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  作者: しゅう


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海(あま)へ4

 平成八年、二月。

甲府盆地を囲む山々は、春を待つ眠りの中にありながらも、その稜線はどこか柔らかに、朝の光を湛えていた。かつての重苦しい霧は晴れ、空はどこまでも高く、透き通った青を湛えている。

かつては「死の淵」と呼ばれ、人々の肝臓を食い破る呪いが潜んでいたこの土地に、今日、ひとつの歴史的な終止符が打たれようとしていた。


地方病終息宣言。


それは、明治以来、一世紀以上にわたってこの地を苦しめてきた「日本住血吸虫症」という見えない悪魔に対し、人類が勝利を告げる儀式だった。

会場となった公会堂の外には、早朝から多くの人々が集まっていた。新聞記者たちのカメラのフラッシュが焚かれ、かつての惨状を知る老人たちはハンカチで目元を拭っている。だが、その喧騒から遠く離れた土手に、一人の老人の姿があった。

志村だった。

かつて泥にまみれ、罵声を浴びながらコンクリートを流し込んだあの若き医師は、今や深く刻まれた皺と、雪のように白い髪を持つ老人となっていた。

志村は、古びたベージュのコートの襟を立て、ゆっくりと杖を突いて歩いた。冬の冷気が古傷の痛む膝を刺すが、その足取りはどこか確かだった。足元を流れるのは、あの昭和五十五年に自らの手で塗り潰した、コンクリートの水路だ。

十六年の歳月は、無機質だった灰色の壁に苔を蒸させ、角を丸め、すっかり風景の一部として溶け込ませていた。水路の中を流れる水は、驚くほど透き通り、春を告げる陽光を跳ね返してキラキラと輝いている。そこにはもう、人の命を啜る小さな貝の姿も、螺旋を描く殺意の影も、何一つ存在しなかった。かつて、あの貝を「悪魔の実体」として顕微鏡越しに睨みつけた日々が、遠い神話の出来事のようにさえ感じられる。


「……着いたな」


志村の口から、掠れた、しかし重みのある独白が漏れた。

彼の視線の先には、広大な田んぼが広がっていた。かつてはドロドロとした死の色を湛え、足を踏み入れることさえ死への階段を登るようだった泥濘は、今や冬の眠りから覚めようとする肥沃な大地へと姿を変えている。秋になれば、ここには黄金色の稲穂が波打ち、生命の凱歌を奏でるだろう。この土地に流れる時間は、もはや死へのカウントダウンではなく、収穫への祈りへと変わっていた。

ふと、前方から明るい笑い声が聞こえてきた。

志村が目を細めて眺めると、一人の恰幅の良い男が、五歳ほどになる幼い男の子を肩車して、土手を歩いてくるのが見えた。男の顔には、陽に焼けた健やかな赤みが差し、その瞳にはかつての険しさは微塵もない。

志村は、その男の面影を記憶の底から手繰り寄せた。

――あの日、冷たい雨の降る工事現場で、志村の胸ぐらを掴み、「先祖代々の川を殺す気か」と叫んだ、あの暴走族の青年だった。

男は志村の姿に気づくと、一瞬、足を止めた。

二人の間に、数十年という歳月が、生コンクリートの匂いと罵声の記憶を伴って横たわる。志村は無言で男を見つめた。自分は今でも、彼らにとっては「大切な風景を壊し、冷徹にコンクリートで固めた破壊者」のままかもしれない。そう思って、志村は静かに視線を逸らそうとした。

だが、男は、肩車をしていた子供をゆっくりと地面に降ろすと、志村に向かって深く、本当に深く頭を下げた。

言葉はなかった。謝罪も、感謝も、すべてを飲み込んだ沈黙の礼だった。男の背中は、かつて振り上げた拳よりもずっと雄弁に、現在の平和を語っていた。

子供が不思議そうに父親の顔を見上げ、それから志村を見て、人懐っこく手を振った。


「こんにちは、おじいちゃん!」


その子供の腹は、決して不自然に膨らんではいなかった。その指先は、志村がかつて触れた、あの氷のような少女の感触とは正反対の、陽だまりのような温かな生命の色をしていた。

志村は、震える手を持ち上げ、ぎこちなく子供に振り返した。

男は再び一礼し、子供の手を引いて歩き去っていった。その背中は、かつての荒んだ怒りではなく、明日を生きる者の穏やかな強さに満ちていた。

志村は、その親子の後ろ姿を見送った。

胸の奥で、重い鉄の扉が閉まるような、あるいは開くような、不思議な音がした。

自分が流したあの灰色のコンクリートは、彼らの思い出を一時的に葬り去ったかもしれない。大地を無機質な檻に閉じ込めたと罵られたかもしれない。だが、その土台があったからこそ、この子供の「温かい手」は守られたのだ。呪いを封じ込めるための人柱は、この灰色の水路だけでよかったのだ。


 志村は、土手の上に腰を下ろした。

膝に置いた自分の手を見る。石灰で焼かれ、泥にまみれ、顕微鏡を覗き続けて渇ききったその手は、今や枯れ木のように痩せさらばえている。だが、後悔は微塵もなかった。

彼が歩んできた川は、淀み、激しい滝となって彼を打ち据え、何度も彼を絶望の泥濘へと引きずり込もうとした。多くの犠牲を払い、愛する風景を自らの手で壊し、孤独という名の渇きを抱えながら、ただひたすらに「海」を目指して流れてきた。


「海が見えるまでは、流れつづけて行くものなのさ」


かつて誰かが呟いたような、あるいは自分自身が絶望の淵で心に刻んだような言葉が、春の風に乗って耳元を掠めた。

志村にとっての「あま」とは、どこか遠くにある青い水塊のことではなかった。

それは、誰もが病に怯えることなく、大地を愛し、子供たちが健やかに笑う、この「当たり前の日常」という名の凪いだ海のことだったのだ。カタカムナが説く、潜象から現象へと満ち溢れる生命の力の、最も穏やかな形。それが、この平成の甲府盆地に広がっていた。

志村の網膜には、今も鮮明に焼き付いている風景がある。

あの深夜、白熱灯の下で蠢いていた、あまりにも美しく残酷な「実体」。

あの晩秋、降りしきる罵声の中で流し込んだ「生コンクリート」の濁った色。

そして、救えなかった人々の、冷たくなって逝った指先の残像。

それらすべての苦しみと、沈黙と、祈りを飲み込み、志村という一筋の川は、ようやく今、穏やかな終着点へと辿り着いた。

空を見上げれば、山々の向こうから新しく昇った陽光が、盆地全体を黄金色に染め上げていた。

それは、呪いという名の昨日を焼き払い、希望という名の今日を祝福する光だった。

志村は、その光を真正面から浴びた。眩しさに目を細めながらも、彼は視線を逸らさなかった。

昨日へは、決して戻れない。壊した景色は、二度と同じ形では戻ってこない。彼が負った魂の傷も、完全に癒えることはないだろう。

だが、新しく塗り替えられたこの世界で、人々は「地方病」という言葉さえ歴史の教科書の中の出来事として忘れて生きていくだろう。それこそが、志村が自分の人生すべてを薪にして、真っ白な灰になるまで燃え尽くして勝ち取った、最高の報酬だった。


 遠くで、終息宣言を告げるファンファーレの音が聞こえたような気がした。あるいは、それはこの大地そのものが鳴らした、感謝の響きだったのかもしれない。

志村は、深く、深く息を吸い込んだ。

肺に満ちたのは、もうコンクリートの匂いでも、殺貝剤の匂いでもなかった。

それは、芽吹き始めた草木と、浄化された土が放つ、力強い生命の匂いだった。


「……いい、朝だ」


志村は静かに目を閉じた。

 その目蓋の裏では、かつて救えなかったあの少女が、タンポポの咲く土手を、温かな手のまま、泥を恐れることなく笑って走り回っていた。彼女の笑い声が、風に溶けていく。

志村の役目は、終わった。

一滴の川水は、ついに広大な「海」へと還り、その一部となって溶けていく。

もう、流れを急ぐ必要はない。逆風に抗う必要もない。

この穏やかな光の中で、永遠の静寂へと満たされていった。


 明治、大正、昭和、そして平成。時代を駆け抜けた一人の男の執念が、この地の宿命を塗り替え、死の呪縛を解いた。

海へと続く流路は、今、一分の隙もなく完成したのである。

陽光を浴びながら、志村の口元には、微かな、本当に微かな微笑が浮かんでいた。

彼は、昨日を忘れず、しかし明日を疑わずに、この光溢れる大地に自らのすべてを託した。

甲府盆地を吹き抜ける風が、彼の白い髪を優しく撫で、どこまでも遠い未来へと、春の香りを運んでいった。

その先にあるのは、もう濁ることのない、青く澄み渡った生命の海だけだった。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

本作『あまへ』は、これにて完結となります。


本作の着想は、古代の叡智である「カタカムナ第48首」に示されたことわりから得たものでした。この首には、「アマ始元量から生命の実体へ」「湧き出てくるもの」という本質が示されているとされています。


この言葉に触れたとき、私の中にふと『あしたのジョー』の一場面が浮かびました。

「ボクシングの物語になるのだろうか」と思案しつつ、作品の舞台である「ドヤ街」から連想を広げていく中で、かつて日本を、そして山梨を苦しめた「寄生虫による感染症(地方病)」という歴史に辿り着いたのです。


調べていくうちに、この奇病を撲滅するために人生を捧げた、名もなき先人たちが大勢いたことを知りました。その不屈の精神を、架空の人物である「志村」という男に託し、この物語を綴りました。


一滴の川水が、泥にまみれ、岩を削りながらも、最後には穏やかな「あま」へと還っていく――。志村の孤独な戦いが、皆様の心に少しでも残れば幸いです。



【読者の皆様へ】

本作を読み終えた皆様の率直な感想が、今後の執筆の大きな糧となります。

以下の5段階評価、および皆様の心に残った情景をお聞かせいただけますと幸いです。


評価: ★ 〜 ★★★★★

コメント: 最も印象に残った場面や、心に触れた描写など、自由にお聞かせください。


皆様からいただく言葉が、この物語に最後の一片を付け加え、真の完成へと導いてくださることを願っております。

最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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