EP 6
「竜人に瓦礫撤去を任せてはいけない」
早朝の澄んだ空気を震わせるように、ポポロ村自警団演習場には朝露を踏みしめる重々しい足音が響いていた。
相澤直樹は、手にした木製のバインダーに挟んだ訓練日誌に視線を落とし、小さく息を吐いた。
「……フェイトさんは、どうしました?」
「あー……昨夜のコイントスの裏の呪いがまだ抜けないらしくてさ。『全身の関節に未知の魔素が詰まって動けない、あと従兄弟の飼い犬の四十九日だから休む』って通信石で泣き言が入ってたよ」
隣に立つ村長キャルルが、手縫いの人参柄刺繍ハンカチで額の汗を拭いながら、純白の長い兎耳をへにゃりと垂らして苦笑いを浮かべた。
直樹はこめかみを軽く揉みほぐす。もはや驚きもしない。前日の演習で白目を剥いて倒れた元A級冒険者は、案の定、初日の実地訓練を仮病でボイコットしていた。
「まあいいでしょう。あちらは後でじっくり再教育するとして……まずは、目の前の問題ですね」
直樹の視線の先には、演習場の中央で仁王立ちする巨漢――竜人族のイグニス・ドラグーンがいた。
今日のイグニスは、身の丈を超える凶悪な大斧『クリムゾン・スラッシャー』を置き、ホームセンター『タローマン』で購入したという難燃性の赤い作業ツナギを腕まくりで着用していた。額には泥除けの防塵ゴーグル、首元には汗拭き用の分厚いタオル。どこからどう見ても屈強なガテン系の土木作業員だが、その頭部から伸びる真紅の双角と、落ち着きなく地面を叩く太い竜尾が、彼が純然たる人外の戦士であることを主張している。
「へっ! 逃げた軟弱野郎のことは放っておきな、隊長さんよぉ!」
イグニスは分厚い胸板をバチンと拳で叩き、獰猛な八重歯を剥き出しにして笑った。
「昨日はちょいとばかり調子が狂ったが、今日は万全だ! 瓦礫をどかすなんざ、この俺様の竜パワーにかかれば朝飯前の小作業よ! 山一つ丸ごと更地にしてやるぜぇッ!」
「……イグニス。昨日言ったことをもう忘れましたか」
直樹は静かに、だが底冷えのする低い声で言った。
その冷徹な声音に、イグニスの赤太い眉がピクリと跳ねる。
「救助現場に更地は必要ありません。山を崩せば、その下にいる人間は百回死にます。今日の課題は『精密瓦礫撤去』――対象を傷つけず、周囲の建材を一切崩さずに、障害物を取り除く訓練です」
直樹が手招きすると、演習場の奥からガラガラと台車を押してケンタウロスの自警団長マンミアが現れた。
台車の上には、角材や板切れ、大小の石塊が複雑に入り組んだ「模擬倒壊家屋」が組まれている。その狭い隙間には、前回同様、衝撃で割れる薄ガラスの玉を仕込んだ布製のダミー人形が挟み込まれていた。
「直樹殿、指示通りの資材を用意しました。……イグニス、貴様がまた乱暴に暴れて資材を粉砕した場合、今月の給料からさらに『木材破損弁償費』として金貨五枚を天引きする手筈になっていますからね」
「ゲッ……!? マ、マンミア団長、そいつは勘弁してくれ! 俺様の手取りは今でも十四万円(銀貨百四十枚)しかねぇんだぞ! これ以上引かれたら、タローソンの見切り品すら買えずに広場のテントで餓死しちまう!!」
青ざめて絶叫するイグニスに対し、演習場の片隅の縁側でキセルを燻らせていた猫耳のCFO、ニャングルが金算盤をチャリと弾いた。
「自業自得や筋肉トカゲ。アパートの内見でくしゃみして部屋丸ごと火だるまにした前科を棚に上げて泣き言抜かすな。ほれ、さっさと直樹はんの教え乞うて、一人前の重機にならんかい」
「ぐぬぬ……! 重機扱いすんじゃねぇ!」
憤慨するイグニスを宥めつつ、直樹は模擬倒壊家屋の前に立った。
「いいですか、イグニス。瓦礫撤去において最も重要なのは、腕力ではありません。『観察』と『手順』です」
「観察だとぉ? 邪魔な石を見つけたら、引っこ抜くだけじゃねぇのか?」
「それが命取りになるんです。倒壊した現場の瓦礫は、お互いが複雑に噛み合い、支え合って辛うじて静止している立体パズルです。一本の柱、一個の石を取り除くだけで、全体にかかっている荷重のバランスが崩れ、要救助者を押し潰す『二次崩落』を引き起こします」
直樹は角材の交差部分を指で叩いた。
「まず行うのは【状況把握】。どの部材が荷重を支えている『要石』で、どの部材がただ乗っかっているだけの『フリー材』なのかを見極める。そして作業前には必ず、声を出して確認する。――周囲ヨシ! 頭上ヨシ! 足元ヨシ!」
直樹の鋭い指差し呼称が演習場に響く。
十二年間、日本の災害現場で叩き込まれた安全動作。その一切の淀みない所作に、マンミアが感心したように耳を澄ませ、キャルルも真似をして「頭上ヨシ!」と指を突き出した。
「さあイグニス、やってみなさい。まずその手前の平たい岩を動かす。ただし、力任せに引くな。支点を確認し、わずかに持ち上げて荷重の抜け方を確かめながら、ミリ単位で引き抜くんだ」
「み、ミリ単位……? そんなチマチマしたこと、やったことねぇぞ……!」
イグニスは恐る恐る膝をつき、重量百キロほどの平たい岩石に太い指をかけた。
普段なら片手で放り投げるような石だ。だが、直樹の厳しい視線と、背後に控えるマンミアのパイルバンカーの威圧感に、竜人の額からタラリと冷や汗が垂れる。
「よ、よし……いくぜ! ふんッ!」
「止まれ! 動かすな!」
直樹の一喝が飛んだ。
イグニスがビクッと肩を跳ね上げて静止する。
「声掛けはどうした!? 合図なしに作業を始めるな! お前が力を入れる瞬間、周囲の隊員がどこにいるかも確認していないだろう! もし仲間が岩の陰に手を入れていたら、指を切断するぞ!」
「う……! す、すまねぇ……!」
「もう一度! 作業開始の合図は『動かします』、完了は『ヨシ』だ。お前の呼吸ではなく、隊全体の呼吸で動け!」
「お、おう……! い、岩……動かします!」
イグニスは気を取り直し、声を張り上げた。
ゆっくりと、腕の筋肉を緊張させていく。
竜人族の強靭な筋繊維が軋み、平たい岩がギギ……と数ミリ浮き上がった。
その瞬間、岩の下に噛み合っていた細い角材が、パキリと音を立てて傾きかけた。
「――っ、下のがズレる!」
「慌てるな! 放り出すなよ、落としたら衝撃で下の人形が死ぬ! その高さで保持しろ!」
「ぐぬぬぬぬ……ッ!!」
イグニスの真紅の鱗に闘気が滲み、両腕が小刻みに震え出した。
持ち上げるだけなら造作もない。だが、「持ち上げた状態で、一ミリも揺らさずに空中で静止し続ける」というのは、超重量の質量を扱う上で最も繊細な筋力制御を要求される。
「直樹さん、角材が人形の首元に食い込みそうだよ!」
「分かっています! イグニス、そのまま岩を『手前』ではなく『左上十五度』へスライドさせろ! 重心を左の太い丸太へ預け直すんだ!」
「ひ、左上……じゅ、十五度ぉぉぉッ!?」
イグニスは目を血走らせ、血管を浮き上がらせながら、言われた通りの角度へ巨岩をわずかに押し滑らせた。
ズッ……コト。
鈍い音が響き、角材の荷重が逃げて安定した丸太の上へと移動する。
人形への圧迫が消えた。
「今だ、岩を地面へ下ろせ! 静かにだ!」
「ぬ、ぬおおおおぉぉぉ……ッ!」
トン、と微かな土煙を立てて、岩が演習場の地面に接地した。
瓦礫は崩れていない。
ガラス玉の割れる音も響かなかった。
「…………」
静寂の中、イグニスは膝をついたまま、呆然と自らの大きな掌を見つめていた。
これまで彼の人生は、すべてが「破壊」だった。
竜人の里を出てからというもの、力を込めれば獲物の素材は炭化し、手加減を間違えれば依頼主の家屋をへし折り、周囲からは「破壊魔」「迷惑なトカゲ」と罵倒され続けてきた。彼にとって力とは、暴走して自分を破滅へと追いやる呪いのようなものだったのだ。
だが今、目の前にある瓦礫は、何一つ壊れていなかった。
「……壊れ、てねぇ……」
「作業完了――ヨシ!」
直樹がポンとイグニスの逞しい肩を叩いた。
「見事です、イグニス。お前のその驚異的な背筋と握力のおかげで、二次崩落を起こさずに安全な作業空間を確保できた。壊すためじゃない、人の命を支えるための力だ。完璧でしたよ」
「た、隊長さん……」
直樹の穏やかな笑顔と称賛の言葉が、イグニスの胸の奥にストンと落ちた。
故郷の里に「英雄になった」と大嘘の手紙を書き、見栄を張るために小遣いを削って合成写真を作り続けていた哀しいプライドが、初めて本物の「誇り」によって満たされていく。
「す、すげぇ……! 俺様、壊さなかった! 岩をどかしたのに、周りの木っ端一つ折らなかったぞ!」
「うんうん、凄かったよイグニス! あたしも見ててハラハラしたけど、すっごく格好良かった!」
キャルルがピコピコと兎耳を揺らしながら手放しで拍手を送る。
マンミアもパイルバンカーの先端を下げ、小さく微笑んで頷いた。
「やればできるではありませんか、イグニス。その繊細さを普段の生活でも発揮してくれれば、村の器物破損弁償金も減るというものですが」
「へへっ……へへへへ! 見たかよ! これが竜人族の若武者、イグニス・ドラグーン様の真の実力よぉぉぉッ!!」
褒められたイグニスは、一瞬にして調子に乗った。
立ち上がり、腰に手を当てて天を仰ぎ、喉の奥から込み上げる熱い感情を爆発させる。
「親父ぃ! お袋ぉ! 見てるかァ!? 俺様は今、ポポロ村の最前線で人を救う本物の英雄への道を突き進んでるぜぇぇッ!! うおおおおお、滾ってきたぁぁぁッ!!」
胸が高鳴り、心拍数が跳ね上がり、アドレナリンが全身を駆け巡る。
その過剰な興奮に引きずられるように――イグニスの喉の奥にある生体器官「火炎袋」が、カチリと過敏に反応してしまった。
ゴボッ……と、彼の口元から不吉な黒煙が漏れ出す。
直樹のレスキュー隊員としての危険察知センサーが、最大音量で警報を鳴らした。
「――ッ!? イグニス、お前まさか口の中に火が溜まって――」
「感謝と歓喜のぉぉぉッ! 雄叫びを聞けぇぇぇぇぇッッ――ゴホッ、ゲホッ、ンゴオオオオッ!!」
感極まって息を吸い込んだ瞬間、舞い上がった土煙が鼻腔に入り、盛大なくしゃみと咆哮が同時に炸裂した。
「ブレスを吐くなぁぁぁぁぁッッ!!」
直樹の絶叫と同時に、イグニスの口から直径二メートルを超える超高熱の紅蓮火炎――扇状大火炎が誤射された。
ドバババババババァァァッッ!!!
中心温度千五百度を超える業火が、演習場を昼間のように照らし出す。
直樹たちが必死に組み上げ、たった今「無傷で救助完了」したはずの模擬倒壊家屋が、コンマ二秒で跡形もなく炭化し、一陣の黒い灰となって虚空へ消し飛んだ。
「…………」
熱風が吹き抜けた後、演習場にはただ、赤黒く焼け爛れた地面と、煙を吐きながらアホ面で立ち尽くすイグニスだけが残されていた。
直樹の顔は煤で真っ黒になり、手にした木製バインダーの端からチョロチョロと小さな火が上がっている。
「…………あ」
イグニスが青ざめて、両手で自分の口元を塞いだ。
直樹の横で、マンミアの額に青筋がピキピキと音を立てて浮き上がる。
「……イ・グ・ニ・ス……?」
「ち、違うんだマンミア団長! これは生理現象というか、嬉しさのあまり火炎袋の弁が緩んじまったというか――」
「問答無用ォォォッ!!」
ズドォォォォンッ!
マンミアの刺突型大型シールド『アグニ』の炸薬パイルバンカーが火を噴き、鋼鉄の杭がイグニスの足元十センチの地面を粉々に破砕した。
「ぎゃあああああっ!? すいませんでしたぁぁぁッ!!」
「演習資材全焼! さらに村内火気厳禁令違反! 貴様の今月の手取りは、これより銀貨五十枚(五万円)に減額です!! 歯を食いしばりなさいッ!!」
「五万円!? 死んじまう! 俺様本当に雑草食って死んじまうよぉぉぉッ!!」
猛然と四肢を蹴って追いすがるケンタウロスの女騎士と、涙目で演習場を逃げ惑う巨躯の竜人。
その阿鼻叫喚を眺めながら、ニャングルが紫煙を吐き出し、パチパチと金算盤を弾いて冷酷に呟いた。
「演習資材の木材費、直樹はんのバインダー弁償代、ついでにワシの煙草の灰皿代……はい、追加で一万二千円の天引き確定や。毎度おおきに、筋肉トカゲ」
「あはは……直樹さん、お顔拭いて?」
キャルルが差し出してくれた人参ハンカチを受け取り、直樹は深いため息とともに顔を拭った。
「……先が思いやられますね」
力の使い方を覚えたと思ったら、今度は感情のコントロールと生理現象。
だが――直樹の唇の端には、微かな苦笑が浮かんでいた。
不器用で、手加減を知らず、すぐに調子に乗る問題児。それでも、あの巨岩をミリ単位で制御して見せたイグニスの筋力は本物だった。
正しい教育と訓練さえ積み重ねれば、彼は必ず、誰もが諦めるような絶望の瓦礫から命を救い出す「最強の盾」になれる。
「おい、イグニス! 逃げてないで戻ってこい!」
直樹はバインダーの火を足で踏み消し、演習場へ向かって凛とした声を張り上げた。
「灰の掃除が終わったら、もう一度最初からやり直しだ! 今日は壊さずに十回連続で成功するまで、昼飯抜きだからな!」
「ひぃぃぃっ!? 隊長さんまで鬼だぁぁぁッ!!」
秋晴れのポポロ村に、竜人の悲鳴と自警団の怒声がどこまでも響き渡っていった。
読んでいただきありがとうございます。
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