海(あま)へ3
昭和五十五年、十一月。
甲府盆地を吹き抜ける風は、すでに冬の鋭い刃を孕んでいた。
かつて煤けた橙色だった夕焼けは、今や冷たい鉄灰色へと変わり、連なる山々の稜線がカミソリのように空を切り裂いている。高度経済成長の狂騒が落ち着き、日本がカラーテレビや自家用車といった次なる豊かさを享受し始めたこの時代にあって、この集落だけは、異様な殺伐とした熱気に包まれていた。
志村は、泥にまみれた作業着の襟を立て、工事現場の最前線に立っていた。
彼の目の前では、巨大なミキサー車がその腹を重々しく回転させ、唸りを上げている。シュートから吐き出されるのは、灰色の生コンクリートだ。それは、数千年にわたってこの地を潤してきた柔らかい土の流路を、音もなく、そして情け容赦なく塗り潰していく。
生コンクリート特有の、鼻を突くようなアルカリ臭と、湿った石灰の匂いが、晩秋の冷気に混じって志村の肺を圧迫した。それは生命を育む土の匂いとは対極にある、無機質な、拒絶の匂いだった。
「やめろ! 先祖代々の川を殺す気か!」
「この人殺し! 悪魔め!」
工事現場を囲むようにして、村の老人たちが鍬や鎌を振り上げ、喉を枯らして叫んでいた。彼らにとって、水路は単なる水の通り道ではない。そこは、先祖から受け継いできた命の絆であり、子供たちが泥にまみれて遊び、四季折々の風景を映し出す誇りそのものだった。
その土路をコンクリートの十字架で封印する志村の行為は、彼らの目には故郷への冒涜であり、冷酷な破壊にしか映らなかった。
「先生、あんたには血も涙もないのか! この土が、この草が、俺たちの生きてきた証なんだぞ!」
白髪の老人が、涙を流しながら志村の足元に縋り付く。その手のひらは、長年の農作業で岩のように硬く、節くれ立っていた。志村はその感触を、自らの皮膚を削り取られるような痛みとともに受け止めた。
群衆の先頭には、かつて街を騒がせていた暴走族の青年たちがいた。革ジャンを羽織り、殺気立った瞳で志村を睨みつけている。
「おい、医者のセンセよぉ。あんたに何が分かるんだよ! 俺たちがこの川で泳ぎ、泥にまみれて育ったことをよ!」
一人の青年が志村の胸ぐらを掴もうと詰め寄る。工事車両の影で、志村を護衛する警察官たちが緊張に身を固めた。一触即発の空気が現場を支配し、飛び交う罵声は、もはや理屈を超えた憎悪の塊となって志村に降り注ぐ。
しかし、志村は動かなかった。
罵声を浴びせられ、泥水を撥ね飛ばされても、彼はただ真っ直ぐに、生コンクリートが土を覆い尽くしていく様を見つめていた。その表情は、感情を一切削ぎ落とした彫像のように無機質だった。
「気づかぬ振り」をしているのではない。彼は、自らが選んだ修羅の道を、ただ静かに、そして徹頭徹尾受け入れているだけだった。
彼は、この土の中に潜む「悪魔」を知っている。この美しい風景が、実は死への入り口であることを、村の誰よりも深く理解していた。
「……殺すのではない」
志村の唇から、冬の霧のように白い言葉が漏れた。
「守るために、一度死なせるんだ」
志村の手には、かつて顕微鏡で捉えた「あの螺旋」の残影が、今も消えない刺青のように刻まれている。
土路こそが、あのミヤイリガイのゆりかごなのだ。湿った泥、緩やかな水の澱み、茂る雑草。それらすべてが、人々の命を啜る寄生虫にとっての楽園だった。その楽園を破壊しない限り、あのパンパンに膨れ上がった腹の男も、冷たくなって逝った少女も、永遠に救われることはない。
たとえ、自分の手が泥と石灰で汚れ、一生消えない憎しみを背負うことになろうとも、彼はその「実体」を封じ込めなければならなかった。
志村は一歩踏み出し、泥濘の中に長靴を沈めた。
背後では、殺貝剤が水路に投入され、水面が不気味な乳白色に染まり始めていた。それは、土の中に潜む数百万の命を絶つ「死の色」でありながら、同時に呪いを浄化するための「白」でもあった。薬剤の強い匂いが、冷え切った鼻腔を突き刺す。
「志村さん、もういい。一度引き上げましょう。これ以上は身の危険があります」
保健所の部下が、震える声で志村の作業着を引っ張る。だが、志村はその手を静かに、しかし断固として振り払った。
今ここで自分が背中を見せれば、この戦いは終わる。再び「祟り」という名の闇がこの村を覆い、何十年後かにまた、新しい犠牲者が生まれるだろう。あの少女の冷たい指先の感触が、再び誰かの肩に宿ることになる。それだけは、何があっても許されなかった。
志村は知っていた。自分は今、この村の歴史という四角いリングに立ち、孤独な試合を続けているのだということを。
セコンドもいなければ、歓声もない。飛んでくるのは罵声と、濡れた土の塊、そして石灰の粉だけだ。
それでも、志村の心には迷いはなかった。自分を「非情な管理者」と呼びたければ呼べばいい。故郷の破壊者と蔑みたければ蔑めばいい。
彼は「明日」のために、自分自身の誇りも、名誉も、そして穏やかな老後さえも、真っ白な灰へと燃やし尽くす覚悟を決めていた。
夕闇が深まり、冷気がいっそう厳しさを増す中、工事の照明が点灯した。
白光の下で、生コンクリートの海が鈍く光る。志村はその光の中に、かつて救えなかった少女の姿を幻視した。
彼女は、もう冷たい手ではなかった。温かい、柔らかな手のまま、コンクリートで固められた平坦な道を、笑顔で駆けていくような、そんな錯覚。
志村は、あふれそうになる涙を、喉の奥で強引に飲み込んだ。
泣く資格など自分にはない。自分は今、人々の思い出を壊し、故郷の景色を奪い続けている大罪人なのだから。
「流せ。構わず続けろ」
志村は、現場監督に短く命じた。
轟音とともに、さらに大量の生コンが土を埋めていく。
激しい罵声の嵐、重機の咆哮、コンクリートの重苦しい匂い。それらすべてが、志村の肉体をすり潰していく「澱み」や「滝」のような時代の逆風だった。
だが、彼は一歩も引かなかった。
泥水を浴び、飛散した石灰で髪を白く染めながら、志村は孤独に、ただ直立していた。
その背中は、どんな重機よりも頑強で、どんな非難よりも重厚だった。彼は自分の魂が、少しずつ、しかし確実に削られ、白く乾いていくのを感じていた。
深夜、ようやく一日の工事が終わった。
村人たちは疲れ果て、虚無感を抱えたまま、一人、また一人と闇の中に消えていった。残されたのは、街灯の光に照らされた、真新しい、どこまでも無機質で真っ平らなコンクリートの道だけだった。
そこにはもう、ミヤイリガイが入り込む隙間はない。
生命を拒絶したはずのその灰色の固まりが、実は明日への唯一の希望の架け橋であることを、今はまだ誰も知らない。志村の長靴も、ズボンの裾も、コンクリートの飛沫でカチカチに固まっていた。
志村は、冷え切った指で煙草に火をつけた。
紫煙が、冬の星空へと吸い込まれていく。
彼の内面では、何かが静かに、しかし確実に燃え尽きようとしていた。
自尊心も、個人的な情欲も、安寧な暮らしも、すべてはこの一筋の流路を整備し、呪いを断つために注ぎ込まれた。
後悔はない。ただ、言いようのない空虚感と、その奥底にある微かな熱だけが、志村の胸を焦がしていた。
紫煙を吐き出した。
独りごとのように。
昭和五十五年、晩秋。
志村という一人の男が、故郷を壊し、人々の心を傷つけながらも、未来という名の「海」に向かって、最後の一滴まで自分を燃やし尽くした夜だった。
彼は、重い足取りでミニカへと戻った。
エンジンをかけると、車体は激しく震えたが、彼はそれを優しくなだめるようにハンドルを握った。
戦いはまだ終わらない。だが、最大の山場は越えた。
コンクリートの下で、呪いは窒息し、死は沈黙するだろう。
志村は、ハンドルを切り、闇の中へと車を走らせた。
バックミラーに映る工事現場の照明は、まるで遠ざかっていく「昨日」の火影のように、いつまでも白く、孤独に輝いていた。
彼はもう、振り返らなかった。
ただ、あしたのために。
海が見えるまで、彼はこの灰色の行進を止めない。
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