれほど養父に反対されようとも、どれほど親族に罵倒されようとも、自分はこの水沢の狭い町で、大人たちの言いなりになって一生を終える男ではない。この胸の内の激しい胎動を殺して生きるくらいなら、いっそ文字の壁に切り刻まれて死んだ方がましだ――そんな逃れようのない強烈な覚悟が、少年の体内で、ついに確かな形を結び始めていました。
家という名の、あまりにも重く冷たい重力。それに対する、異国の叡智という名の、真昼の太陽のような光への憧れ。
二つの相反する力の摩擦は、十七歳の少年の五体の中で、いまや影を完全に払い落とすほどの、消えることのない大きな青い炎へと変わりつつありました。引き裂かれそうな葛藤の果てに、長英の澄んだ瞳の奥には、水沢の国境の壁を乗り越え、その先へと駆け出そうとする、強烈な決意の光が宿り始めていたのです。
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