中二病3
東京は、呼吸をするだけで肺の奥が薄汚れていくような街だった。
新宿駅の喧騒、代々木公園の湿った土の匂い、そして大学のキャンパスを埋め尽くす、目的の見えない若者たちの熱気。誠一はそのすべてに、完璧な無関心という名の防波堤を築いていた。
大学二年生になった誠一は、経済学部の講義室の片隅で、あるいは学生食堂の喧騒の中で、依然として「普通の大学生」というロールプレイを継続していた。適度なサークルに入り、適度な成績を収め、適度な居酒屋で「将来どうするよ」という、答えの出ない問いに愛想笑いで応える。高校の卒業式で自らに言い聞かせた通り、彼は自分自身の深淵を、故郷の雪の中に置き去りにしてきたはずだった。
しかし、運命というものは、逃げれば逃げるほどその足取りを速め、獲物の背後へと音もなく忍び寄る。
一度発生した粒子が、その極点に達したとき、力は逆方向へと一気に噴出する。誠一が築き上げた堅牢な「普通」という名の壁は、あまりにも静かに、しかし決定的な瞬間に崩壊を始めることとなる。
それは、夏の気配がまとわりつく、湿った午後だった。
誠一は、紛失した学生証の再発行手続きのため、普段は立ち入ることのない旧校舎の奥、迷路のように入り組んだ部室棟の廊下を歩いていた。
そこは、表側の華やかなキャンパスとは切り離された、時間の澱みが溜まる場所だった。壁には何年も前に終わったはずの演奏会のポスターが色褪せて貼り付き、床のコンクリートからは冷たい湿気が這い上がってくる。
「……どこだ、ここは」
誠一が足元を覚束なくさせながら角を曲がった、その時だった。
埃っぽい部室棟の最果て、日光も届かない薄暗い片隅に、その扉はあった。
木製の扉には、手書きで掠れた「史学研究会」という古めかしい看板が掲げられている。その隙間から漏れ聞こえてくるのは、およそ大学生の会話とは思えない、重苦しく、しかしどこか熱を帯びた、紙の擦れる音と低い囁き声だった。
通り過ぎようとした誠一の耳に、一つの言葉が突き刺さった。
「――結局、失われた大陸の記憶というのは、我々の細胞の『オリ』の中にしか存在しないんだよ」
誠一の心臓が、大きく跳ねた。
足が、自分の意志とは無関係に凍りついたように止まる。
(オリ……?)
それは、彼が高校の卒業式で、自分の深淵を形容するために使った言葉だった。
逃げなければならない。そう直感が警報を鳴らしているのに、身体は動かない。それどころか、扉の向こう側にある「何か」に、磁石のように引き寄せられていく。
その時、建て付けの悪い扉が、内側から勢いよく開いた。
「おい。そこで盗み聞きか? 悪趣味だな、新入り」
現れたのは、よれよれの黒いシャツを着た、異様に目の鋭い男だった。その後ろには、丸眼鏡をかけた小柄な女が、分厚い資料を抱えて立っている。二人とも、陽の光を何ヶ月も浴びていないような不健康な肌色をしていたが、その瞳だけは、暗闇の中で獲物を狙う獣のように爛々と輝いていた。
「……いえ、迷い込んだだけです。すぐに立ち去ります」
誠一は視線を逸らし、踵を返そうとした。しかし、男の細長い指が、誠一の肩を万力のような力で掴んだ。
「待てよ。お前、今、喉の奥で『粒子』が跳ねた音がしたぞ」
誠一は息を呑んだ。男の言葉は、あまりにも唐突で、あまりにも正確に、誠一が隠し持っていた概念を掠めていった。
「何を、言って……」
「隠しても無駄だ。お前のその、死んだ魚のような目は、自分自身の本質を殺そうとして失敗した人間特有の光だ。お前、知っているだろう? この世界が、目に見える『現実』だけで構成されているなんて嘘だということを」
男は誠一を、無理やり部室の奥へと引きずり込んだ。
そこは、本という名の怪物が棲息する巣窟だった。床から天井まで、溢れんばかりの古書や地図、出所不明の石版の拓本が積み上げられ、中央のテーブルには、埃を被った古い地球儀が置かれている。
誠一は、その光景に圧倒されながらも、懐かしさに似た、猛烈な眩暈に襲われた。
中学の図書室。雪の匂い。あの『ムー大陸』の本。
封印したはずの記憶が、濁流となって脳内に流れ込んでくる。
「故郷からどれほど遠くへ逃げても、どれほど自分を偽っても、魂の『真心』だけは隔てることはできない。それがこの世界の理だ。なあ、君。君の中に沈んでいるのは、ムーか? それともレムリアか? あるいは――もっと古い、響きの文明か?」
誠一は、震える手で壁の本棚を掴んだ。
彼らの言葉は、強引で、非科学的で、何より「怪しい」。これに関われば、自分が築いてきた「普通の生活」は完全に終わるだろう。就職活動も、友人関係も、社会的な信用も、すべてが崩壊する予感がした。
だが、同時に、彼の血管を流れる血液が、沸騰するような熱を帯び始めていることに気づいた。
この埃っぽい空気。意味をなさない言葉の羅列。現実を侵食する空想。
これこそが、自分が本当に求めていた「酸素」だったのではないか。
「……やめてくれ。俺は、もうそういうのは卒業したんだ。普通になりたいんだよ」
誠一の声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
「普通? 生まれた者が、どうやってただの砂利になれると言うんだ」
男は誠一の顔を覗き込み、残酷なまでに愉しげに笑った。
「お前は、自分を裏切り続ける人生に飽き飽きしているはずだ。その証拠に、お前の『真心』は今、この部室の空気に共鳴して、悲鳴を上げているぞ」
誠一はゆっくりと、視線を上げた。
積み上げられた本の一番上に、見覚えのある、しかしより古びた装丁の一冊があった。
『超古代文明の波動 ―― 』
そのタイトルを目にした瞬間、誠一の中で、何かが音を立てて「反転」した。
海山遠く隔てても。
たとえ、故郷の雪から遠く離れた東京の、この薄暗い部室棟の片隅にいたとしても。
自分が自分であるための何かは、消えることなく、この時を待っていたのだ。
誠一の魂を強引に引き戻す。逃げ場など、最初からどこにもなかった。
誠一は、自らの内に溜まったオリが、激しく撹拌され、再び光を放ち始めるのを感じた。
「……一つに尽くせ、か」
誠一は、自嘲気味に呟いた。
それは国のためでも、社会のためでもない。
自分という、この救いようのない、狂った真実のために。
誠一は、自分を掴んでいた男の手を、今度は自分から強く握り返した。
「……続きを。その、『オリ』の続きを、聞かせてくれ」
男の口角が、さらに深く吊り上がった。
「歓迎するよ。ここが、お前の本当の『自分道』の入り口だ」
部室の窓の外では、東京の夕焼けが、まるで世界が燃えているかのような禍々しい赤色に染まっていた。
誠一が二年間、必死に演じ続けてきた「普通の大学生」という役柄は、この埃っぽい部室の静寂の中で、あっけなく幕を閉じた。
運命という名の腕が、彼を元の場所へと――いや、かつてよりもさらに深く、逃れられない深淵へと引き戻したのだ。
誠一の瞳には、かつて雪の日に灯ったあの意志の光が、さらに鋭く、冷徹に宿っていた。
擬態の皮を脱ぎ捨て、再び呼吸を始めた。
廊下の向こうで、誰かが弾くピアノの音が微かに聞こえた。
それは、別れの歌ではなく、何かが新しく、歪に誕生する時の産声のように響いていた。
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