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  作者: しゅう


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踊子2

瀬戸内の空は、吸い込まれるような紺碧の奥に、冬の到来を予感させる鋭い透明度を湛えていた。

西条の市街から東へ、海岸線を縫うように走る軍用道路を外れ、石鎚の余韻が海へと落ち込む断崖の細道を辿ると、そこには人の気配を拒絶するような、切り立った岩壁の連なりがある。航一郎こういちろうは、首から下げた黒い図面ケースの角を、幾度も松の幹にぶつけながら、一歩一歩、腐葉土の湿った急斜面を下っていた。

ケースの中には、工作艦の隔壁構造を記した青写真が収められている。それは一級の軍機であり、紛失すれば即座に軍法会議、あるいはそれ以上の破滅を意味する「鉄の戒律」そのものだった。

 

崖を降りるにつれ、背後で鳴り響いていた造船所の、空気を引き裂くような鋲打ち(リベット)の音は、湿った土の匂いと、崖に砕ける波の音に吸い込まれて消えていった。

「海路の隠蔽、および接岸適地の実地踏査……」

彼は、誰に聞かせるでもなく、乾いた唇を動かした。それは、自分という「個」の行動を、国家という「公」の枠組みに無理やり押し込めるための、呪文のような言い訳だった。だが、彼の視線は、岩礁の吃水を測るためではなく、昨夜の波止場に残された、あの残像を追って、銀色に光る波打ち際を彷徨っていた。


断崖の影を回り込み、波に洗われた岩の隙間を抜けた瞬間、視界が開けた。

そこには、三日月のような形をした、小さな、しかし驚くほど清らかな砂浜があった。砂は白く、瀬戸内の凪に磨かれた貝殻の欠片が、宝石を散りばめたように陽光を跳ね返している。

その渚の、波が届くか届かないかの境界線で、一人の少女が、着物の裾を膝まで引き上げ、白粉の落ちた素足で砂を踏みしめていた。

美律みりつだった。

昨夜の舞台で見せた、あの鮮烈な浅葱色ではない。今日は、島の蜜柑の葉に似た、落ち着いた深い緑の着物を纏い、その袖は白いたすきで無造作に上げられていた。

彼女は、航一郎の気配に気づくと、砂をなぞる足を止め、ゆっくりとこちらを振り向いた。その瞳には、驚きよりも先に、深い諦念と、それを上回る静かな覚悟が宿っていた。

「……航一郎様」

彼女の声は、潮騒の音に溶けてしまいそうなほど、低く、重かった。

航一郎は、岩場に図面ケースを置いた。その動作一つにも、軍機の重みを扱う慎重さが染み付いている。

「ここは、海路の防備を確認するための要衝だ。……滅多に人は来ないはずだが」

「はい。……お仕事、お疲れ様でございます」

二人の間には、十歩ほどの距離があった。


美律は、足元の砂を指で掬い上げた。

「昨夜、あんなに大きな鉄の重みを見てしまったから……。今日はどうしても、この柔らかい砂に触れて、自分の重さを確かめておきたかったのです」

航一郎は、海風に吹かれながら、崖の縁に腰を下ろした。

瀬戸内の海は、潮の満ち引きによってその表情を劇的に変える。今は引き潮のとき。海面が大きく退き、普段は水の底にある鋭い岩礁が、肋骨のように剥き出しになっている。

「この海の下には、僕たちが造った鉄の塊が、いつか沈んでいくのかもしれない。……設計図には、沈まぬための計算しか書いていないが、鉄はいつか、その重さで底へ還る」

 

美律は、航一郎の隣に、拳二つ分を空けて座った。

「沈むために造るなんて……。私の踊りも、同じかもしれません。舞台が終われば、拍手も熱気も、この波のように消えてしまう。何も残らない。ただ、つま先が痛むだけです」

 

二人の間を、潮の香りを孕んだ風が通り抜ける。

それは、街の煤煙とは無縁の、生命を呼び覚ますような生々しい風だった。

崖の上には、寒椿の蕾が赤く膨らみ始め、その背後には四国山地の険しい山影が、神々の指先のように空を突いている。海と山に挟まれたこの細い境界線の上で、二人は初めて、互が持つ熱量に触れようとしていた。

 

「美律さん。君の踊りを見ていると……自分が計算している鉄の数式が、いかに虚しいものかと思い知らされる」

航一郎は、膝の上の図面ケースを、まるで無用の長物であるかのように見つめた。

「鉄は、重さに耐え、波を切り裂くためにある。でも、君の足は、重力に抗って、空中に一瞬の光を発生させる。それは、どんな設計図にも描けない、究極の構造だ」

 

美律は、少し照れたように俯き、足元に生えた名もなき海藻を指でなぞった。

「航一郎様は、難しいことをおっしゃるのですね。私はただ……誰かに見てほしくて。この灰色の世界の中で、私という人間が、今、ここで息をしていることを、忘れてほしくなくて」

 

その言葉に、航一郎の胸が激しく脈打った。

彼は思わず、美律の白く、細い指先に手を伸ばしかけ、その指が軍機密のケースに触れていることに気づいて手を止めた。

指が触れることはなかった。だが、その距離の近さが、かえって瀬戸内の凪いだ海を一瞬だけ震わせるような緊迫感を生んでいた。

美律の指先は、砂の微かな熱を帯びていた。白粉に隠されたその皮膚の下には、膨大な生命の循環が、激しく、しなやかに波打っているのが、見て取れるようだった。

「明日を……」

航一郎が、絞り出すような声で呟いた。

「明日をどう迎えるか、僕たちは選ぶことができない。この戦争が続く限り、僕はいつ、どこへ行くか分からない。君は一座と共に次の港へ行き、僕は新しい船と共に、外海へ出されるかもしれない。……答えを出すことさえ、許されない」

 

美律は、彼の手を握り返さなかった。ただ、その熱をじっと確かめるように、指先を数センチの距離で保ったまま、遠い水平線を見つめた。

水平線の先には、呉や広島の軍港へと続く航路が、銀色の糸のように見えている。

そこには、自分たちの意志とは無関係に動く、巨大な「国家の歯車」が待ち構えている。

 

「でも、今は……今だけは、この凪の中にいたいのです」

美律の声が、微かに震える。

「この景色を、航一郎様の横顔を、心に焼き付けておきたい。いつか、何もかもが灰になって消えても……この一瞬だけは、私の中に残ると信じているから」

 

崖の下で、波が岩を穿つ音がした。

それは、時計の刻む音よりも、残酷に時の経過を告げていた。

夕刻、空は紫から深い藍色へと移り変わり、瀬戸内の島々の影が、海面に浮かぶ黒い獣の背中のように見え始めた。

二人は、どちらからともなく立ち上がり、再び造船所の灯りが見える街へと歩き出した。

 

街に戻れば、再び鉄の匂いと、勇ましい軍歌、そして「軍機保護法」という目に見えない鎖が二人を待ち構えている。

だが、二人の間には、もはや昨日までのような「壁」は存在しなかった。

代わりに、決して結ばれることのない「切なさ」という名の、鋭い個性の火花が、暗闇の中で静かに灯り始めていた。

 

造船所のドックでは、巨大な軍艦が、その冷たい腹を晒して鎮座している。

美律は、その鋼鉄の塊を見上げ、小さく息を吐いた。

その吐息は、冷え始めた瀬戸内の夜気の中で、一瞬だけ白く揺らぎ、そして夜の深淵へと消えていった。

二人の間には、最後まで「好きだ」という言葉も、「愛している」という言葉も、交わされることはなかった。

ただ、瀬戸内の凪が、二人の沈黙をどこまでも深く、重く受け止めていた。

読んでいただきありがとうございます。

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