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  作者: しゅう


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210/226

二つの未来4

 一九三五年、四月十五日。


ワシントンD.C.の夜は、春の湿り気を帯びた重い風が、ホワイトハウスの庭に咲く木々の香りを運んでいた。

つい数時間前まで、この場所は歴史の熱狂に包まれていた。二十一カ国の全権大使が列席し、法と文化の勝利を宣言する、世界でも類を見ない「平和の旗条約リョーリフ・パクト」の調印式。カメラのフラッシュが、まるで戦場の砲火のように激しく、しかし無機質に焚かれ、万雷の拍手が石造りの壁に反響し、ニコライ・リョーリフは「世界を救う預言者」として称賛の嵐の中にいた。

人々は、白地に三つの赤い円が描かれた旗を指差し、それがもたらす輝かしい未来を熱っぽく語り合った。握手を求められ、シャンパングラスの触れ合う繊細な音が響く中で、ニコライは穏やかな微笑を浮かべていた。だが、その微笑みの裏側で、彼の心は喧騒を離れ、別の場所――時間も空間も超越した原点へと帰還していた。彼にとって、このワシントンの華やかな舞台は、十八年前に見た「帝都の炎」から続く、長い長い夢の延長線上に過ぎなかった。

いま、ニコライは一人、宿泊先の窓辺に立っていた。

ホテルの豪奢なカーテンを引き、都会の街灯が作り出す文明の光を拒絶するようにして、彼はただ遠く、心の眼に映る北の地平を見つめていた。

ホワイトハウスに掲げられた「平和の旗」は、月光を浴びて白く浮かび上がっているだろう。だが、ニコライの瞳の奥に広がるのは、ワシントンの柔らかな春の夜景ではなかった。それは、彼が魂のすべてを置いてきた場所――クルの渓谷から見上げる、冷徹なまでに「青い」ヒマラヤの山嶺であった。

あの高地では、酸素さえも光の一部となり、生命はただ存在するだけで宇宙の一部となる。夜の寒気は肌を刺す刃のようであり、見上げる星々は沈黙のままに真実を語りかけていた。ニコライにとって、このワシントンの狂騒は、まるで壊れた蓄音機が流す雑音のように虚しく響いた。人々が「平和」という言葉を唱えれば唱えるほど、その言葉が持つ本来の質量が、軽薄な社交辞令へと削り取られていくのを、ニコライは肌で感じていた。


 ニコライは、深く、重い息を吐き出した。

その吐息は、一九一七年のサンクトペテルブルクで嗅いだ煤けた炎の匂いも、一九二四年のチャンタン高原で肺を焼いた凍てつく酸素の薄さも、一九二九年のニューヨークで浴びた欲望の熱風も、すべてを飲み込み、昇華させたはずのものだった。

条約という「光」を地上に定着させた。文化という最強の盾を、国際法という鉄の枠組みの中に嵌め込んだ。これで人類は、自らの手で自らの記憶を破壊することを踏みとどまるはずだ。そう信じていた。そう信じるために、彼はこの十八年、国を追われ、山を越え、氷を噛むような旅を続けてきたのだ。自分の描いた三つの円が、人類の暴走を止める「楔」になると信じて。

しかし、調印されたばかりの重厚な羊皮紙の感触が、今も指先に熱を持って残っているにもかかわらず、ニコライの耳には、別の不穏な音が届いていた。

それは、大西洋を越えて響いてくる、鉄と脂の匂いがする音だった。

ドイツ。ナチスの軍靴が、整然とした、しかし血の通わぬ冷酷なリズムで石畳を叩いている。ベルリンでは不穏な焚書の煙が上がり、彼が守ろうとした「文化」が、選別という名の暴力によって断罪されようとしている。一九一七年に燃えた美術アカデミーの炎が、今度は形を変え、巨大な制度となって世界を飲み込もうとしていた。

アジア。大陸を焦がす戦火はもはや誰にも止められず、かつて彼が愛した「東洋の静寂」は、巨大な鋼鉄の塊と大砲の轟音によって引き裂かれようとしていた。

光を強くすればするほど、その影はより深く、逃れられないほど濃くなる。

平和の旗を地上に降ろし、法として定着させた瞬間、それによって救われるものと、それをあざ笑うように踏みにじるものの輪郭が、かえって明確になってしまったのだ。


「私は、何を定着させたのだ……」


ニコライは呟いた。その声は、重厚な絨毯が敷かれた夜の室内に吸い込まれて消えた。

彼が創った旗は、これから訪れる未曾有の「夜」を、果たして耐えうるのだろうか。それとも、数百万、数千万の命が失われる戦火の中で、ただの虚しい布切れとして焼け落ちるのだろうか。自分が定着させたのは「救い」なのか、それとも「絶望」をより鮮明にするための対比に過ぎなかったのか。

ニコライの指先が、スラックスの右ポケットをまさぐった。

そこには、長年、彼がお守りのように持ち歩いていた一つの小さな「重み」があった。

指先で取り出したのは、一枚の古い硬貨だった。

それは、一九一七年。あの革命の炎の中で、祖国ロシアを去る直前に拾い上げた、帝政ロシア時代の銅貨だった。もはやどの国でも通用しない、歴史の残骸。長年の摩擦によって縁は丸くなり、刻印された双頭の鷲の紋章も、いまや幽霊のようにぼんやりとしている。

サンクトペテルブルクの雪の中で、彼はこのコインを拾った。

あの日、燃える美術アカデミーを背にした彼は、二つの未来を予見した。

一つは、すべてが焼き尽くされ、人類が自らの根源的な記憶を失い、ただの肉の塊として争い続ける、永遠の消失。

もう一つは、理が定着し、三つの円が示すように、芸術と科学と宗教が調和する、永遠の青き未来。

この十八年、彼は常にこのコインの表と裏を同時に見つめながら歩んできた。ヒマラヤの極限地帯でも、チャンタンの抑留テントでも、この硬貨の冷たさが、彼を「いま、ここ」にある現実へと繋ぎ止めていた。このコインは、失われた過去の唯一の欠片であり、まだ見ぬ未来を占うための、唯一の道具だった。


 ニコライは、窓の外を見つめたまま、そのコインを親指の爪に乗せた。

窓を透かして届く月光が、磨り減った銅貨の表面に一筋の鋭い光を走らせる。

条約は結ばれた。しかし、世界は確実に破滅へ向かっている。

自分がしてきたことは、人類という種が死ぬ間際に見せる、一時の化粧に過ぎなかったのか。

それとも、この暗黒の世紀を越えた先にある、一万年後の人類のための「種」を、このワシントンの地に蒔いたのか。

もしそうなら、この条約という種が芽吹くのは、自分がいなくなったずっと後のことだろう。自分は、その開花を観測することのない、ただの種蒔き人に過ぎないのかもしれない。

ニコライは、指に力を込めた。

ピン、という、張り詰めた弦が弾けるような鋭い金属音が、静まり返った部屋に響いた。

古い銅貨が、重力に逆らうようにして高く、高く舞い上がる。

空中を回転するコインは、ワシントンの街明かりと月光を交互に反射し、銀色と漆黒の閃光を繰り返す。

高速で回転するその円環は、彼が描いた平和の旗の、あの三つの円を彷彿とさせた。過去と未来、光と影、生と死が、回転の中で一つに溶け合っていく。それはもはやコインではなく、運動そのものであり、宇宙の理そのものだった。


 過去、現在、未来。

 破壊、再生、維持。

 

舞い上がったコインが、放物線の頂点に達し、一瞬だけ空中で静止したように見えた。

その刹那、ニコライの瞳に、ヒマラヤのあの発光する菫色の残照がフラッシュバックする。

あの青は、人間の争いなどとは無関係に、ただそこに在った。一九一七年の炎も、一九三五年の栄光も、これから来る暗黒の数年も、すべてを等しく包み込み、ただ存在し続ける、絶対的な真実の色。

もし、人類がこの「平和の旗」を裏切り、再びすべてを灰にする道を選ぶなら、この条約はただの紙屑として後世の笑い草になるだろう。

もし、人類がこの小さな理をよすがにして、暗い嵐の海を渡り切るなら、この旗はいつか宇宙を包む星々の紋章になるだろう。


コインが落ちてくる。

加速度を増し、重力という冷厳な物理法則に従って、彼の掌に向かって真っ直ぐに落ちてくる。

そのわずかな滞空時間の間に、ニコライは悟った。

どちらの未来が来ようとも、自分はそれを受け入れるしかないのだと。

ただ定着させることしかできないのだと。


 表か、裏か。

 平和か、破滅か。

 定着か、消失か。


ニコライ・リョーリフは、落ちてくる光の粒を見つめながら、生涯で最後となる、そして最も純粋な問いを自分自身に投げかけた。

掌に冷たい金属の感触が戻る直前。

開かれた掌が、自らの運命を包み込もうとするその瞬間。

彼は、自らの内にあったすべてを懸けて、音のない声で呟いた。

 

「私は一体 どっちの結末 願う」

 

コインは掌に落ちた。

ニコライは、その結果を見ることなく、ただ静かに掌を握りしめた。

窓の外、ワシントンの空はどこまでも深く、しかしヒマラヤの山嶺のように、青く澄み渡っていた。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

本作『二つの未来』は、これにて完結となります。


本作の着想は、古代の叡智である「カタカムナ第51首」に示されたことわりから得たものでした。

この首には、生命の根源的な心である「イキココロ」から現象界の「ワツラヘ(変遷・苦悩)」への変換、そして「潜在意識と集合意識」の関わりという本質が示されているとされています。


この言葉に触れたとき、私の脳裏には「重なり合う二つの未来」というイメージが鮮烈に浮かび上がりました。

その感覚を形にする存在を模索する中で出会ったのが、ニコライ・リョーリフという実在の人物でした。

本作は、1917年のロシア革命から1935年4月15日の「平和の旗条約」(リョーリフ・パクト)調印式までを舞台とした、史実に基づくフィクションです。

リョーリフの歩んだ道に、カタカムナが説く「現象化の理」を重ね、一人の人物が何を見つめ、何をてのひらに握りしめたのかを描き出そうと試みました。


【読者の皆様へ】

本作を読み終えた皆様の率直な感想が、今後の執筆の大きな糧となります。

もしよろしければ、以下の5段階評価、および皆様の心に残った情景をお聞かせいただけますと幸いです。

評価: ★ 〜 ★★★★★

コメント: 最も印象に残った場面や、心に触れた描写など、自由にお聞かせください。


皆様からいただく言葉が、この物語に最後の一片を付け加え、真の完成へと導いてくださることを願っております。

最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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