EP 10
「人命救助は商売になるのか?」
白樺の長机の上に、朝日を浴びた三枚の羊皮紙が扇状に広げられていた。
相澤直樹は、冷めきったぬるい陽薬茶に口をつけ、乾いた喉を潤した。一睡もせずに考え抜いた思考の熱が、まだ頭蓋の奥で鈍くくすぶっている。
机を挟んだ向かい側では、黒茶の猫耳を気だるげに寝かせたニャングルが、仕立ての良い高級和装スーツの襟元を緩め、真鍮のキセルから細く紫煙を吐き出していた。その手元では、純金メッキの魔導金算盤『十露盤』が、朝露のような冷たい光を放っている。
「……直樹はん、昨晩アンタがぶち上げた『事前徴収型救援共済スキーム』の試算、ウチなりに叩き直してみたで」
ニャングルはキセルの吸い口で、一番左の羊皮紙をトンと叩いた。
「結論から言うたる。ゴルド商会傘下の定期キャラバン五十隊と、帝都冒険者ギルドの登録者三千人――こいつらから月額の掛け金を吸い上げる包括契約が結べれば、初期の装備導入費二百万円も、月五十万円の維持管理費も、半年で黒字化できる。数字の上では、完璧な優良投資案件や」
「……ですが、ニャングルさんの表情は晴れませんね」
「当たり前や。商売の帳簿は綺麗でも、現場の現実はドロドロやからな」
ニャングルは眉間に深いシワを寄せ、二枚目の羊皮紙を引き寄せた。そこには、赤インクで無慈悲な『×』印が幾重にも書き殴られていた。
「ええか、直樹はん。このビジネスモデルの根幹は『金を払って契約した顧客にのみ、迅速な救命サービスを提供する』という会員制のセーフティネットや。……なら聞くが、契約を結んでへん奴が目の前で崖から落ちたら、アンタはどうするんや?」
「それは……」
「身ぐるみ剥がされた難民、その日暮らしの開拓農民、掛け金すら払えん最底辺の駆け出し冒険者――そういう『支払い能力ゼロの無産階級』が瓦礫に埋まった時、アンタは会員証の提示を求めて『未加入やから見捨てます』と背中を向けられるんか?」
冷徹な問いが、部屋の空気を凍りつかせた。
直樹の胸が、鉛を呑み込んだように重くなる。日本の消防士時代、通信指令室でも現場でも「保険に入っているか」「税金を滞納していないか」などという理由で出動を拒否したことなど、一度たりともなかった。命の危機にある者は、誰であれ等しく救助の対象だった。
だが、ここは国営の消防組織が存在しない異世界だ。
「見捨てられるわけ、ないよ……!」
沈黙を破ったのは、部屋の隅の丸椅子から身を乗り出したキャルルだった。
純白の長い兎耳を悲しげにしならせ、透き通った真紅の瞳で二人を見つめている。手には、手縫いの人参柄刺繍ハンカチが強く握りしめられていた。
「お金がある人しか助けないなんて、そんなの救助隊じゃないよ! 苦しんでる人がいたら手を伸ばす、それが当たり前じゃないの!?」
「感情論で飯が食えるかアホ村長!」
ニャングルが机をドンと叩き、容赦なく怒声を浴びせた。
「未契約者を情けで一回タダ助けしてみぃ! 『あそこはタダで助けてくれる』と噂が広まって、誰も毎月の共済費なんか払わんようになるわ! 正直に金を払っとる契約者はバカを見え、救助隊はタダ働きで装備を擦り減らし、最後は資材が尽きて共倒れや! 資本主義のルールを舐めとったらアカンぞ!」
「だ、だったら……村の予算から出せばいいじゃない! ポポロ村の公金で、困ってる人たちの分を――」
「村長、それは絶対に不可能です」
部屋の入り口に立っていた自警団長マンミアが、四肢の蹄を重々しく踏み鳴らして割って入った。
左腕の巨大刺突盾『アグニ』を壁に預け、琥珀色の瞳に苦渋の色を滲ませている。
「キャルル村長、お気持ちは痛いほど分かります。ですが、ポポロ村の財政は、前村長ロップが公金を持って愛人と高飛びした際の負債を、今なおニャングルの銀行から融資を受けて返済している途上なのです。村民たちが汗水垂らして納めた貴重な税金を、村外の未契約者の救済に無制限に流用すれば、村の防衛費もインフラ維持も即座に破綻します」
「う……っ、うぅ……」
キャルルは言葉に詰まり、唇を噛み締めて俯いた。
村長としての責任と、目の前の命を救いたいという純粋な善意。二つの正義が激しく衝突し、少女の小さな肩が悔しさに震えている。
「……人命救助は、商売になるのか」
直樹はぽつりと呟いた。
かつての世界でも、救急車の有料化や山岳遭難の捜索費用負担を巡って、常に議論が巻き起こっていた。
すべてを市場原理に任せれば、貧者は見捨てられ、命に格差が生まれる。
かといって、すべてを無償奉仕に頼れば、善意ある者が過労死し、組織は持続できずに崩壊する。
(ビジネスか、ボランティアか……その二者択一で考えるから、袋小路に迷い込むんだ)
直樹の脳裏に、前世で学んだ社会福祉の構造――『自助・共助・公助』の三層モデルが鮮明に浮かび上がった。
公権力による完全な『公助』が存在しないこのアナステシア世界において、民間の力だけで持続可能なセーフティネットを編み上げるには、どうすればいいか。
「……ニャングルさん、キャルル村長。救助隊の財布を、完全に二つに分けましょう」
直樹の静かな、だが確信に満ちた声に、準備室の全員の視線が集まった。
「財布を、二つに……?」
「ええ。『契約事業会計』と、『緊急救命基金』の完全分離です」
直樹は白樺の机の中央に指を走らせ、境界線を引くように二つの枠を描いた。
「まず一つ目は、ニャングルさんが設計してくれた【契約事業】です。商会や冒険者ギルドと包括契約を結び、月々の共済掛金や安全巡回費をきっちり徴収する。これは純然たるビジネスとして、営利企業の論理で徹底的に黒字化を目指します。契約者に対しては最優先で高規格の救助と護衛を提供し、『金を払う価値がある』と納得させる」
「そこまではええ。問題は、その先やろ。未契約の貧乏人はどうするんや」
「そこで二つ目の枠――【緊急救命基金】を立ち上げるんです」
直樹は二枚目の羊皮紙に、大きく円を描いた。
「契約事業で得た『純利益の十五パーセント』を、自動的にこの基金へ積み立てるルールにします。さらに、ゴルド商会や三大国の富裕層、貴族たちから『慈善寄付金』を募るんです」
「寄付やと? 直樹はん、あんたら偽善者の貴族や強欲商人が、見返りもなしに寄付金を出すと思うとるんか? 世間を知らなさすぎるわ」
ニャングルが鼻を鳴らすが、直樹は薄く笑って首を横に振った。
「見返りはありますよ。……『社会的信用』と『宣伝枠』です」
「……なんやて?」
「例えば、基金に金貨百枚を寄付してくれた大商会には、救助隊の詰所や出動車両、隊員の装備に『公式スポンサー』として商会の紋章を掲出する権利を与える。さらに、救助活動の記録や広報を村外へ発信する際、『〇〇商会の支援により救出されました』と大々的に公表するんです」
直樹は、前世の大手企業がこぞって災害支援や赤十字へ寄付を行い、企業イメージ(CSR)を向上させていた実例を思い浮かべていた。
「商売人にとって、民衆からの『人命救助を支援する高潔な大商会』というブランドイメージは、莫大な広告価値を持ちます。さらにニャングルさん、あなたの腕で、ポポロ村や提携自治体における『寄付金分の商業税控除』の特例措置を取り付けることはできませんか?」
キィィィィン……。
ニャングルの瞳の奥で、冷徹な計算の光が閃光のように走った。
「……税額控除と、大陸全土への高潔ブランドの宣伝権やと……?」
「ええ。寄付した金が税金から引かれ、おまけに商会の好感度が跳ね上がって本業の売り上げが伸びるなら、あの強欲な商人連中だって喜んで基金に金を放り込みますよ」
「直樹はん……アンタ……!」
ジャギィィィィンッッ!!
ニャングルの手の中で、金算盤の珠が一斉に跳ね上がった。
指先が残像を刻みながら、凄まじいスピードで試算を組み立てていく。
「いける……! 帝都の本店で燻っとる大手の輸送ギルドや、イメージアップを狙っとる成金貴族どもにこの『人命救助スポンサーシップ』を売り込めば、年間で金貨三百枚(約三千万円)の寄付プール金が集まる……! 村の公金には一銭も手をつけず、救助隊の黒字分と外部資本だけで、完全独立の『無償救護枠』が作れるやないか!!」
ニャングルの興奮した声が部屋に響き渡る。
直樹は頷き、キャルルに向き直った。
「キャルル村長。この基金があれば、支払い能力のない要救助者が出ても、現場で救助を躊躇う必要はありません。救助にかかった実費――包帯代や薬品代、隊員への危険手当は、すべてこの『緊急救命基金』から救助隊へ補填されます。助けられた側には『命が助かった後、生活が落ち着いたら、次の誰かのために基金へ少額でも寄付してほしい』と伝えるだけでいいんです」
「……誰かが誰かを助けて、その優しさがまた次の人を助ける……」
キャルルの瞳から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
彼女は手縫いの人参ハンカチで乱暴に目元を拭い、満面の、太陽のような笑顔を咲かせた。
「うん……! それなら誰も見捨てなくていいし、村のみんなにも迷惑がかからない! 直樹さん、やっぱり凄いよ! あたし、そういう救助隊が作りたかったんだ!」
感極まったキャルルが席を蹴って飛びつきそうになり、直樹は慌てて両手を挙げて後ずさった。怪力村長に抱きつかれれば、生身の肋骨などひとたまりもない。
横で見ていたマンミアも、感銘を受けたように胸元の胸当てに右手を当てた。
「見事な統理です、直樹殿。理想を叫ぶだけでなく、冷徹な制度設計によって善意を現実のものとする……。これならば自警団としても、村民に対して一点の曇りもなく救助隊の正当性を説明できます」
「……ふぅ。参ったな、ホンマに」
ニャングルはキセルの灰をトントンと火皿から落とし、呆れたように、だが心底愉快そうに口角を吊り上げた。
「元公務員のオッサンが、資本主義のバグを突いて慈善と営利を両立させよったわ。……よし、基本方針はこれで決定や! 『契約事業』でガッツリ稼ぎ、『緊急基金』で弱者をすくい上げる! この二輪駆動で、大陸最強の救助ビジネスを立ち上げたるで!」
ニャングルが万年筆を走らせ、正式な基本規程の草案にサインを走らせた。
窓の外からは、演習場でイグニスが掛け声を上げながら土木作業に汗を流す声と、フェイトが長距離馬車の荷積みをブツブツ言いながら手伝う声が聞こえてくる。
問題児たちも、彼らなりに自分の役割を果たそうと動き出していた。
組織の骨格が整い、理念と資金の循環路が繋がった。
あとは――この組織の存在価値を、大陸中に知らしめるための「公的な実績」を打ち立てるだけだ。
その時だった。
バタンッッ!!
準備室の引き戸が、凄まじい勢いで叩き開けられた。
息を切らし、顔面を蒼白にした自警団の伝令兵が、敷居に足を取られながら転がり込んできた。
「ほ、報告ッ! 緊急事態です!!」
「落ち着きなさい! 何事ですか!」
マンミアが一喝する。
伝令兵は震える手で一枚の緊急通信紙を差し出した。
「隣接する黒鉄山脈の『ガンドール大鉱山』にて……大規模な落盤事故が発生しました! 地下四番坑道が完全に崩落! 現場には――鉱夫二十三名が、地下深くに閉じ込められています!!」
室内の空気が、瞬時に凍りついた。
二十三名。地下深奥での落盤。
これまでの小規模な土砂崩れや魔物襲撃とは次元の違う、極限の密室災害。
「……二十三名……」
直樹の瞳に、消防救助隊員としての冷徹な光が宿った。
机の上の羊皮紙を素早く丸めて救助バッグへ押し込み、迷いなく立ち上がる。
「臨時救助班、緊急出動! 装備を点検し、直ちに現場へ急行します!!」
産声を上げたばかりの救助隊に、最初の巨大な試練の幕が切って落とされた。
読んでいただきありがとうございます。
面白いと思っていただけましたら、★評価やブックマークで応援していただけると励みになります。




