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  作者: しゅう


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一筆(いっぴつ)の辻(つじ)1

 文化元年の、あの身を切るようなきびしい冬の寒さが、ようやくほんのりと和らぎ始めた頃のことです。奥州は仙台伊達藩のいちばん北に位置する水沢の城下町に、ひとつの小さな、けれど実によく通る健やかな産声が響き渡りました。

後藤家という、実直さを絵に描いたような武家の家に生を受けたその男の子は、のちに誰もがその名を知ることになる高野長英、その人です。生まれたばかりの赤ん坊は、まだ己に待ち受ける数奇な運命など知る由もなく、ただただ春を待つ水沢の澄んだ空気を小さな胸いっぱいに吸い込んでは、元気な声をあげていました。


 水沢という土地は、まことに不思議な場所です。すぐ北へ歩みを進めれば、そこにはもうお隣の南部藩との境目が厳然と横たわっている、いわば国境の町でした。それゆえ、この町で生まれ育つ子供たちはみんな、物心がついた頃から、おっかさんの温かい懐のなかで、あるいは縁側でおじいさんの煙管から立ち上る煙を眺めながら、子守唄代わりに決まってある不思議な昔話を聞かされて大きくなるのです。

それは、伊達と南部の境目をどこにするかという、昔の大事な掛け合いの席での、ちょいと小気味いい騙し合いのお話でした。


「いいかい、長英。我が伊達藩の賢いお先祖様はね、南部のお役人と領地の境を決める書類を交わすとき、まことに見事な機転を利かせたんだよ」


幼い長英を膝に抱いた大人は、自慢げに目を細めてそう語りかけるのが常でした。お話によれば、元々の約束では「うしの歩み」で辿り着いた処を境にしようということになっていたのだそうです。ところが、伊達の抜け目のないお役人は、夜のうちにこっそりと書類の「牛」という文字の上に、すっと縦の一筆を書き足して、真昼の太陽や、駿馬を意味する「うま」の文字へと化けさせてしまいました。


「牛の歩みのはずが、午、つまり馬の駆ける速さということになってしまえば、こちらの勝ちさ。南部のお役人がお上の公式な書類を前にして首を傾げている間に、我が伊達藩はずるりと領地を北へ広げることができたんだ。たった一筆、ほんの小さな墨の線が突き出ているかいないかで、何十里もの土地の持ち主が変わっちまうんだから、文字っていうのは本当に大した力を持っているもんだよ」


大人たちはみんな、南部を出し抜いたこの民話を愉快そうに笑いながら話してくれました。幼い長英もまた、そのお話を聞くのが大好きで、小さな胸を躍らせては、まだ見ぬ「文字」というものの不思議な威力について、ぼんやりと思いを馳せていたものです。水沢の乾いた土埃を含んだ冷たい風を吸い込みながら、少年は無意識のうちに、「文字ひとつが持つ、恐ろしいほどの力」をその瑞々しい魂の奥底へと刷り込まれていきました。

けれど、そんな風にのどかなお話に耳を傾けていられた平穏な日々は、長くは続きませんでした。長英がほんの物心ついたばかりの、まだお父の背中が大きく、世界でいちばん頼もしく見えていた作法盛りの頃、優しくて実直そのものだった実のお父が、俄かの重い病にかかって急に亡くなってしまったのです。柱を失った家の中は、まるで火の消えたように寒々しくなり、残された家族の暮らしには暗い影が落とされました。

まだ幼く、お父の死というものの本当の意味さえ十分に噛み砕けていない長英に、さらなる運命の転変が容赦なく降りかかります。男の子は、母方の叔父であり、この水沢の地で蘭方医として高名であった高野玄斎の家へ、養子として出されることになりました。

それは、子供の長英にとっては、住み慣れた家や親しんだ天井を離れるというだけでなく、もっと冷徹で、目に見えない絶対的な変化を伴うものでした。

ある日、お上の帳簿が広げられた役所の机の上で、昨日まで自分の名前の頭に当たり前のようにくっついていた「後藤」という馴染み深い二文字が、お役人の無機質な筆先によって、冷たく「高野」の二文字へと書き換えられました。その墨が乾いた瞬間から、長英はもう後藤家の人間ではなくなり、高野の家を背負って生きるべき跡取り息子となったのです。

お上の都合、大人の事情、そして帳簿に記されたほんの数文字の変換。それだけで、自分の生まれ持った血筋も、これから歩むべき未来の道筋も、すべてがガラリと作り変えられてしまう。役所の白い紙の上で黒々と光る自分の新しい名字を見つめながら、幼い長英の小さな胸のうちは、言いようのない寒けで満たされていきました。

(ああ、人間なんて、文字ひとつ、お上の解釈ひとつの変換によって、どちら側の境界へだって簡単に転がされてしまう、頼りないものなのだな……)

その厳然たる事実に、少年は身を焦がされるような切なさとともに、深く気づかされました。かつて子守唄代わりに聞いた「牛と午」の騙し合いは、ただの愉快な昔話などではなく、この世界を裏側から動かしている、冷酷で絶対的なルールそのものだったのだと、幼い長英は知ってしまったのでした。


 それからの長英は、水沢の町でも評判の、どこか大人びた、物静かな少年へと育っていきました。高野の家は蘭方医の家柄ですから、武家の家とはまた違った、どこか異国の匂いのする学問の空気がそこかしこに漂っていました。養父である玄斎は、長英を我が子のように厳しくも温かく育て、自らの医業を継がせるべく、熱心に手ほどきを始めます。長英もまた、養父の期待に応えるように、朝から晩まで机に向かっては書物を読み耽る毎日を送るようになりました。

やがて、時の流れは少年を大きく育て、長英が十七の瑞々しい春を迎えた頃のことです。

春とは名ばかりの、夜になればまだまだ障子の隙間から冷え冷えとした夜気が忍び込んでくる水沢の夜。長英は、家族がみんな寝静まったのを見計らってから、養父・玄斎の書斎へと毎晩のようにこっそりと足を運ぶようになっていました。

しんと静まり返った部屋のなかで、長英は行灯の芯を少しだけ押し上げ、その細く頼りない橙色の灯りを頼りに、机の上に一冊の大きな書物を広げます。それは、この国で普段使われている漢字や仮名とはまったく異なる、横文字が虫が這った跡のように幾筋も並んだ、異国の「蘭書」でした。

昼間、まわりの大人たちから求められるのは、この水沢の古い土にがっちりと根を下ろし、お上のルールに従って、おとなしく医者としての本分を全うする生き方です。それはまるで、かつての昔話に出てきた、重い荷物を背負ってただ黙々と地を耕し続ける「牛」のような歩みそのものでした。

しかし、夜の闇に紛れて蘭書を開くときだけは、長英の魂は別の生き物へと変貌を遂げるのでした。

見慣れぬ未知のアルファベットのひとつひとつが、長英の澄んだ瞳の奥に飛び込んできます。少年が息を詰めてその横文字を追うとき、その文字たちはただの墨の染みではなく、まるで命を持ってうごめく生き物のように見えました。それどころか、目に見えない不思議な光を放ちながら、少年の脳髄へと容赦なく流れ込んでくるかのような、強烈な錯覚を覚えるのです。

読めば読むほど、一語一語を頭に叩き込むごとに、長英の胸の奥底では、言葉にならない激しい熱量が爆ぜるように溜まっていきました。それは、異国の地で長い時間をかけて磨かれてきた叡智が、少年の体内で恐ろしいほどの密度で重なり合っていくような、静かな胎動でした。

その異国の文字が持つ、見たこともないほどに新しく、どこまでも論理的で広い世界の見方に触れるたび、長英の心臓はトクトクと激しく脈打ちます。このアルファベットという文字の並びには、自分の運命を勝手に書き換えたお上の帳簿や、伊達と南部を狭苦しく隔てている国境の塚など、一吹きで吹き飛ばしてしまうほどの、凄まじい力が秘められているのではないか。少年はそんな予感に、身体中を粟立たせていました。


 行灯の油の匂いが満ちる静寂のなかで、長英の横顔は、青白い知性の炎に照らされているかのように冴え渡っていました。読めば読むほど、自分はこの水沢の狭い町で、大人たちの言いなりになって「牛」のままで一生を終える男ではないという、逃れようのない強烈な思いが、彼の中で確かな形を結び始めていたのです。

それはまだ、誰にも言えない、十七歳の少年の胸の内に秘められた、小さくも激しい青い火花にすぎませんでした。けれど、その火花は夜を徹して蘭書を貪る長英の五体の中で、確実に、影を払い落とすような熱を持って、消えることのない大きな炎へと育ちつつあったのです。

読んでいただきありがとうございます。

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