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  作者: しゅう


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踊子4

昭和二十年、八月。

かつて工作艦が進水し、勇壮な行進曲が鳴り響いた西条の造船所は、音のない静寂に包まれていた。

石鎚の山々に反響するのは、もはや槌音ではなく、どこまでも虚ろな蝉時雨と、遠くで燃える街の煙が上げる、かすかな爆ぜる音だけだった。


航一郎こういちろうは、復員輸送艦の甲板から、変わり果てた故郷の海岸線を見つめていた。

南洋の炎熱と鉄錆の臭いに焼かれ、彼の頬はこけ、眼窩は深く落ち窪んでいる。右腕には、ラバウルでの空襲で負った深い裂傷の跡が、引き攣れた鋼のような色で刻まれていた。

 

「……戻ったのか」

掠れた声が、喉の奥で震えた。

彼が設計し、自らも乗り込んだあの新型工作艦は、トラック諸島の環礁で米魚雷の餌食となり、海底の闇へと沈んだ。

艦が傾斜し、爆発の火柱が夜空を焦がす中、航一郎は最期まで計算尺を離さなかった。

自分が施した「遊び」の計算が、果たして誰かを救ったのか。それとも、すべては無慈悲な質量保存の法則の中に溶け去ったのか。

荒れ狂う波間に投げ出された彼を救ったのは、彼がかつて美律に渡したあの数式の紙片と同じ、特定の浮力計算に基づいて設計されたはずの、木端の一片だった。

 

西条の駅に降り立つと、かつて美律を見送った日の丸の旗の海は影も形もなく、ただ焼け焦げた枕木の匂いだけが漂っていた。

航一郎は、足を引きずりながら、あの一座が身を寄せていた古い寺へと向かった。

だが、そこにあったのは、黒く炭化した門柱と、雑草の生い茂る空き地だけだった。

「……美律さん」

名前を呼ぶ。だが、返ってくるのは乾いた潮風の音だけだ。

彼女が乗った輸送船は、サイパン沖で消息を絶ったという風聞を、呉の工作部で耳にしていた。

「未帰還」という三文字が、彼の胸の中に、設計図の空白のような、埋めようのない穴を穿っていた。

 

彼はそのまま、あの断崖の下の砂浜へと向かった。

石鎚の山並みは、戦争などなかったかのように悠然と聳え、瀬戸内の海は、変わらぬ凪を湛えて光っている。

浜辺に座り込み、彼はポケットから一柱の鉄のリベットを取り出した。

錆びつき、色を失ったその金属塊は、あの日、美律が手のひらに乗せてくれた熱を、もはや宿してはいなかった。

 

彼は砂の上に、あの数式を指でなぞった。

美律に渡した、あの命の数列。

それを書き終えた瞬間、背後の崖の上から、かすかな、鈴の音が聞こえたような気がした。

幻聴だ。そう自分に言い聞かせ、航一郎は海を見つめ続けた。

 

「航一郎様」

 

その声は、潮騒よりも静かに、だが確かな質量を持って、彼の鼓動を打ち抜いた。

ゆっくりと振り返る。

そこには、汚れ果てた浅葱色の着物を纏い、防空頭巾を解いた髪を潮風に遊ばせながら、一人の女が立っていた。

美律みりつだった。

彼女の頬には、火傷の痕があり、その右足は微かに不自然な角度で地を掴んでいた。

だが、その瞳には、あの夜、工作艦の甲板で交わしたのと同じ、凛とした光が宿っていた。

 

「……生きて……いたのか」

「はい。……あなたの数式が、私を離しませんでした」

美律は震える手で、ボロボロになった紙片を差し出した。

海水に濡れ、文字はほとんど消えかかっている。だが、そこに刻まれた数列の跡だけが、彼女をあの沈みゆく輸送船の闇から、光の差す海面へと導いたのだという。

 

「船が裂けたとき……足が挟まって、動けませんでした。でも、あなたの書いたあの場所だけが、最後まで沈まなかった。私は、この紙を口に噛み締めて、あなたの数列を……心の中で舞いました。そうしたら、波が、私を押し上げてくれたのです」

 

二人は、ようやく指先を触れ合わせた。

鉄の臭いと、白粉の香りは、今や煤煙と潮の匂いへと変わっていたが、その指先から伝わる熱だけは、あの日、西条の街で共有した「生きようとする執着」そのものだった。

 


平成。

西条の街は近代的な工業都市へと姿を変え、造船所のクレーンは、かつてないほど巨大な船体を吊り上げている。

だが、あの断崖の下の小さな砂浜だけは、今も変わらぬ静寂の中にあった。

 

「おじいちゃん、またここに来たの?」

幼い少女が、白髪の老人の手を引いて砂浜に降り立つ。

老人は、かつて航一郎と呼ばれた男だ。

彼は傍らで優しく微笑む、同じく齢を重ねた美律の肩を抱き寄せ、静かに海を見つめていた。

 

「ここはね、おじいちゃんとおばあちゃんの『答え』がある場所なんだよ」

 

砂浜の上には、かつて美律が好んで踊った演目の一部をなぞるように、一軒の小さな茶屋と、舞踊の稽古場が建っている。

壁には、古びた一枚の設計図が飾られていた。

それは艦艇の図面ではなく、この浜辺に建つ建物の、波の侵食を計算し尽くした、平和のための設計図だった。

 

航一郎は、懐から一柱の、磨き抜かれた鉄のリベットを取り出した。

それはもはや兵器の部品ではない。二人の人生を、そしてこの地を繋ぎ止める、重みのある証だった。

 

夕刻、石鎚の山並みに日が落ちる。

黄金色の光が海面を走り、かつて火花を散らした造船所の灯りが、夜の始まりを告げる。

二人の足元で、小さな波が打ち寄せては返る。

その波紋は、あの日、進水した工作艦が上げた飛沫と同じ曲線を描き、そして優しく、砂の上に刻まれたすべての過去を、凪の中へと溶かしていった。

 

西条の海は、どこまでも深く、青く。

明日へと続く潮騒を奏で続けている。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

本作『踊子』は、これにて完結となります。


本作の着想は、村下孝蔵さんの名曲『踊り子』の旋律が、私の頭の中で静かに繰り返されていたことから始まりました。

同時に、古代の叡智である「カタカムナ第29首」が示す、「個と全のバランス」ということわりに触れたとき、戦時下という極限状況の中で、個人の微かな「熱」をいかにして物語に定着させるかという構想が形を成しました。

当時の時代背景や土地勘など、至らぬ点も多々あったかと存じますが、今の私にできる限りの誠実さで、航一郎と美律の運命を綴らせていただきました。



【読者の皆様へ】

本作を読み終えた皆様の率直な感想が、この物語を未来へと「定着」させる最後の鍵となります。以下の5段階評価、および皆様の心に残った情景をお聞かせいただけますと幸いです。

評価: ★ 〜 ★★★★★

コメント: 印象に残った場面や、特に心に響いた一節(航一郎の数式、美律の舞など)があれば、ぜひお聞かせください。

皆様の言葉が、この凪の海にひとつの波紋を広げ、物語を完成させてくださることを願っております。

最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。

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