踊子3
十一月。伊予西条の海は、冬の先触れとなる鋭い北風に洗われ、その水面は連日、ちりちりと逆立つ銀色の鱗のような波に覆われていた。
西条の街を包み込んでいた蜜柑の甘い香りは、凍てつく朝の霧に溶けて消え去り、代わりに、霜の降りた土の匂いと、さらに激しさを増す造船所の焦げ付いた重油の臭気が、肺の奥まで突き刺さる。石鎚の峰々は、雪化粧を待つ険しい灰色の岩肌を剥き出しにし、その峻厳な眼差しで、刻一刻と色彩を失っていく街を見下ろしていた。
造船所の第一ドックでは、工作艦「明石型」の性能を凌駕すべく設計された新型工作艦の建造が、狂気じみた速度で最終局面に差し掛かっていた。
ガダルカナルからの撤退、そして相次ぐソロモン諸島での激戦。前線からは、もはや「修理」の概念を越えた、無惨に引き裂かれた艦艇の悲鳴が届いていた。直撃弾によって内臓を抉られた駆逐艦、魚雷によって艦首を失った巡洋艦。それらを戦地で繋ぎ合わせ、再び戦場へ押し戻すための「動く工場」の完成が、軍令部にとっての至上命令となっていた。
航一郎は、連日の徹夜作業で充血した目をこすり、設計図と現物の隔壁を見比べていた。
「航一郎技師、貴様、この強度の計算に迷いがあるのではないか」
背後から響いたのは、西条海軍監督官の硬い長靴の音だった。
「……いえ。波浪の衝撃に対する、最小限の柔軟性を考慮しております。工作艦は戦地で修理の母体となるもの。剛性のみでは、爆風による応力集中で、かえって亀裂を招きます」
「御託はいい。この艦には、貴様も『工作部員』として乗艦してもらう。呉での最終公試の後、そのまま南方航路へ追随せよとの命だ。ガダルカナルで失われた整備能力を、一刻も早くラバウル、あるいはその先で立て直さねばならん。貴様のような現場を知る設計者が必要なのだ。戦地の泥と錆の中で、その計算尺の正しさを証明してみせろ」
航一郎の背筋に、氷のような戦慄が走った。
それは事実上の「生還を期し難い動員」の宣告だった。設計台の上の計算尺が、急に冷たく、重い凶器のように感じられた。自分が引いた一本一分の直線が、そのまま自分を、あるいは顔も知らぬ多くの若者を、帰れぬ海へと誘う死の線に見えた。
「……拝命いたします。一寸の狂いもない『純粋な兵器』として、海へ送り出します」
監督官の視線は、航一郎の胸元で微かに膨らんでいるポケット――美律から預かった、あの砂浜の温もりを宿した鉄のリベットを、透かして見ているかのようだった。
一方、鳳一座が身を寄せる古い寺の離れでは、美律が冷え切った指先に息を吹きかけながら、演目のために足袋の綻びを縫っていた。
「美律、手を休めるな。呉からの連絡だ。明後日の朝、ここを発つ」
座長の声が、暗い部屋に低く響いた。
「……はい。呉へ戻るのですか」
「戻るのではない、寄るのだ。そこから輸送船に乗り換える。行き先は……ソロモン諸島の付け根、ラバウル、あるいはサイパンだ」
美律の持つ針が、ぴたりと止まった。
「ラバウル……。あそこは、もう、帰れぬ場所だと聞いております。兵隊さんたちも、あそこへ行けば二度と……」
「だからこそ、お前が行くのだ。死ぬ前に、一度でいいから、故郷の舞が見たいという男たちが山ほどいる。……お前は、この一座で一番の踊り子だ。向こうへ行けば、もう二度とこの瀬戸内の凪を拝める保証はない。覚悟を決めておけ。お前の踊りは、もはや娯楽ではない。国のための、鎮魂だ」
美律は、膝の上の着物を強く握りしめた。
浅葱色の絹地が、彼女の震える指先の下で悲鳴を上げる。
かつて舞台で喝采を浴びたときの高揚感は、今や冷たい義務へと変貌していた。彼女のつま先が描く円舞は、戦地の泥濘に沈む兵士たちの、一瞬の夢を支えるための細い、細い糸となる。
あの断崖の下の浜辺で、航一郎が漏らした、あの未完成の言葉が、耳の奥で潮騒のように鳴り響いた。
自分たちは、一羽の蝶と、一柱の鉄の部品に過ぎない。
国家という巨大な激流の中で、互いの羽を重ねることさえ、この国では許されぬ大罪なのだ。
その夜、西条の街を覆ったのは、暴力的な静寂だった。
空襲のサイレンこそ鳴らないが、徹底された灯火管制によって窓という窓が黒い布で覆われ、街は死に絶えた沈没船のように闇の底に沈んでいた。
航一郎は、完成間近の工作艦の甲板に立っていた。
遠く、石鎚の山並みが星空を切り裂き、海面は冷たい月光を浴びて、真珠の母貝のように白く光っている。甲板を打つ風は刃のように鋭く、彼の頬を容赦なく叩いた。
「航一郎様」
背後で、衣擦れの音がした。
振り返ると、そこに立っていたのは、防空頭巾を肩にかけ、身を縮めるようにして立つ美律だった。
「……なぜ、ここへ。見つかれば、工作部への不敬とされる。軍機密の艦に近寄ったとなれば、君の身が危ない」
「お別れを、言いに来たのです。一座は、南へ向かいます。明後日の、一番列車で呉へ行き、そこから……輸送船でラバウルへ。……もう、この景色を見ることも叶わないかもしれません」
「……僕もだ。僕も、この船に乗って、南へ行く。工作部員として、前線の傷ついた船を直すために。君が踊るその場所の、すぐ近くを通るかもしれない」
美律の時が、止まった。
頭上の空では、冬の星座が冷たく輝き、その美しさがかえって二人の絶望を際立たせている。
同じ海を渡る。だが、それは再会を約束する航路ではない。互いに、死という終着駅へ向かうための、並行するレールに過ぎないのだ。
「分かっています。でも、私は踊り子ですから。……どこへ行っても、つま先で立って、誰かのために舞う。それが、私の生きる理由ですから。航一郎様……どうぞ、お体を」
美律は、暗闇の中で航一郎に一歩近づいた。
その距離は、昨日の浜辺よりも近い。だが、二人の間を隔てる「空気」は、もはや瀬戸内の凪ではなく、凍てつくような死の予感を孕んでいた。
航一郎は、震える手で、自らの白衣の胸ポケットから、あの設計図の端を破って書いた、一通の紙片を取り出した。
それは、愛の言葉を綴った文ではない。
工作艦の、ある特定の区画における、特殊な浸水計算の数列。
だが、その数字の間には、彼が一生をかけても数え切れないほどの、言葉にできない情念が込められていた。
「これを持っていてくれ。……これは、僕がこの船に施した、たった一つの、設計図にはない『遊び』の計算だ。船がどんなに壊れても、この数列の場所だけは、最後に海に浮くように計算してある。……もし、君の乗る輸送船が、僕の造ったこの艦の近くにいたなら……。あるいは、君がどこかの海で、僕の造った船を見つけたなら……。これがあれば、君は、死なずに済むかもしれない。……これが、僕にできる、精一杯の『設計』なんだ」
美律は、その紙片を、凍える指で受け取った。
「航一郎様……。これは、あなたの『魂』なのですね」
「答えは……。答えは、出さなくていい。生きて、戻ってきてくれ。……この西条の、凪いだ海に。また、あの砂浜で……君の踊りを見せてほしい。……それだけでいい。」
航一郎の言葉が、冬の夜気に溶けた。
二人は、指先さえ触れ合わなかった。
ただ、その至近距離で、互いの激しい動悸と、生きようとする執着の熱だけを、瀬戸内の潮風を通じて交換し合った。
「行きます」
美律が、踵を返した。
「さようなら、は……言いません。……航一郎様」
彼女の影が、闇の中に吸い込まれていく。
航一郎は、その場に立ち尽くした。
空からは、雪の先触れのような冷たい雨が、ポツリ、ポツリと、彼の頬を濡らし始めた。
彼は、自分の掌を見つめた。
そこには、美律の白粉の、微かな香りが、鉄の匂いに混じって、消えずに残っていた。
翌朝。
西条の駅には、勇ましい行進曲が鳴り響き、日の丸の旗が乱舞していた。
鳳一座を乗せた列車が、煤煙を吐き出しながら、ゆっくりと動き出す。
美律は、窓の外を、ただ一度も見なかった。
彼女の懐には、航一郎から渡された、あの数式の紙片が、心臓の鼓動に合わせて静かに震えていた。
一方、造船所のドックでは、工作艦の進水式が執り行われていた。
巨大な鋼鉄の塊が、支綱の切断と共に、軍楽隊の演奏を切り裂いて瀬戸内の凪いだ海へと滑り落ちていく。
その時、巻き上がった大きな飛沫は、岸壁を叩き、やがてあの二人が出会った小さな砂浜へと届くだろう。
航一郎は、その「巨大な死の発生」を、虚ろな目で見つめていた。
その言葉は、もはや焦燥ではなく、絶望という名の「定着」となって、彼の魂を蝕み始めていた。
空は、どこまでも澄み渡り、瀬戸内の海は、何事もなかったかのように、冷たく、そして美しく、二人の運命を分かち去っていった。
数週間後、航一郎を乗せた工作艦は、豊後水道を抜けて外海へと出た。
眼前に広がるのは、瀬戸内の凪とは似ても似つかぬ、狂暴なまでに深い群青の太平洋。
航一郎は甲板で、ポケットの中の鉄のリベットを握りしめた。
そのリベットの冷たさは、かつてあの浜辺で感じた美律の指先の熱と、対極にあるようでいて、不思議と同じ「生きている重み」を伝えていた。
「美律さん。僕は、直すよ。どんなに壊れても、海の上で繋ぎ合わせる。……君を乗せた船が、沈まないように。僕の設計が、君を守る楯になるように」
工作艦の煙突から吐き出される黒煙が、冬の空に長く尾を引く。
それは、失われゆく日本の、あるいは、二人の微かな希望の、最後の灯火のようにも見えた。
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