383話 趣味の範囲?
1650年代、日本では新領土の開発が本格化していた。
新大陸では広大な牧草地が整備され、羊やアルパカ、山羊などの家畜が大規模に飼育されるようになっていた。
さらに、南嶺大陸では毛皮獣の人口繁殖が進み、計画的な飼育と品種改良によって、高品質な毛皮を安定して生産できる体制が整いつつあった。
畜産技術。
養殖技術。
鞣し(なめし)の技術。
染色技術。
それらの発展によって、日本国内にも世界最高品質と呼ばれる羊毛や毛皮が少しずつ流通し始める。
しかし、葵は、それだけでは満足できなかった。
映画会社の創業者として成功を収めた彼女には、既に十分すぎるほどの個人資産があった。
だからこそ、利益ではなく研究のためだけに資金を使うことができた。
彼女は迷うことなく船へ乗り込み、自ら新大陸へ向かう。
目的はただ一つ。
世界中の最高品質の毛皮と繊維素材を自分の目で確かめること。
誰かから資料を取り寄せるだけでは足りない。
産地へ赴き、実際に触れ、実際に加工し、素材の違いを自分自身で理解する。
それが葵の研究方法だった。
旅は数か月にも及んだ。
羊毛の産地では、刈り取る季節によって毛質がどう変化するのかを調べる。
毛皮の加工場では、職人の隣に座り、鞣し方一つで柔らかさや耐久性がどう変わるのかを学ぶ。
織物工房では、糸の撚り方や織り方の違いによる肌触りを何度も確かめた。
時には自ら道具を持ち、職人たちと同じように革を裁ち、針を持って縫い合わせることもあった。
「知識だけでは作品は作れない。」
「素材を知らなければ、本当に良い服は作れない。」
それが彼女の信念だった。
最初は、誰かに見せるつもりなどなかった。
誰かに売るつもりもない。
ただ、自分自身が本当に着たい服を作る。
気に入れば着る。
気に入らなければ作り直す。
その繰り返しだった。
しかし研究を積み重ねるにつれ、彼女の技術は飛躍的に向上していく。
素材の選定。
裁断。
縫製。
耐久性。
通気性。
保温性。
軽量化。
そして美しさ。
一着完成させるたびに改良点を書き留め、次の作品へ反映する。
映画制作で行っていた研究手法を、そのまま服飾にも応用していたのである。
完成した作品は、もはや趣味の域を大きく超えていた。
ある日、完成したコートを眺めながら、葵はふと考えた。
「自分一人で着ているだけでは、本当に良い服なのか分からない。」
研究には客観的な評価が必要である。
映画と同じだった。
そこで彼女は、日本へ持ち帰った作品を、葵映像株式会社で働く社員たちへ試作品として渡すようになった。
もちろん条件があった。
「遠慮なく欠点を教えてください。」
「良かったところより、悪かったところを知りたいんです。」
社員たちは驚きながらも、日常生活の中で実際に服を着続けた。
撮影現場。
編集室。
事務所。
出張。
様々な環境で試着が行われる。
数週間後、社員たちから感想が集まり始めた。
「軽くて一日中着ていても疲れません。」
「暖かいのに蒸れないですね。」
「肩が動かしやすいので仕事が楽です。」
「雨の日でも革が硬くなりません。」
「このポケット、あと少し深い方が使いやすいです。」
「袖口がもう少し狭ければ風が入らなくて良いかもしれません。」
良い評価も。
厳しい評価も。
すべて葵は丁寧に記録していく。
社員たちの声は、映画の観客アンケートと同じだった。
作品を作るのは作者。
しかし完成させるのは、実際に使う人々である。
映画制作と同じように、彼女は利用者一人ひとりの声を研究材料とし、より優れた作品を生み出すための糧としていったのである。




