EP 3
「村長! その岩を蹴らないでください!」
「――っ、バカ野郎! 止まれぇぇぇぇぇッ!!」
直樹の肺腑を絞り出すような怒声が、土砂の崩れる重低音を真っ二つに引き裂いた。
崖から滑り落ちかけた乗用車大の巨岩に向け、凶悪なピンクの闘気を纏った安全靴を振り上げていた兎耳の少女――キャルルは、爪先が岩肌に触れる寸前、コマ送りのようにピタリと空中で静止した。
風圧だけで、周囲の小石が数十メートル先まで吹き飛んでいる。
キャルルは上げた右足を器用に地面へ下ろすと、純白の長い兎耳を「?」の形にしならせ、真紅の瞳を丸くして直樹を振り返った。
「えっ……な、なんで止めるの!? 今まさに落ちそうな巨岩を粉々に砕いて吹き飛ばそうとしたのに! 格好いい救出シーンの邪魔しないでよ!」
「邪魔どころか、お前が今やろうとしたのは救助じゃなくて虐殺だ!」
直樹は額から冷や汗を流しながら、膝に手をつくことも忘れて少女へ詰め寄った。
相手がどれほど圧倒的な力を持っていようと関係ない。消防救助隊員として現場の安全を脅かす行為を、直樹は見過ごすわけにはいかなかった。
「よく見ろ! その岩の下には、骨折して動けない老人と腰を抜かした女性がいるんだぞ! そんな至近距離で巨岩を粉砕したらどうなる!? 破片は弾丸のような散弾となって二人を蜂の巣にする! それだけじゃない、衝撃波で脆くなった斜面全体が一気に流動化して、崖下ごと谷底へ押し流されるんだ!!」
「あ……っ!」
キャルルはハッと息を呑み、崖下を見下ろした。
彼女の長い耳がピクピクと細かく振動する。直樹の全身から放たれる切迫した気迫、激しく打ち鳴らされる心音、そして血管を巡る血流のノイズ――そのすべてが「一片の嘘もない、崖下の人間を純粋に救おうとする真実の叫び」であることを、月兎族の卓越した聴覚が瞬時に看破していた。
「ホントだ……心臓がすっごく早く動いてるのに、嘘の濁りがまるでない……! ご、ごめんなさい! あたし、岩を消しちゃえば解決するって思ってて……!」
「分かればいい! 反省は後だ、今すぐ二人を助けるぞ!」
直樹は息を整え、眼下の状況へ意識を戻した。
老人の足元には、相変わらず「通行不能」を示す冷酷な赤色の枠が点滅している。
だが――直樹のすぐ隣に、常識外れの身体能力を持つ少女が加わった。
その瞬間、直樹の脳の奥底で、カチリと冷徹な歯車が再び噛み合った。
『状況変化を検知――再計算開始』
直樹の視界の明度が一段落ち、漆黒に近い背景の中に、これまで見たこともない太く鮮烈なエメラルドグリーンの光筋が奔流のように立ち上がった。
光の起点は、崖の上に立つキャルル。
彼女の足元から伸びた緑のラインは、崖の傾斜などまるで無視するように空中に弧を描き、崖下の老人と女性の眼前へと一直線に突き刺さっていた。
そして、二人の足元を囲んでいた絶望の赤い枠が、パッと鮮やかな緑色へ反転する。
(見える……! さっきまでは『老人が自力で歩くこと』を前提にしていたから道が塞がっていたんだ。だが、この兎耳の少女の脚力と運搬能力が加わったことで、スキルが『外部からの物理的救出ルート』として再計算したんだ!)
道は繋がった。
だが、猶予はゼロだ。頭上の巨岩は、もはや土台の土砂を完全に失い、摩擦力だけで辛うじて静止している状態だった。いつ滑り落ちてもおかしくない。
「君、名前は!?」
「キャルル! キャルル・ムーンハートだよ!」
「よし、キャルル! 私の指示をミリ単位で聞け! お前のその桁外れの跳躍力なら、二人を同時に運べるか!?」
「うん! 二人くらいなら抱きかかえて跳べる! でも、あの岩が落ちてきたら……」
「落ちてくる岩は、俺が誘導する!」
直樹は叫びながら、自身の足元にも伸びている一本の細い緑の光を確認した。
直樹自身の避難経路。そこには、巨岩の右側にある硬質な岩の突起がマーキングされていた。
「今からカウントを出す! 俺が『今だ』と言ったら、お前は崖下へ飛び降りろ! 着地点は老人の左側、土砂の浅い硬い岩盤の上だ! 着地と同時に右手で女性の腰を抱き、左手で骨折した老人の上半身を抱えろ! 老人の右足は絶対に引っ張るな、揺らすなよ!」
「わ、分かった! 揺らしちゃダメだね!」
「二人を抱えたら、上方へ飛ぶんじゃない! 崖下の岩棚の真下――あそこへ水平に低空で滑り込め! あそこなら、巨岩が頭上を通過して谷底へ落ちる!」
「了解っ!」
キャルルは深く腰を落とし、オーバーサイズのパーカーの裾を翻して闘気を溜めた。
ピコピコと動いていた兎耳が、ピンと水平に張られ、彼女の真紅の瞳が獲物を狙う猛獣のように研ぎ澄まされる。
ギギギギ……ッ!
嫌な金属音のような摩擦音が、直樹の鼓膜を刺した。
巨岩の土台が抜け、重力に引かれて沈み始める。
直樹は全身の筋肉を硬直させ、視界に走る緑のカウントダウンの光を凝視した。
三秒前。
二秒前。
一秒前。
巨岩が傾き、街道へ向かって自由落下を始めた瞬間――。
「跳べぇぇぇぇぇッ!!!」
ドォォォンッ!
キャルルが踏み切った足元の岩盤が破裂し、白い閃光が崖下へと一直線に突き刺さった。
落下の速度を遥かに上回る超人的な機動。
直樹の指示通り、老人の左側の硬い岩盤へ一切の砂煙を上げずに滑らかに着地したキャルルは、電光石火の早業で女性の細い腰を右腕で抱え込み、左腕を老人の背中に滑り込ませた。
老人が痛みに声を上げる暇すら与えない、完璧な重心移動。
「しっかり掴まっててねぇぇッ!!」
キャルルのタローマン特注安全靴が、泥土を捉えて爆発的な推進力を生み出す。
二人の人間を抱えながら、彼女は地を這う弾丸のように水平に突進した。
その直頭上――。
数トンの質量を持つ巨岩が、空気を圧縮する轟音とともに落下してきた。
直樹は崖の上から身を乗り出し、手近にあった太い流木を、巨岩の軌道上の窪みへと全力で投げ込んだ。
直樹の【避難経路】が示した、わずかな「作用点」。
投げ込まれた流木が巨岩の角に挟まり、パキンと砕け散る。だが、そのほんの数センチの引っかかりが、巨岩の落下角度をわずかに外側――谷底の方向へと逸らした。
ゴォォォォォォォッッ!!!
巨岩はキャルルたちの頭上わずか数メートルをかすめ、街道の土砂を激しく跳ね上げながら、オーバーハングの岩棚のさらに外側、底知れぬ谷底へと吸い込まれていった。
続いて、崖下で耳をつんざくような破壊音と、大地を揺るがす振動が響き渡る。
もうもうと立ち込める赤茶色の粉塵が、現場全体を包み込んだ。
「…………っ」
直樹は手すりのない崖の縁に膝をつき、粉塵の向こう側を凝視した。
静寂。
崩落の余韻が収まり、小石がパラパラと落ちる音だけが谷間に木霊している。
やがて、風が吹き抜け、晴れ渡った視界の先に――岩棚の奥深くで、倒れ込む商人たちを背に庇うように立ち、親指をグッと立てて見上げる兎耳の少女の姿があった。
「救助完了――! 全員、無事だよーっ!!」
その声を聞いた瞬間、直樹の視界を覆っていたエメラルドグリーンの光の帯が、役目を終えたようにサラサラと光の粒子となって青空へ溶けていった。
「……ふぅ……っ、よかった……」
直樹の全身から一気に力が抜け、その場にへたり込んだ。
シャツは冷や汗でぐっしょりと張り付き、両手は激しい集中力の反動で小刻みに震えている。
だが、その胸の奥を満たしていたのは、十二年間の消防士人生で幾度となく味わってきた、何物にも代えがたい「命を繋ぎ止めた」という熱い安堵だった。
*
崩落した街道から少し離れた、安全な平地。
救出された七人の行商人たちは、地面に腰を下ろし、互いの無事を確かめ合って涙を流していた。
骨折していた老人は、キャルルが胸ポケットから取り出した「月光薬」の小瓶から滴る雫を傷口に塗られると、まるで時間を巻き戻したかのように骨が整復され、腫れが引いていく奇跡に言葉を失っていた。
「あ、足が……治った……? 痛くない……歩けるぞ……!」
「あはは、無理しちゃダメだよ。骨はくっついたけど、筋肉はまだびっくりしてるからね」
キャルルは屈託のない笑みを浮かべ、老人の肩をぽんぽんと優しく叩いた。
そこへ、山道を歩いて下りてきた直樹が合流した。煤と泥に汚れた直樹の姿を見るなり、商人のリーダー格の男が立ち上がり、深々と頭を下げた。
「あ、貴方様のおかげです……! あの時、崖の上から的確に指示を出してくださらなければ、俺たちは全員パニックになって土砂に埋まっていました……! 本当に、本当にありがとうございました!」
「いえ……私は指示を出しただけです。実際に二人を抱えて走り抜けたのは、彼女の力ですから」
直樹は控えめに首を横に振った。助けた相手に恩を着せるのは、レスキュー隊員の流儀ではない。
すると、商人の男は懐から革の財布を取り出し、震える手で差し出してきた。
「せめて、お礼を受け取ってください! 手持ちの全財産です、どうか!」
「受け取れません。私は通りすがりの……ただの人間ですから。そのお金は、失われた積み荷の補填や、これからの旅の費用に使ってください」
直樹がきっぱりと辞退すると、男は呆然としながらも、再び涙をこぼして何度も礼を言い、仲間たちと共に復旧した裏道を通って街へと歩き去っていった。
それを見送った後、直樹はふぅと長い息を吐き出した。
「さて……これからどうするか」
異世界に放り出され、所持金はゼロ。行くアテもない。
途方に暮れかけた直樹の目の前に、スッと可愛らしい人参柄の刺繍が施されたハンカチが差し出された。
「はい、これ。お顔、泥だらけだよ」
「あ……すみません、ありがとうございます」
ハンカチを受け取って頬を拭う直樹を、キャルルはじっと真紅の瞳で見つめていた。
彼女の長い兎耳が、好奇心に満ちた様子でパタパタと揺れている。
「ねぇ、おじさん。さっきの指示、すっごく的確だったね! あたし、力はあるけど、あんな風に岩の落ちる角度を読んだり、誰から助けるかなんて考えたこともなかったよ」
「おじさん……まあ、三十四歳だから間違ってはいないが……。ただの経験ですよ。昔、そういう『人を助ける仕事』をしていたんです」
「ふぅん……人を助ける仕事、かぁ」
キャルルは腕を組んで、ふむふむと頷いた。
そして、自慢げに胸を張り、眩しいほどの笑顔を直樹に向けた。
「あたしね、この先の森を抜けたところにある『ポポロ村』で、第43代の村長をやってるんだ! キャルル・ムーンハートって言います!」
「……は? そん……村長!?」
直樹は思わず二度見した。
オーバーサイズのパーカーにショートパンツ、足元にはゴツい安全靴。どう見ても二十歳前後の、元気すぎるストリート系の少女だ。村長という単語から連想される「白髭を生やした好々爺」のイメージとは、銀河の果てほどかけ離れている。
「うん、村長! いろいろあって担ぎ上げられちゃってさー」
キャルルはあっけらかんと笑い、直樹の手をぐいっと引っ張った。
「行くアテがないなら、あたしたちの村においでよ! お腹空いてるでしょ? タローソンの美味しいおにぎり、ご馳走してあげるからさ!」
有無を言わさぬ怪力に引かれ、直樹は引きずられるように歩き出した。
こうして、戦闘力ゼロの元消防士と、最強の力を持つ兎耳の村長との、奇妙な巡り合わせの幕が上がったのだった。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




