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  作者: しゅう


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チャーノの日記4

一九四四年一月十一日、午前九時。

ヴェローナの朝は、鋭利なガラスの破片で肌を撫でるような、冷徹で無慈悲な静寂に支配されていた。スカルツィ監獄の重厚な鉄扉が開く音は、私の人生という、あまりにも華やかで、あまりにも空虚だった物語の、最後の頁が閉じられる合図だった。私は数名の護衛兵に囲まれ、凍てついた石畳を一歩ずつ踏みしめて歩いていた。吐き出す息は白く濁り、瞬時に冬の空気の中に溶けて消えていく。その一呼吸、一呼吸が、私という粒子がこの宇宙に刻む最後の振動であることを、私は驚くほど凪いだ心で受け止めていた。

「方向性を持つ粒子」としての私の旅は、まもなく絶対的な零度へと到達しようとしている。

私の肉体は、寒さと死への恐怖を通り越したところにある、奇妙な軽やかさに支配されていた。かつてベルリンで「鋼鉄同盟」という名の呪縛に署名した私の右指、ローマの社交界で洗練されたウィットを振りまき、各国の外交官たちと丁々発止のやり取りを演じた私の唇、そして何よりも、一九三七年から数千、数万の真実を日記という器に紡ぎ続けてきた私の指先。それらすべてが、あと数分で無機質な炭素の塊へと還元される。だが、不思議なことに、私の心に絶望の文字はなかった。ただ、自らが放った情報の粒子が、どこへ辿り着くのかを見届けようとする、純粋な好奇心だけが残っていた。


私は、射撃場へと向かうトラックの荷台に揺られながら、灰色の空を見上げた。

そこには、かつて私が日記の中で呪い、その爆音に怯えたドイツの爆撃機も、連合軍の不吉な影もなかった。ただ、冷徹な物理法則に従って静かに広がる、美しくも無関心な空があるだけだった。

「与えられている」のだ。私は、この死の瞬間という極限の経験さえも、歴史という巨大な磁場から与えられている。

ムッソリーニ——私の義父であり、この悲劇の演出家は、ついに自らの娘婿を殺すという「方向性」を選び取った。彼は自らの保身と、ヒトラーという巨大な質量への盲目的な服従のために、私という血縁の絆を、自らの手で切断したのだ。だが、その切断こそが私を自由にした。エッダ。彼女は今、この凍てつく寒空の下、私が託した日記という名の「情報の飽和」を抱いて、スイスの国境を越えようと命がけの逃亡を続けているはずだ。彼女がその紙の束を守り抜くこと。それだけが、私の人生という生が、死を超えて未来へと「定着」するための、唯一の、そして最後の回廊であった。


ヴェローナの射撃場に到着した。そこには、すでに五脚の木の椅子が、射撃手たちに背を向ける形で無造作に並べられていた。

私と共に処刑されるのは、あの日、大評議会で勇気を持って賛成票を投じた、かつての同志たちだ。かつての法相、年老いたデ・ボーノ元帥、マリネッリ……。彼らの顔は、寒さと、今まさに肉体が消滅しようとすることへの根源的な恐怖で激しく歪んでいた。一人の神父が私に近づき、最期の告解と赦しを求めてきた。私は彼の慈愛に満ちた目をじっと見つめ、静かに、しかし断固として首を振った。

「神父様、私の罪はすべて、あの日記の中に記しました。隠すことも、飾ることもなく、ありのままを定着させたのです。あれが私の真実であり、私の唯一の贖罪なのです。神の赦しよりも、私は歴史という観測者の審判を待ちたいのです」

私は椅子に座らされ、手首を背後で硬く縛られた。

処刑兵たちは、私に背を向けるように命じた。「裏切り者」は背後から撃たれるのが、ファシズムという歪んだ美学が強いる最後の屈辱であった。だが、私は最期の瞬間に、首を強引に捻り、銃口を構える兵士たちを直視しようと抗った。私は、自分という個体を終わらせる粒子の輝きを、この目でしっかりと観測したかった。自分の命が情報の火花となって散るその瞬間まで。


「射て!」

号令と共に、鋭い銃声が冬の静寂を粉砕した。

衝撃が背中を突き抜け、私の感覚は一瞬にして純白の閃光に包まれた。

熱い。いや、極限まで冷たい。

私という粒子が、激しい摩擦音を立てて崩壊し、宇宙の深淵へと霧散していくのを感じる。


情報の飽和。一九三九年五月二十二日のベルリン、あの重苦しい大理石の感触。一九四三年七月二十四日のローマ、あの大評議会場の殺気。リッベントロップの蛇のような冷笑。ムッソリーニの震える手。エッダの温もり。それらすべての、私が「与えられた縁」として経験した記憶の断片が、一気に宇宙の背景放射へと還元されていく。

だが、その意識が消えゆく刹那、私は悟った。

私の肉体という粒子は、ここで静止し、土へと還る。だが、私が日記という器に、命を削りながら閉じ込めた「軌跡」は、この銃弾という衝撃によって封印を解かれ、永遠という名の情報の海へと放たれたのだ。


ガレアッツォ・チャーノが処刑された数日後、エッダ・ムッソリーニは、ボロボロになったスカートの裏地に夫の日記を縫い付け、ゲシュタポと連合軍の二重の警戒網を潜り抜けて、奇跡的にスイスの国境を越えた。

彼女が守り抜いたその情報の塊は、後に全世界に向けて公開され、戦後の歴史を根底から揺さぶる巨大な「真実の定着」となった。

 

一人の独裁者が、いかにして自らの虚栄心のために一国を滅ぼしたか。

「鋼鉄の同盟」という言葉が、いかに血塗られた欺瞞に満ちていたか。

そして、その巨大な質量が引き起こした濁流の中で、一人の男がいかにして、自らに与えられた縁を呪いながらも、最後には「日記」として自らの意志を定着させようとしたか。

 

チャーノという粒子はヴェローナの土に消えたが、彼が放った情報の波紋は、四千四百万のイタリア人、そして全世界の記憶の中に深く刻み込まれた。それは、誤った方向性へと熱狂する未来への、消えることのない冷徹な警鐘となった。

 

ヴェローナの射撃場の土は、その後、幾度も春の雨に洗われ、血の跡は跡形もなく消え去った。

だが、あの日記の頁をめくるたびに、未来の人々はそこに漂う生々しいインクの匂い、そして一人の男が最期に見た「凍てついた沈黙」を、ありのままに見続けることになる。

最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。

本作『チャーノの日記』は、これにて完結となります。


本作の着想は、古代の叡智である「カタカムナ第27首」に示された理から得たものでした。

物語を構想する際、私の脳裏に強く浮かんだのは、世界が「鋼鉄」という名の巨大なベクトルに呑み込まれていった「日独伊三国同盟」の時代でした。中でも、イタリア外相ガレアッツォ・チャーノが遺した『チャーノ日記』には、抗いがたい運命の濁流に抗おうとする、一人の生々しい鼓動が刻まれています。

第27首が説く「方向性を持つ粒子」や「ご縁(避けられぬ結びつき)」というキーワードが、時を超えて彼の孤独な記録を呼び寄せたのだと確信しています。

日本、そして世界中の人々が、二度と同じ過ちという方向性へ整列しないことを強く願い、この物語を綴りました。かつてヴェローナの土に消えた一つの魂が放った情報の波紋が、いまを生きる皆様の心に届くことを願って止みません。



【読者の皆様へ】

本作を読み終えた皆様の率直な感想が、この物語を未来へと「定着」させる最後の鍵となります。以下の5段階評価、および皆様の心に残った情景をお聞かせいただけますと幸いです。

評価:★ 〜 ★★★★★

印象に残った場面や、特に心に響いた一節:

皆様から届く一つひとつの言葉が、また新たな「物語」を発生させる種となります。

読んでいただき、ありがとうございました。

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