海(あま)へ2
深夜二時。保健所の二階にある検査室は、深海のような静寂に包まれていた。
窓の外では、五月の闇が重く垂れ込め、時折、遠くを走るトラックの低いエンジン音が地鳴りのように響いては消えていく。オイルショックの影響で街灯の数も減らされた街は、まるで巨大な墓標のように沈まり返っていた。
志村は、ただ一台だけ灯された顕微鏡の光源に向き合っていた。
白熱電球が発する微かな熱が、接眼レンズを通じて志村の眼球を焙り、視界の端を白く濁らせる。数時間前からまばたきを忘れたかのような彼の瞳は、血走り、渇ききっていた。首筋から肩にかけては、鉄板を埋め込まれたかのような鈍い痛みが走り、疲労はもはや限界を超えて、肉体から感覚を奪い去ろうとしていた。
それでも、志村の指先は驚くほど精密に動いていた。
木の机の上には、昼間に泥の中から掻き集めてきた数百個の「実体」が、シャーレの中で黒い塊となって蠢いている。
ミヤイリガイ。マッチ棒の先ほどの、あまりにも卑小な巻貝。
志村はピンセットでその一つを摘み上げると、スライドガラスの上に置いた。
「……また、空か」
低い呟きとともに、極小のメスで貝の殻を割り、その内臓を丁寧に解剖していく。ピンセットの先が殻に触れる「キチッ、キチッ」という乾いた音が、静まり返った部屋に執拗に響く。
ミヤイリガイの軟体部をスライドガラスに塗りつけ、一滴の水を落とす。カバーガラスを被せ、顕微鏡のステージに乗せる。
ピントを合わせ、倍率を上げる。
視界の中に広がるのは、細胞の破片と、無機質な粘膜の海。そこに、彼が探し求めている「悪魔」の姿はなかった。
志村は、溜まった貝の残骸を無造作にゴミ箱へ捨て、次の一個を手に取った。
この一週間、彼はこの作業を幾千回と繰り返してきた。
保健所の同僚たちは、夕刻になるとそそくさと荷物をまとめ、志村に冷ややかな視線を投げかけて去っていく。
「志村先生、まだそんなことを続けているんですか。貝を調べたところで、あの腹が凹むわけじゃないでしょうに」
「土地の連中はみんな『水の神の祟り』だって言ってるんですよ。下手に掘り返して、保健所に火でも放たれたら堪りません」
中には、親切心を装って「都会の大きな病院へ戻ったほうがいい」と勧める者もいた。だが、志村はそのすべてを、厚い防壁の向こう側の雑音として切り捨ててきた。
彼らが恐れているのは、神の怒りではない。自分たちの平穏な日常が、理解不能な「奇病」によって脅かされることへの恐怖だ。だからこそ、彼らは「祟り」という便利な言葉で思考を停止させ、絶望を不可抗力として棚上げにする。
だが、志村には分かっていた。
あの男の腹に溜まった生ぬるい液体の重み。あの少女が最期に遺した、氷のような指先の感触。それらは決して、あやふやな呪いなどによって引き起こされるものではない。そこには必ず、物理的な法則に従い、人体の機能を破壊し尽くす「実体」があるはずなのだ。
千二百個目、あるいは千三百個目だっただろうか。
志村は、新たに用意したプレパラートをステージに固定した。
電球の熱で、接眼レンズの縁が熱を帯びている。志村の視神経は、熱に焼かれるような錯覚を覚え、網膜の裏側で火花が散る。白濁する視界をこじ開けるようにして、彼は再びレンズを覗き込んだ。
最初は、ただのゴミだと思った。
だが、倍率を一段上げた瞬間、志村の呼吸が止まった。
レンズの向こう側。静止していた細胞片の海を掻き分け、それは姿を現した。
それは、吐き気がするほどに美しく、そして残酷な「生命」だった。
二又に分かれた尾を持ち、螺旋を描きながら、激しく、執拗に蠢いている。
日本住血吸虫の幼虫――セルカリア。
あまりにも微小で、肉眼では決して捉えることのできないその存在が、顕微鏡の光の下で、まるで勝利を叫ぶかのように躍動していた。それは、ただ生存し、増殖し、次の宿主の皮膚を食い破るためだけに純化された、剥き出しの殺意の実体化だった。
「……いたぞ」
志村の口から、掠れた声が漏れた。
その瞬間、世界からすべての音が消え去った。
トラックの騒音も、建付けの悪い窓がガタつく音も、自分の心臓の鼓動さえも。ただ、レンズの向こうで狂ったように泳ぎ回る、その「実体」だけが、志村の宇宙のすべてとなった。
志村の背筋に、氷柱を叩きつけられたような戦慄が走り抜ける。それは歓喜などという生易しいものではなかった。あまりにも卑小な、砂粒よりも小さな存在が、一人の人間を、一つの家系を、そしてこの美しい盆地の歴史を、音もなく崩壊させてきたという厳然たる事実に、彼は吐き気すら覚えたのだ。
これが、あの男の肝臓を破壊し、血管をせき止め、腹を膨らませた元凶だ。
これが、あの少女の体温を奪い去った、死の情報の連鎖だ。
何世代にもわたって、祟りという言葉の裏に隠れ、この地の農民たちの血を吸い続けてきた、目に見えない悪魔の正体。
志村の瞳から、一筋の涙が溢れ、スライドガラスの脇に落ちた。
それは感動ではなかった。ましてや喜びでもない。
あまりにも長く、あまりにも無惨に踏みにじられてきた人間の尊厳を、この数ミクロンの「塵」のような生き物が支配していたことへの、深い怒りと、そして恐るべき真実に触れた者だけが抱く戦慄だった。
スライドガラスの上で蠢くその影は、まるで「お前たち人間に何ができるのか」と嘲笑っているかのようにも見えた。だが、志村はその嘲笑を真正面から受け止めた。実体が見えたのなら、それはもはや神域の業ではない。人間の知恵が介入できる、単なる生物学的な闘争へと引きずり下ろされたのだ。
志村は、震える指でスケッチブックを取り出し、ペンを走らせた。
視神経が焼き切れるような集中の中で、幼虫の形を、その動きを、その構造を、紙の上に刻みつけていく。
これは単なるスケッチではない。これは、この土地の呪いを解くための「宣戦布告」であり、死者に捧げるための「鎮魂歌」だった。
顕微鏡の光が、志村の瞳を白く染め上げる。その光の中に、かつて救えなかった少女の幻が浮かんだ。彼女は、今も冷たい手のまま、この光景を見つめているような気がした。
志村は、プレパラートを静かに外した。
光源を切ると、部屋は再び暗澹たる闇に包まれた。
しかし、志村の網膜には、あの螺旋を描く「実体」の残像が、鮮やかな燐光を放って焼き付いていた。
「祟りの時代は、今夜で終わりだ」
志村は立ち上がり、椅子を引く音を響かせた。
窓の外を見れば、東の空が、重苦しい橙色から、次第に白んだ、刃物のような鋭い光を帯び始めていた。
昭和四十九年。近代化の歪みの中で、人々が明日を見失い、古い闇に縋ろうとしていたこの時代。
志村という一人の医師の執念が、ついに「正体不明の絶望」を「克服可能な病」へと引きずり下ろしたのである。
だが、彼は知っていた。
敵の正体を暴くことは、長い戦いのほんの序章に過ぎないことを。
この数ミリの貝を、そしてその中に潜む無数の死を、この広大な大地から一掃するためには、さらなる泥沼の闘争が待っている。
周囲の無理解、農民たちの抵抗、あるいは、長年かけて大地に根ざした「因習」という名の巨大な壁。
志村は、自分の人生という川が、激しい「滝」に向かって流れ始めたことを確信していた。
彼は、冷え切ったコーヒーを一口啜り、泥のついた長靴を履き直した。
足音を響かせながら、彼は階段を降りていく。
その背中は、朝の光を受けながらも、昨日までの彼とは違う、研ぎ澄まされた刃のような鋭さを湛えていた。
昨日を忘れず、明日を疑わず。
志村の戦場は、研究室という静寂の中から、大地を揺るがす咆哮へと変わろうとしていた。
海が見えるまでは、止まるわけにはいかないのだ。
保健所の玄関を出ると、冷ややかな朝の空気が志村の頬を打った。
360ccのエンジン音を響かせながら、彼は再び、あの泥濘の村へと向かう。
彼の手の中には、この土地の運命を塗り替えるための、小さな、しかし決定的な「実体」の記録が握られていた。
朝日を背に受ける志村の影は、どこまでも長く、力強く、そして孤独に伸びていた。
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