中二病4
東京での生活は、その後も淡々と、しかし確実な足取りで続いていった。
大学を卒業した誠一は、中堅の出版社に籍を置き、実用書の編集者という「社会の歯車」としての身分を手に入れた。平日は満員電車に揺られて神保町のオフィスへと向かい、著者の機微を読み、締め切りという名の無機質な数字に追われる日々。かつて彼が大学の、あの湿り気を帯びた「史学研究会」の部室で触れた、爛々と輝く異界の熱狂は、日常の表層からは綺麗に拭い去られたかのように見えた。
周囲の同僚たちは、彼を「仕事の速い、少し冷めたところのある若手」として評価していた。かつて誠一を苛んだ「擬態」への恐怖は、今や熟練した技術へと昇華されていた。スーツの胸ポケットに忍ばせた一本の万年筆、あるいは深夜の校了作業中に啜る、冷めきったコーヒーの苦味。そのすべてが、彼にとっては「観測」の儀式の一部となっていた。自分という個体を社会という巨大な機構に適合させながら、その内側で静かに「粒子」を燃やし続ける。それは自分への裏切りではなく、この世界で正気を保ったまま真理に近づくための、誠一なりの高度な生存戦略であり、ある種の「祈り」でもあった。
社会人となって五年目の夏、誠一は溜まっていた有給休暇を消化し、日本の西の果て、与那国島へと向かった。
羽田から那覇を経由し、小さなプロペラ機に揺られてたどり着いたその島は、東京の喧騒が遠い記憶の彼方へ追いやられるほどに静まり返っていた。島を覆う濃厚な緑の匂い、鋭利な刃物で切り取ったかのような断崖、そして何より、視界のすべてを不気味なほどに侵食する、暴力的なまでに深い群青の海。
そこは、国境の島だった。
誠一は小型のレンタルバイクを走らせ、潮風に身を晒しながら島の南岸へと向かった。
目的は、この海の底に眠ると言われる「海底地形」である。ある者はそれを数万年前の超古代文明の遺跡だと熱弁し、ある者は地質学的な偶然が作り出したただの岩礁だと冷笑する。かつての、全能感と空虚感の間を揺れ動いていた誠一なら、それが「ムー大陸の実在」を証明する唯一無二の鍵であってほしいと、縋るような思いでエントリーしたことだろう。
だが、揺れる船の上で重いタンクを背負い、マスクの曇りを拭いながら、誠一は驚くほど凪いだ心境でいた。もはや、物理的な物証が真実であるか否かなど、彼にはどちらでもよかった。ただ、自らの魂がどう共鳴するのか、自らの肌で確認したかったのだ。
「……行くぞ」
レギュレーターを咥え、誠一は群青の闇へと身を投げ出した。
水温は高く、身体を包み込む水圧は、まるで母胎の中に回帰したかのような安らぎを伴っていた。吐き出した気泡が銀色の粒となって太陽の光を反射し、頭上の水面へと昇っていく。視界を遮る濁りは一切ない。ただ、深く、果てしない青のグラデーションがどこまでも続いていた。
ガイドの放つライトの光を追い、ゆっくりと深度を下げていく。自身の鼓動と呼吸音だけが、密閉されたヘルメットの内側に重々しく響く。やがて、その巨大な影が、視界の底から不気味に立ち上がってきた。
それは、言葉を失うほどの圧巻な光景だった。
水深二十メートル。青暗い水の底に、まるで巨人が神話の時代に削り出したかのような巨大な岩肌が、整然とした階段状、あるいは城壁のような姿でそびえ立っていた。長さ百メートルを超えるその「構造物」は、絶え間ない潮流に洗われながら、数千年の、あるいは数万年の沈黙を守り続けていた。
誠一は、その巨大な岩の平坦な「テラス」に、静かにフィンを下ろした。物理的には合成ゴムが岩肌に触れているだけだが、彼の精神においては、全く別の現象が起きていた。
岩肌を通じて、誠一の全身に強烈な振動が流れ込んできた。
それは鼓膜で捉える音ではなく、言葉による説明でもない脈動だった。
雪の日の図書室で、ボロボロの本を捲りながら夢想したムー。高校の卒業式、体育館の熱気の中で無理やり封印した「オリ」。大学のあの薄暗い部室で、怪しげな男たちに呼び覚まされた何か。それらバラバラだった記憶の断片が、この巨大な岩石の質量と同調し、一つの完成された「実体」へと昇華していく。
(ああ、そうか……。ここだったんだ)
誠一は、レギュレーター越しに、音にならない溜息を吐いた。
目の前にあるこれが、人工の遺跡か自然の造形かなど、もはや些細な境界線に過ぎない。重要なのは、この最果ての地の底に、人知を超えた「意思」を感じさせる形状が存在し、それが自分の中の「渇望」と、物理法則を超えて完全に一致したという事実だった。
かつて彼は、故郷の雪の中に自分を置き去りにし、「ここではないどこか」を探して彷徨っていた。だが、今、最果ての海の底に立ち、誠一は確信していた。
目に見えない潜象世界は、どこか遠い銀河の彼方にあるのではない。自分の足元に。この脈動する海の中に。そして、東京で無機質な生活を送る自分自身の、細胞の一つひとつの中に、それは最初から偏在していたのだ。
誠一は、鋭く切り立った岩肌の角に、そっと指先を滑らせた。その瞬間、彼の脳裏に、かつてないほど鮮明な映像が浮かんだ。
それは、太古の昔にこの地で、あるいは全宇宙で響いていたであろう残響。
目に見える文明は滅び、大陸は沈む。形あるものはすべて「粒子」へと還っていく。しかし、その「響き」の核だけは、形を変え、沈殿し、反転しながら、後の時代を生きる者に「真心」として引き継がれていく。自分は、その果てしない連鎖の果てに立つ一人なのだ。
浮上すべきなのは、沈んだ大陸ではない。自らの使命を自覚し、この世界の二重構造――目に見える現象世界と、その奥に潜む潜象世界――を同時に受け入れることのできる、強靭な精神の実体そのものだった。
誠一は、暗い海の底から、はるか上方に見える水面の眩い光を見上げた。
そこには、再び彼を飲み込む現実の社会が待っている。明日にはこの島を離れ、再び実用書の校正刷りをめくる、ありふれた、しかし愛おしい日常へと戻らなければならない。だが、今の誠一には、もう一片の迷いもなかった。
彼は心の中で、自分自身に、そしてこの世界を構成する無数の目に見えない粒子たちに、静かな決意を告げた。自分はこれからも、この社会の片隅で「普通の人間」を演じ、生きるだろう。誰に誇ることもなく、誰に悟られることもなく。
しかし、その真心の奥底には、この与那国の海よりも深く、誰にも、いかなる権力にも侵されることのない「沈まぬ大陸」を抱き続けていく。それこそが、この時代に生を授かった者のあるべき姿なのだから。
誠一は浮上を開始した。
身体が軽くなるにつれ、窒素が抜けていく感覚とともに、過去の呪縛から、そして「中二病」という名の安易な救いからも解放された、真の意味での「自立」が訪れた。
水面に顔を出した瞬間、強烈な南国の陽光が、誠一の視界を真っ白に塗り潰した。
中学の時の冷たい雪、高校の時の散り急ぐ桜、大学の時の不穏な夕焼け。そのすべての光が混ざり合い、今の誠一を祝福するように、ただ純粋な、始まりの「白」となって降り注いでいる。
船に上がり、マスクを外した誠一は、潮風を胸いっぱいに吸い込んだ。
「……いい海でした。本当に、いい海でした」
ガイドの問いかけに、誠一は穏やかに、しかし力強く微笑んで応えた。その笑顔は、かつての完璧な「擬態」としての愛想笑いとは違い、どこか晴れやかで、確かな熱量を伴ったものだった。
その日の夕暮れ、誠一は島の高台にある展望台に立ち、西の水平線を眺めていた。その先にあるのは、もう一つの「国」との境界線。
彼はスーツ姿の自分を想像し、少しだけ笑った。
ポケットから、使い慣れたメモ帳とペンを取り出す。そこには、実用書の企画案ではなく、新しい物語の始まりとなる、一握の言葉が書き留められるのを待っていた。
少年の日は終わり、一人の男が、自らの内に沈む宇宙を抱いて、光の中へと歩き始めた。
海を渡る風が、彼の耳元で、古い最後の一節を囁いた気がした。それは、過去への別れではなく、永遠に続く循環への、柔らかな、そして確かな招きだった。
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
本作『中二病』は、これにて完結となります。
本作の着想は、古代の叡智である「カタカムナ第49首」に示された理から得たものでした。この首には、「粒子としての生命の実体」や「自分道」という本質が示されているとされています。
この言葉に触れたとき、私の頭の中には「太古の大陸が、深い海の底からゆっくりと浮上してくる情景」が鮮明に浮かびました。
かつて誰もが抱いたであろう「中二病」的な万能感や孤独。それが、時間の経過とともに「擬態」へと形を変え、やがて真の自立へと成長していく物語を描きたいと考え、筆を執りました。
雪深い故郷から始まった誠一の旅が、最果ての海の底で一つの「大陸」を見つけるまでを見守っていただけたなら、作者としてこれ以上の喜びはありません。
【読者の皆様へ】
本作を読み終えた皆様の率直な感想が、今後の執筆の大きな糧となります。
もしよろしければ、以下の5段階評価、および皆様の心に残った情景をお聞かせいただけますと幸いです。
評価: ★ 〜 ★★★★★
コメント: 最も印象に残った場面や、心に触れた描写など、自由にお聞かせください。
皆様からいただく言葉が、この物語に最後の一片を付け加え、真の完成へと導いてくださることを願っております。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




