海(あま)へ1
昭和四十九年、五月。
空は、まるで古びた真鍮を磨き損ねたような、濁った光を湛えていた。
甲府盆地の縁に位置するこの集落では、夕焼けさえもが重苦しい橙色に見える。前年秋のオイルショック以来、街のネオンは消え、至る所に「節電」の文字が剥げかかったポスターとして張り付いていた。テレビからは「トイレットペーパーの買い占め」や「ガソリン価格の高騰」を叫ぶ喧騒が流れ、かつての高度経済成長の熱狂は、冷え切った灰のような焦燥感へと取って代わられていた。近代化の恩恵に浴したはずの地方都市でさえ、人々の表情からは潤いが失われ、どこか明日を疑うような暗い影が差し込んでいる。
保健所の公用車、三菱・ミニカの汚れで曇った窓を開けると、熱を帯びた風が入り込んできた。それは、湿った土の匂いと、どこか生臭い水の腐ったような匂いを孕んでいる。
「……また、この匂いか」
志村はハンドルを握る手に力を込めた。タイヤが未舗装の農道に突き当たり、激しく車体を揺らす。道の両脇には、一見すれば平和な田園風景が広がっている。田植えを待つ水田は、鏡のように夕空を映し出していた。しかし、その穏やかな水面の下、迷路のように張り巡らされた水路には、この土地を百年以上にわたって呪い続けている「何か」が、静かに、しかし確実に潜んでいる。
車を停め、ゴム長靴に履き替えて車外に出ると、足首まで粘土質の泥に沈み込んだ。この地の泥は、一度絡みつくと容易には離れない。それはまるで、長い年月、この地で朽ち果てていった死者たちの指が、生者の足首を掴んで泥濘へと引きずり込もうとしているかのような、執拗な粘り気がある。一歩踏み出すたびに、長靴が泥を吸う「ボトッ、ボトッ」という鈍い音が、静まり返った畦道に響き渡った。
志村は、泥を跳ね上げながら、一軒の古びた農家へと向かった。茅葺き屋根の上にトタンを被せた家々は、時代の進歩から置き去りにされた化石のように見えた。
家の中は、外の明るさが嘘のように暗かった。節電のために消された電球の代わりに、西日が障子越しに弱々しく差し込んでいる。埃が舞う光の筋の中に、一人の男が横たわっていた。
「志村先生……お出でなすったか」
男の妻が、掠れた声で頭を下げた。彼女の指先は、農作業と水仕事でひび割れ、真っ黒に汚れている。その震える手からは、逃れようのない恐怖が伝わってきた。
志村は答えず、ただ静かに男の枕元に膝をついた。男はまだ四十代半ばのはずだが、その顔は土気色を通り越し、栄養を吸い尽くされた枯れ木のように痩せさらばけている。頬の肉は落ち、眼窩だけが深く落ち窪んでいる。しかし、その衰弱した体格に反して、布団から突き出た腹部だけが、まるで巨大な西瓜を丸ごと呑み込んだかのように、異様に、そして無残に膨れ上がっていた。
志村は、診察のために男の着物の前を割った。
そこに現れたのは、もはや人間の肉体とは信じがたい、一つの「現象」としての歪みだった。
皮膚は限界まで引き伸ばされ、あまりの緊満感に、本来の肌の色を失い、薄い硝子細工のように透けて見える。その下を走る静脈は、毒々しい紫色の蛇のようにのたうち回り、浮き出ている。腹水の重みで皮膚はテカテカと不気味な光沢を放ち、周囲の弱々しい光を反射していた。指で触れれば、パチンと弾けて中から濁った水が噴き出すのではないかと思わせるほどの、殺意を孕んだ圧力。
志村は、その「山」のような腹に、迷いなく掌を置いた。
「……う……ぐ……」
男が、肺を圧迫されるような苦悶の声を漏らす。志村の掌から伝わってくるのは、生ぬるい液体の重みだ。それは単なる水ではない。行き場を失った血液と、この土地の宿命、そして人々の絶望が形を変えた「澱み」そのものだ。掌を押し込むと、その下の内臓が、濁流に沈んだ流木のように頼りなく揺れる感触が伝わる。腹水が腹腔内で波打ち、男の命を内側から削り取っている。
「苦しいな。だが、もう少しだ」
志村の言葉は短く、そして冷徹だった。甘い慰めは何の役にも立たないことを、彼は嫌というほど知っていた。医者として、あるいは一人の人間として、彼が差し出せるのは、この残酷な「実体」から目を逸らさないことだけだった。
志村の脳裏には、今も鮮明に、呪縛のように焼き付いている記憶がある。
数年前、まだ研修医だった頃に大学病院で担当した、ひとりの少女の姿だ。彼女もまた、この同じ病に侵されていた。日に日に膨らんでいく腹とは対照的に、彼女の腕は折れそうなほど細くなっていった。最後の日、彼女の小さな手は驚くほど冷たく、しかし何かに縋るように志村の指を握りしめた。その瞬間、彼女の瞳に宿っていた微かな光が、すっと消えていくのを見た。
あの冷徹なまでの「生の欠落」の感触は、今も志村の右肩に、重い石のように沈み込んでいる。
「かなしい想い出」などという情緒的な言葉では、とてもではないが片付けられない。それは、彼が一生をかけて背負い続けなければならない、己の無力さという名の烙印だった。あの冷たさを、彼は一時たりとも忘れたことはない。
「先生、やっぱり……『水の神様』を怒らせたんでしょうか。それとも、うちの家系が悪いんでしょうか。それとも、やっぱり私が、あのとき……」
妻の声が、暗い部屋に震えながら響く。
昭和四十九年。人類が月に到達し、超音速旅客機が空を飛ぶ時代にあって、この地ではまだ、病の原因は「祟り」や「家筋」だと固く信じられていた。あるいは、土地の因習に縛られた「恥」として、近所に知られることを恐れ、病を隠したまま納戸の奥で静かに死んでいく者も少なくない。近代化の光が届かない場所では、古い闇が今なお人々の心を支配していた。
志村は、泥のついた手で診断書を書き込んだ。
「奥さん、これは祟りでも呪いでもない。必ず原因がある。目に見えないだけで、確実にこの水の中に、お前たちの命を食い破り、その腹を膨らませる実体がいるんだ」
彼の言葉は、妻に向ける以上に、自分自身に言い聞かせる誓いのようでもあった。科学が宗教を塗り替えようとする時代の過渡期で、彼は一人、目に見えない敵を「実体」として引きずり出すための最前線に立っていた。
家を出ると、外は完全な夕闇に包まれようとしていた。煤けた空の下、遠くの家々からは細い夕餉の煙が立ち上っている。かつては豊かな農村の、平和な風景の象徴だったその煙が、今の志村には、犠牲者を弔う線香の煙のように見えた。
水路の脇を歩くと、足元の泥の中で何かが動いたような気がした。
志村は立ち止まり、懐中電灯を取り出すと、その光を泥の斜面に向ける。
そこには、数ミリの、小さな、あまりにも小さな黒い貝が張り付いていた。マッチ棒の先ほどの、取るに足らない存在。踏みつければ容易に砕け、誰の目にも留まらないほど卑小な生き物だ。
しかし、志村はこの小さな「実体」を凝視した。この微小な貝こそが、あの中枢を破壊された男の巨大な腹という、あまりにもアンバランスな「現象」を引き起こしている中間宿主、ミヤイリガイではないのか。
「見ていろ」
志村は、泥にまみれた長靴を見つめ、低い声で呟いた。
「お前たちが何者なのか、どのようにして人の体に入り込み、何を奪っているのか……必ずこの手で暴き出してやる。隠れても無駄だ」
街へ戻る道すがら、ミニカのカーラジオからは、当時流行していた暗いフォークソングが流れていたが、志村の耳には一切届かなかった。彼の頭の中では、ただ、あの少女の冷たい手の感触と、たった今触れた男の、生ぬるい液体の重みだけが激しく反芻されていた。
オイルショックに揺れ、物質的な豊かさに陰りが見え始めた日本の片隅で、近代化の波に置き去りにされたこの村の澱み。
そこから逃げ出すことは容易だ。白衣を脱ぎ、都会の病院へ移れば、こんな泥にまみれる必要も、祟りを信じる人々に説教をする必要もない。だが、志村は知っていた。
自分の肩に宿るあの少女の冷たさが、体温を取り戻すことは二度とない。ならば、せめてこの澱みの先にある、清浄な「海」に辿り着くまでは、自分は決してこの泥の中から足を抜くことはできないのだと。
煤けた夕焼けが完全に消え、漆黒の闇が訪れる。
それは、これから始まる、長く、孤独で、そして自らを真っ白な灰へと変えていくまでの、長い闘いの序曲に過ぎなかった。
志村はアクセルを踏み込んだ。ミニカの360ccの貧弱なエンジンが、闇を切り裂くように、あるいは絶望を振り払うように悲鳴を上げた。
それは、希望などという華々しい言葉では言い表せない、ただ「歩き続けること」を呪いのように自らに課した男の、泥にまみれた重い一歩から始まったのである。
この夜の、肌を刺すような湿り気と、どこまでも続く暗い水路の音を、彼は死ぬまで忘れることはないだろう。命を救うために命を疑い、美しき故郷の中に潜む「悪意」を見極めるための戦いが、今、幕を開けた。
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