↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
  作者: しゅう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
189/238

光の子3

 一八七三年。故郷へと戻ったニコラ・テスラを待ち受けていたのは、輝かしい未来ではなく、泥濘の中から忍び寄る「死」の足音だった。当時、リカ地方を襲っていたコレラの猛威は、若きニコラの細い肢体を容赦なく捉えた。

それは、彼の人生において最も暗く、最も凄惨な、そして最も「神聖な」九カ月間の始まりだった。

コレラによる苦痛は、それまで彼が経験してきた「幻視」という名の精神的苦痛とは、全く質の異なる物理的な暴力だった。激しい脱水症状により、彼の血液はドロドロの毒液へと変わり、全身の関節は軋み、内臓は絶え間ない痙攣に襲われた。高熱に浮かされる彼の視界は、もはやスミリアンの見慣れた寝室を捉えてはいなかった。

意識の混濁、あるいは極限の肉体崩壊。その深淵の底で、ニコラの網膜に焼き付いたのは、これまでに見たどの幻影よりも強大で、暴力的なまでに美しい「光景」だった。


――ナイアガラの滝。


かつて地理の教科書で見た挿絵が、彼の熱病に侵された脳内で増幅され、圧倒的なスケールを持って顕現していた。暗闇の中に、凄まじい轟音が響き渡る。それは数万台の蒸気機関が同時に咆哮を上げるような、大地の絶叫だった。膨大な量の水が、銀色のカーテンとなって虚空を舞い、重力のままに叩きつけられる。

ニコラはその奔流の前に立ち尽くしていた。冷たい飛沫が彼の頬を打ち、重厚な水の質量が空気を圧縮して、彼の肺を押し潰そうとする。

だが、彼は恐怖を感じなかった。むしろ、言いようのない官能的な歓喜が、彼の衰弱した身体を貫いた。


「これだ。このエネルギーこそが、宇宙の拍動そのものだ」


凡庸な人間は、この巨大な滝を前にして「自然の驚異」を畏れるだろう。あるいは、この水流で「巨大な車輪を回す」という、直接的な利用を考えるだろう。だが、死の淵にあるニコラの直感は、それらを遥かに超えた次元に到達していた。

彼は、滝の激流を「遮る」ことを否定した。無理やりエネルギーを奪うのではない。この奔流そのものを、一つの「回路」として捉え直すべきなのだ。水を無理にせき止めて利用するのではなく、その運動エネルギーを「磁界の揺らぎ」へと変換し、静かに、だが確実に世界へと「導く」。

それは、母ジュカが織る繊細な刺繍のように、宇宙の力という糸を、一本も切ることなく新しい模様へと編み変える行為だった。

脳内を吹き荒れるナイアガラの飛沫が、青白い稲妻へと変わる。彼は、滝の巨大なエネルギーが目に見えない「交流の波」となって、全ヨーロッパ、そしてアメリカ大陸を覆い尽くす光景を幻視した。その瞬間、彼の衰弱した心臓は、止まりかけていた拍動を、磁界の回転と同調させるように再び強く打ち鳴らした。


 しかし、現実の肉体は死の淵から逃れられずにいた。

医師たちは皆、匙を投げ、家の中には死の静寂が満ちていた。厳格な父ミルーティンは、ベッドの傍らで祈り続けていた。父はニコラを自分と同じ聖職者の道へ進ませることを、人生の絶対の使命としていた。ニコラが物理学や工学への情熱を語るたびに、父はそれを「魂を腐らせる世俗の学問」として撥ね退けてきた。

だが、今、目の前で朽ち果てようとしている息子の、虚空を掴もうとする細い指先を見て、父の強固な殻は音を立てて砕け散った。


「ニコラ、私の息子よ。死んではならない。生きて、お前の望む道を歩むのだ」


父の声が、混濁した意識の層を突き抜けてニコラの耳に届いた。


「……本当ですか、お父さん」


ニコラは、死者のような掠れた声で問い返した。


「ああ。約束する。お前が健康を取り戻したら、世界で最も優れた技術学校へ、私がお前を送り出そう。お前の心にある『光』を、形にするための場所へ」


その瞬間、ニコラの全神経系に「再起動」の火花が走った。

これまで彼を死の淵へと引きずり込もうとしていた絶望と重力が、一気に反転した。父の「許し」は、彼にとって単なる言葉ではなく、自身の運命を宇宙の因果律に接続するための、最後のスイッチだったのである。

聖職者の道という、彼にとっての「偽りの回路」が断たれ、創造者エンジニアという「真の回路」が接続された。

ニコラの瞳に、生気という名の青い放電が戻った。周囲の人々が「奇跡」と呼んだその回復は、実は、彼が自身の「存在意義アイデンティティ」を完全に確定させたことによる、精神の勝利だった。


 回復を待つ間、彼の痩せこけた枕元には、二つの「救い」が届けられた。

一つは、叔父がどこからか手に入れてきた、最新の物理学と数学の本だった。ニコラはそれらのページを、飢えた獣が肉を喰らうような勢いで貪った。数式という名の楽譜が、彼の脳内でナイアガラの轟音を「秩序ある音楽」へと整えていく。

もう一つは、当時ヨーロッパで紹介され始めていた、マーク・トウェインの初期の著作だった。

トウェインの皮肉とユーモアに満ちた、それでいて人間の本質を鋭く穿つ物語は、あまりに論理と数式に偏りすぎていたニコラの精神に、柔らかな「人間性」という名の潤滑油を注ぎ込んだ。

「科学は冷徹だが、人間は滑稽で、だからこそ愛おしい」

トウェインの言葉の裏にある深い慈悲に、ニコラは初めて声を上げて笑った。その笑いは、彼の硬直した筋肉を解きほぐし、彼を死の冷気から完全に引き剥がした。後に彼がニューヨークでトウェインと無二の親友となることは、この瞬間にあらかじめ定められた「運命の伏線」だったのかもしれない。


 数ヶ月後、死の病から立ち上がったニコラ・テスラは、もはやスミリアン村の「空想癖のある少年」ではなかった。

彼の内側には、ナイアガラの滝が永遠のエネルギー源として鳴り響き、その両手には、宇宙のエネルギーを御するための「無形の設計図」が握られていた。

彼は、自分が生き残った理由を正確に理解していた。

神の言葉を代弁する司祭ではなく、神の「仕組み」を現世に具現化する創造者として、彼は死の門から連れ戻されたのだ。


「僕は、世界を照らす。この手で、重力の枷を外し、人々に星の光を与えるんだ」


 グラーツの技術学校への出発前夜、彼は再びマチャクを膝に乗せ、その背中を撫でた。

パチ、と闇を裂く青い火花。

それは、もはや彼を怯えさせる呪いではなかった。それは、これから彼が歩む、人類未踏の黄金色の旅路を祝福する、宇宙からの合図だった。

ニコラ・テスラ、十九歳。

死の淵から再起動した彼の魂は、今、臨界点を超え、全地球を覆い尽くすほどの光り輝く電流となって、未来へと流れ出したのである。

読んでいただきありがとうございます。

下の★~★★★★★で評価してもらえると勉強になります。

感想などいただけると嬉しいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。