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  作者: しゅう


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211/230

波の舵1

 その町は、黒々とした険しい尾根が、獲物を狙う獣の爪のように海へと突き立てられ、その指の隙間にへばりついていた。

入り組んだ海岸線が描く複雑な曲線。

その最も深い入江の奥にあるこの港は、海から眺めれば、逃げ場のない箱庭のようにも見えた。

背後には、鉄の鉱石を抱えた重厚な山々が巨大な壁となってそびえ、わずかな平地を力ずくで海へと押し出している。その押し出された狭い土の上に、黒い煙を吐き出す高い煙突が林立し、昼夜を問わず、大地を揺らすような低い唸り声を上げていた。

山からは常に冷たく鋭い風が海へと吹き下ろし、それが波頭を叩く音と、絶えず響く槌音が混ざり合って、この町特有の、どこか殺気立った静寂を作り出している。昭和十六年の秋、その空気は、近づく冬の気配と共に、肺の奥まで凍てつかせるような重みを帯び始めていた。


 港のドックに横たわっていたのは、かつて白亜の貴婦人と謳われた美しい客船だった。その船体は、波飛沫を浴びて輝くために存在していたはずだったが、今、その誇りは灰色の塗料によって無残に覆い隠されようとしていた。職人たちが振るう太い刷毛が、船肌を叩くたびに、ねっとりとした油の匂いが潮風を汚していく。かつてその船首で黄金色に輝いていた名前は、今や厚い灰色の層の下に没し、ただの「兵器」という質量へと変換されていた。名前を奪われるということは、その船が積み重ねてきた記憶も、かつて運んだ人々の笑い声も、すべてがなかったことにされるという宣言に等しかった。山に反響する金属音は、まるでその葬列を急かす弔鐘のように聞こえた。


 「私」は、その巨大な灰色の壁の麓で、自分の存在さえも薄れていくような感覚に陥っていた。手のひらには、昨夜、あの人と過ごした時間の余熱がまだ張り付いている。木々の鬱蒼と茂る山道の影、製鉄の火が遠くの空を赤く染めるのを背に、人目を忍んで交わした短い逢引。この冷徹な鋼鉄の世界において、唯一の真実であった。しかし、目の前で塗り潰されていく船体を見上げていると、そのささやかな幸福さえも、時代の大きなうねりの中に溶け、消え去ってしまうのではないかという恐怖が、波のように押し寄せてきた。

町の空気は、鉄を焼く匂いと石炭の煤にまみれ、人々の肌を薄汚れた膜で覆っていた。配給所の前には、言葉を失ったように押し黙った人々の列が長く伸び、その沈黙は、時折聞こえる製鉄所の高炉の爆ぜる音によって、より一層際立たせられた。誰もが、何かが終わろうとしていることを知っていたが、それを口にする勇気を持つ者はいなかった。夜になれば、細い路地の奥にある煮売り酒屋からは、投げやりな笑い声と安酒の匂いが漏れ聞こえてくる。それは、明日という日を信じることができなくなった者たちの、最後の悪あがきのように響いた。

足元の石段には、薄っすらと鉄の粉が積もっていた。一段上るたびに、靴底がざらりと音を立て、風に舞った枯れ葉が乾いた音を立てて転がっていく。山鳥の鳴き声さえもどこか鋭く、この町全体が巨大なやすりで削られているかのような錯覚を覚える。「私」が一人で歩くこの道は、かつてあの人と共に、未来について語り合った場所でもあった。しかし今、隣にいるはずの気配は、灰色のペンキに飲み込まれたあの船と同じように、輪郭を失い始めていた。

甲板の上に立つあの人の姿は、もう「私」の目には届かない。同じ色の服を着せられ、同じ目的のために並べられた男たちの中に、かつての柔らかな眼差しを持つ「あの人」はもういなかった。彼らもまた、船と同じように、個としての名前を剥ぎ取られ、戦いという巨大な歯車へと組み込まれていく潤滑油に過ぎなかった。昨夜、別れ際に交わした言葉が何であったか、不思議なほどに思い出せない。ただ、あの人の頬をなでた風が、今、自分の頬を刺すように冷たく通り過ぎていったことだけが、鮮明な痛みとして残っている。


 製鉄所の火が、夜の海面を不気味な紅に染め上げた。それは単なる明かりではなく、まるで地獄の釜の蓋が開いたかのように、暗い波を内側から煮立たせているようだった。その光に照らされた港は、かつて愛した風景とは似ても似つかない、異界の入り口のような様相を呈していた。山影が海へと深く溶け込み、湾が夜の色に染まる頃、腹の底まで響くような重苦しい霧笛が鳴った。それは、生と死の境界線を引く、冷徹な合図であった。

「あの人」が乗る船が、錆びついた鎖を巻き上げる音と共に、ゆっくりと、そして取り返しのつかない速度で岸壁を離れ始めた。その動きは、自らの意思というよりは、目に見えない巨大な潮流に引きずられているかのように見えた。岸壁を埋め尽くした万歳の叫びや軍歌の旋律は、空を舞うカモメの鳴き声よりも虚しく、山にぶつかっては霧散していった。「私」はその喧騒の輪から外れ、ただ遠ざかる灰色の塊を見つめ続けた。この船は、二度とこの港の水を分けることはない。あの笑顔は、二度とこの山々の緑を映すことはない。その確信は、呪いのように深く、「私」の胸に刻み込まれた。

船が防波堤を越え、外洋へと舵を切ったとき、「私」は自分の内側にあった大切な何かが、共に引き剥がされていくのを感じた。岸から離れるごとに、船影は夜の闇へと溶け込み、水平線の上で小さな一点となって明滅している。それはまるで、かつて二人で交わした語らいが、果てしない虚空へと散逸していく様を見せつけられているようだった。


 港を後にし、一人で家へと向かう道すがら、街灯の下を通るたびに自分の影が異常に長く伸び、そして次の暗がりに飲み込まれて消えた。家々の窓は厚いカーテンで閉ざされ、しんとした夜の空気に冷たく突き刺さる。その空気の一つひとつが、もはや自分たちの生活とは無関係な場所で動く巨大な歯車の音のように聞こえ、自分の動悸だけが耳元でうるさく跳ねていた。

帰り着いた部屋は、あまりに静かだった。机の上には、あの人の使い古した革の手袋。持ち主の指の形を残したまま無造作に置かれている。傍らには、いつか海辺で拾った、波に削られて丸くなった石が二つ。それらは何一つ語らないが、そこにあるという事実だけで、耐えがたい沈黙を部屋中に撒き散らしていた。「物」だけが残り、その持ち主の意志だけが、灰色の海へと連れ去られてしまった。


 翌朝、再び港を訪れると、昨日の喧騒が嘘のように静まり返っていた。ドックはぽっかりと口を開けたまま空っぽになり、底に溜まった泥水だけが、冬の訪れを予感させる冷たい光を反射していた。岸壁のあちこちには、昨日塗り潰した際に飛び散った灰色のペンキの汚れが点々と残り、それはまるで、剥がすことのできない不吉な傷跡のように、潮風にさらされていた。あの船も、あの人も、もうここにはいない。ただ、山から吹き下ろす鋭い風だけが、空っぽになった港を通り抜け、誰もいない岸壁を白く乾かしていった。

ふと目を上げると、港を抱く山の稜線に、白く浮き上がる木標が見えた。それは、かつて漁師たちが目印にした古い標柱だったが、今、それはこの港から去りゆく魂を静かに見送る、供養の形跡のようにも見えた。風を遮るものもない高台で、その標は沖へ向かう船を見守り、そして残された「私」の絶望を、無言で受け止めていた。船影が水平線に溶け、ただの点となって消えた後も、海は変わらず黒くうねり、山からの風は、すべてを忘れさせるかのように吹き荒れていた。

読んでいただきありがとうございます。

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