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  作者: しゅう


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103/116

チャーノの日記3

一九四三年七月二十四日。

午後五時、パラッツォ・ヴェネツィア。

ローマの夏は、死を予感させるような、湿り気を帯びた不吉な熱気に包まれていた。議場の大理石の床は、夕刻の光を反射して、まるで冷徹な殺意を秘めた刃のように滑らかに光っている。ファシズム大評議会の二十八名の閣僚が集まったが、誰もが互いの視線を避け、沈黙という名の重力に押し潰されていた。正面の席には、ベニート・ムッソリーニが座っている。彼は、かつてイタリアを、そして私を支配していた獅子の如き威圧感を完全に失っていた。病に冒されたその顔は土気色に淀み、瞳には焦点の定まらない空虚な色が漂っている。私は自らの掌が汗ばむのを感じながら、上着の内ポケットにある、ある一通の決議案の感触を確かめた。

「方向性を持つ粒子」としての私の意志が、今、この議場という特異点において、不可逆的な収束を迎えようとしている。

私はこれまで、一九三七年から積み重ねてきた日記という名の闇に、真実という名の沈殿物を溜め込んできた。ドゥーチェという巨大な引力に従う忠実な衛星として、私に「与えられた」外相という地位、富、そして彼自身の娘婿という絶対的な縁を享受しながら、一方でその引力がイタリアを破滅へと引きずり込んでいく軌道を、誰よりも近くで冷徹に観測し続けてきた。だが、連合軍の爆撃がローマの聖域を蹂躙し、民衆の熱狂が暗い憎悪へと変わり果てた今、もはやペン先を走らせるだけの観測では足りないのだ。この巨大な質量が引き起こす墜落を食い止めるには、私自身という最小の粒子を、その中心部へと激突させ、軌道を強引に捻じ曲げるしかない。


会議は、重苦しい言い訳と責任のなすりつけ合いから始まった。ムッソリーニは、戦況の悪化を将軍たちの無能や国民の忍耐不足のせいにし、依然としてドイツとの運命共同体であることを、枯れた声で強調し続けた。彼は、まだ自分が磁場の中心であると信じ込もうとしていた。だが、議場を流れる空気は、すでに彼を見放していた。ディーノ・グランディが震える手で決議案を読み上げた時、私の心臓は肋骨を叩くほど激しく跳ねた。それは、軍の大権を国王に返還し、ドゥーチェの解任を公然と要求するものだった。

「ガレアッツォ、お前もか。お前までもが、私を裏切るというのか」

ムッソリーニの視線が、針のように私の顔を射抜いた。その言葉は、かつての寵愛への未練か、あるいは裏切られた父としての最期の嘆きか。私は、背筋を凍らせるような恐怖を感じながらも、目を逸らさなかった。この瞬間のために、私は数年分の絶望を日記に刻んできたのだ。

「私はイタリアの生存を選びます、ドゥーチェ。あなたがかつて愛し、作り上げたこの国を、あなた自身の執念で灰にするのを、私はこれ以上、ただ黙って見ていることはできないのです。これは、私の意志であり、私が今日まで観測し続けてきた真実の帰結です」


一九四三年七月二十五日、午前二時。採決。

場内は静まり返り、ペンが紙を走る音さえもが、処刑のカウントダウンのように響いた。

賛成、十九。反対、七。棄権、一。

私は、はっきりとした、しかし自分でも驚くほど冷徹な声で「賛成」と告げた。

その瞬間、二十年間にわたってイタリアという国家を、そして私の人生を縛り付けてきた巨大な呪縛が、音を立てて砕け散ったのを感じた。ムッソリーニは、まるで命の火を吹き消されたかのように深く項垂れ、一言も発することなく議場を去っていった。私は、その背中を見送りながら、自分がようやく自由になれたのだと錯覚した。与えられた縁を自らの手で断ち切り、自分という粒子の方向性を「反転」させたのだと。だが、歴史という名の無慈悲な粒子は、個人の意図を超えて、さらに暗く、冷たい深淵へと加速し始めていたのだ。

数時間後、ムッソリーニは国王によって拘束された。ローマの街には、ファシズムの象徴を破壊する民衆の狂喜が溢れ、人々はまるで長い悪夢から覚めたように歌い、踊った。だが、私は知っていた。北に控えるドイツ軍という巨大な質量が、盟友の失脚という情報の乱れを座視するはずがないことを。私は新政府の中でも「独裁者の娘婿」という拭い去れない過去によって疎まれ、居場所を失った。エッダは、父親を売った私を責めはしなかった。だが、その瞳には、最愛の父と夫が、互いに食らい合う獣となってしまったことへの絶望が宿っていた。

「ガレアッツォ、逃げなければ。ドイツなら、まだ私たちが生き残るための『縁』が残っているかもしれないわ」

それが、私に与えられた最後の、そして致命的な誤認へと導く罠だった。


八月。私はエッダと共にドイツへと逃亡した。しかし、ベルリンの空港に降り立った瞬間、私が目にしたのは、かつての歓迎の宴ではなく、冷酷な捕食者の視線だった。リッベントロップは、かつての友としてではなく、死刑執行人としての冷笑を浮かべて私を迎えた。私は豪華な邸宅に監禁され、一歩も外に出ることを許されなかった。そこは、かつて社交界の寵児であった私を嘲笑うような、金色の牢獄だった。ヒトラーは、イタリアの裏切りを決して許さなかった。そして、彼はムッソリーニをドイツ軍の特殊部隊によって救出させ、北イタリアに「サロ共和国」という名の、血と硝煙に塗れた傀儡国家を無理やり創り上げたのだ。


九月。私はドイツの手によって、再びイタリアの土を踏まされた。だが、それは帰還ではなく、自らの墓場への連行であった。ヴェローナのスカルツィ監獄。湿り気を帯びた石壁、鉄格子の隙間から差し込む、かつてのローマの太陽とは違う、凍てついた冬の月光。私はそこで、再び日記を開いた。

私の選んだ「反転」という方向性は、皮肉にも、私という粒子を「死」という名の終着駅へと加速させただけだった。だが、私は日記を綴るペンを止めなかった。監獄の冷気が指先を麻痺させ、意識が朦朧としても、心の中にはかつてないほどの静謐な火が灯っていた。私は今、これまでにないほど純粋な「観測者」として、自分の死という事象に向き合っていた。


一九四四年一月。ヴェローナ裁判。

それは、法の名を借りた復讐劇に過ぎなかった。裁判官たちは、ドイツ側の顔色を窺い、あらかじめ決められた判決を読み上げるための人形だった。ムッソリーニは、自分の娘婿である私に死刑を宣告することで、自らの権力がまだ有効であること、そしてヒトラーへの完全な服従を証明しようとしていた。エッダは、狂ったように父親に私の助命を嘆願し、私が持っている日記——そこに記された独裁者たちの醜聞と真実——を人質にして交渉を試みた。だが、自らの「方向性」を見失った独裁者の心は、すでに鋼鉄の氷に閉ざされていた。彼は、娘の幸せよりも、自分という空虚な偶像を守り抜くことを選んだのだ。

私は、監獄の隅でエッダに日記を託した。

「エッダ、聞いてくれ。これだけは、何があっても守り抜いてほしい。私の肉体という粒子は、明日の朝、数発の鉛の弾丸によって塵になるだろう。だが、この手帳の中に定着させた情報の飽和は、いつかこの暗黒の時代を照らす鏡になる。これこそが、私という粒子がこの宇宙に残す、唯一にして最大の抵抗なのだ。私を愛しているなら、この真実を、未来へ運んでくれ」

彼女は、私の手のひらを強く握り返した。その温もりだけが、私がこの世界に繋ぎ止められている最後の「縁」だった。


一月十日の夜。私は独房で最後の一節を書き上げた。

「明日、私は死ぬ。だが、私はかつてないほど自由に満ちている。与えられた縁に縛られた人生は終わり、私は今、自ら選んだ沈黙の中へと帰還する。方向性を持つ粒子は、その軌跡を紙の上に定着させ、やがて来る、私を必要としない新しい世界へと情報を託すのだ」

私は、万年筆のキャップを閉めた。その小さな金属音は、私の人生という旋律を締めくくる、最も美しい終止符のように聞こえた。

読んでいただきありがとうございます。

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