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  作者: しゅう


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波の舵2

 その町を「鉄の都」と呼んだのは、今はもうどこの誰だったか。海から陸を眺めたとき、かつて目を射るように輝いていた銀色の屋根や、空を切り裂いていた巨人の指のような煙突の群れは、一昼夜の火の海で消え失せていた。背後にそびえる山々の木々は、爆風と熱波に焼かれてことごとく立ち枯れ、黒く焦げた無数の槍が大地に突き刺さっているかのような無惨な姿をさらしている。かつての町の輪郭は、もはや瓦礫の山に埋もれて判別すらできず、残されたのは、かつての家々の痕跡をなぞるように積もった白灰色の灰と、錆び朽ちた鉄の腐食臭だけだった。昭和二十年の冬。この港町に吹き込む風は、山から降りてくるたびに焦土の煤を巻き上げ、生き残った者たちの肌を容赦なく黒く染めていく。

港だけが、この灰色の静寂の中で、唯一の「口」として不気味に開いていた。入り組んだ湾の奥、引揚者を詰め込んだ煤けた船が不定期に滑り込んでくる。船の煙突から吐き出される重く黒い煙は、低く垂れ込めた冬の雲と混ざり合い、港全体を窒息させんばかりに覆っていた。接岸のたび、タラップからは泥のように疲れ果てた人々が溢れ出し、一様に生気を失った足取りで焦土へと足を踏み出す。


 「私」は、その渚に立ち、引揚船から吐き出される「生ける塊」の群れを待ち構えていた。かつてこの町でどのような娘時代を送り、何を夢見ていたか。そんな記憶は、あの日、高炉の火が空を焦がした夜に、すべては灰となって散逸した。今の「私」は、ただこの港で誰かの重すぎる荷を担ぎ、震える肩を支えることで、自分の中にぽっかりと空いた「欠落」を埋めようとしている、名もなき一人に過ぎない。

あの日、火の粉が降り注ぐ中で、私は自分の大切なものすべてを炎に明け渡した。守ろうとしたもの、愛そうとしたもの、それらすべてが指の間からこぼれ落ち、最後に手の中に残ったのは、逃げる途中で無意識に掴んだ、見ず知らずの他人の子供の、濡れた小さな手の感触だけだった。その子は結局、混乱の中で私の手から離れ、人波に消えていった。以来、私の右肩には、その時に感じた「誰かを支えきれなかった」という底冷えするような喪失感と、それとは裏腹に、命のやり取りの中で焼き付いた「何か」が、消えないあざのように居座り続けている。

自分の人生という舵を失い、空っぽの器のようになった私にとって、今は、目の前の泥に足を取られ、絶望という荒波の中で、私は自分のために生きることを止め、代わりに、他人の重みを背負うことで自分の空洞を塞ごうとしている。引揚船から降りてくる老婆の、骨ばかりの背中に腕を回し、疲労で泥のようになった男の汚れた荷物を代わりに背負い、私はただ、一歩ずつ焦土の泥を掻き分けていく。

町の空気は、鉄を焼く匂いではなく、腐敗と絶望が混ざり合った異臭に満ちていた。配給所の前には、言葉を失ったように押し黙った人々の列が長く伸び、その沈黙は、瓦礫の崩落音によって、より一層際立たせられた。夜になれば、瓦礫の隙間に作られた小屋から、行き場のない怒号と、安酒代わりに煽る濁った水の匂いが漏れ聞こえてくる。それは、明日を信じることができなくなった者たちの、最後の喘ぎのように響いた。

足元の石段は粉々に砕け、かつて鉄の粉が積もっていた隙間には、今は白灰色の灰が堆積している。一歩進むたびにその灰が舞い上がり、女である私の髪や肌を煤けさせていく。かつての町が持っていた色彩はどこにもない。しかし、タラップから降りてきた一人の老いた男を支えた瞬間、私の右肩に、確かな他人の体温が流れ込んできた。男は私の細い肩に縋り、「かたじけない」と震える声で呟いた。その言葉が、自分の中の空洞に一滴の水を落とすように響く。


 かつて製鉄所の火が赤く染めた海面も、今は月明かりさえ吸い込むような深い闇に沈んでいる。山影が海へと深く溶け込み、湾が夜の色に染まる頃、腹の底まで響くような重苦しい霧笛が鳴った。それは帰還を祝う音ではなく、この焦土に留まる者たちへ、生き続けることの過酷さを突きつける宣告のようであった。

引揚船が岸壁を離れ、次なる帰還者を求めて沖へと向かう。私はその静寂の中で、ただ遠ざかる黒い塊を見つめ続けた。あの日、船と共に名前も誇りも塗り潰されていった時代があったことを、この港は覚えているのだろうか。今の私に分かるのは、肩に残る他人の熱だけが、自分がまだこの場に踏みとどまっている唯一の証拠だということだけだ。

港を後にし、瓦礫の中の「家」へと向かう道すがら、月明かりの下を通るたびに自分の影が異常に長く伸び、暗がりに飲み込まれて消えた。家々の窓は板で塞がれ、冷たく突き刺さる空気の中で、自分の動悸だけが耳元でうるさく跳ねていた。

帰り着いたのは、焼けたトタンを組み合わせただけの粗末な小屋だ。そこには、かつての華やかな暮らしを物語るものは何一つない。ただ、拾い集めた錆びた釘や、波に削られた丸い石がいくつか転がっているだけだ。それらは何一つ語らないが、そこにあるという事実だけで、耐えがたい沈黙を部屋中に撒き散らしていた。


 翌朝、再び港を訪れると、昨日の喧騒が嘘のように静まり返っていた。ドックの底に溜まった泥水だけが、冷たい光を反射していた。岸壁のあちこちには、かつて「兵器」としての船を塗り潰した際に飛び散ったであろう灰色のペンキの汚れが点々と残り、それは剥がすことのできない不吉な傷跡のように、潮風にさらされていた。あの船も、愛した記憶を持つ誰かも、ここにはいない。ただ、山から吹き下ろす鋭い風だけが、空っぽになった港を通り抜け、誰もいない岸壁を乾かしていった。

ふと目を上げると、山の稜線に、焼け残った木標の残骸が見えた。それは、去りゆく魂を静かに見送る、供養の形跡のようにも見えた。風を遮るものもない高台で、その標は沖へ向かう船を見守り、そして残された私の、出口のない「欠落」を、無言で受け止めていた。

私は、自分が運ぶ荷物の中に、時折「声」を聞く。それは、家族を探す名前の呼び声であり、あるいは、戻らぬ故郷を想う溜息である。それらの音を一つひとつ拾い集め、私は肩に乗せる。重くなればなるほど、私の中の空洞は少しずつ、他人の人生の欠片で埋まっていくような気がした。自分を消し、誰かの「支え」という機能に徹するとき、私は初めて、生きている意味を掌に感じることができた。

配給の列で諍いが起きれば、私は女の身でその間に割って入る。罵倒される言葉さえも、私の中に居座る「誰かを支えきれなかった後悔」に比べれば、少しも痛くはなかった。私は彼らの濁った瞳を見つめ、ただ隣に立つ。その重みが伝わるとき、私の肩の熱は、再び激しく脈打ち始める。


 冬の朝、海面から立ち上る靄が、港を白い帳で包み込む。その霧の中から、また一人の帰還者が姿を現した。彼女は幼い子供を抱き、震える足で陸を目指していた。私は迷わず駆け寄り、その重い荷物を自分の背に背負い直した。子供の震える小さな手が、私の首筋に触れる。あの日の、火の海で離してしまった手の感触が蘇る。今度は離さない。その思いだけが、私の新しい「舵」となった。

山から吹き下ろす風は、刃物のような鋭さを持っていた。しかし、今の私にはその冷たさが心地よかった。私は泥にまみれた靴で大地を踏みしめ、一歩、また一歩と進む。この焦土の黒の中に、微かな「光の粒」が生まれては消え、また生まれる。それこそが、この死んだ街が再生するための、唯一なのだと、私は言葉にせず、ただその足取りに力を込めた。

船影が水平線に消えた後も、海は変わらず黒くうねり、山からの風は吹き荒れていた。しかし、私の肩には、まだ確かな「他者の重み」が残っている。それが私の命をこの場に繋ぎ止める重しであり、この戦後という海を渡り切るための、たった一つの、しかし折れることのない「波の舵」であった。


「さあ、こちらへ」


私は、震える親子に向かって短く告げた。行く先には瓦礫と灰しかない。しかし、私がこの肩を貸し続ける限り、彼女たちの旅は終わらない。そして私の物語もまた、この渚から、新しく始まっていく。

読んでいただきありがとうございます。

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