374話 おかえり地球
月を離れてから数日。
帰還船は何度も軌道を微調整しながら、静かに青い惑星へ近づいていた。
操縦席前方の窓には、日に日に大きくなる地球が映っている。
最初は遠くに見えた青い光は、今では視界いっぱいに広がる巨大な球体となっていた。
白い雲がゆっくりと渦を描き、深い青色の海が太陽光を反射する。
大陸の輪郭もはっきりと見え始め、宇宙の黒い背景の中で、地球だけが生命の色をまとって輝いていた。
六日間を月で過ごした彼らにとって、その青い星は、これまで以上に美しく、そして何よりも「故郷」として感じられた。
長谷川が静かにつぶやく。
「やっぱり、地球は青いな。」
「月から見た時よりも、ずっと大きく見える。」
橘は操縦席で計器を確認しながら答えた。
「帰ってきたんだ。」
「もうすぐだ。」
操縦用モニターには帰還の表示が並ぶ。
姿勢制御 正常
軌道誤差 許容範囲内
耐熱シールド 正常
パラシュート展開装置 待機
着水位置予測 開始
橘は一つ一つ確認していく。
「再突入まで、残り十分。」
船内には再び静かな緊張が漂った。
最後の試練が待っている。
三人はチェックリストを手に取り、最終確認を始めた。
「生命維持装置、正常。」
「姿勢制御スラスター、正常。」
「電源系統、異常なし。」
「航法コンピューター、正常。」
一項目ずつ、声を掛け合いながら確認が進む。
窓の向こうでは、青い地球がゆっくりと大きさを増していく。
その姿を見つめながら、三人はこれから訪れる灼熱の再突入を思い、期待と緊張を胸に抱いていた。
再突入前。
帰還船は不要となった月着陸船との分離作業に入った。
モニターには、ドッキングされた着陸船の状態が映し出されている。
固定ボルト。
電源ケーブル。
それぞれの切り離し手順が画面へ表示された。
進藤が読み上げる。
「切り離し、開始。」
「外部電源、切断。」
「固定ボルト、安全解除。」
長谷川が最後のモニターを見つめる。
そこには、六日前に月へ降り立った着陸船の姿が映っていた。
月面へ向かう時も。
月から飛び立つ時も。
常に彼らを支えてきた船だった。
進藤。
「切り離しカウント。」
「3」
「2」
「1」
「切り離し。」
ガコン。
小さな衝撃が船体を伝わる。
固定装置が解除され、着陸船はゆっくりと帰還船から離れていった。
姿勢制御スラスターが短く噴射し、安全距離まで静かに後退する。
モニターの中で、着陸船は少しずつ小さくなっていく。
長谷川が笑った。
「ありがとう、相棒。」
進藤も画面から目を離さない。
「本当に最後まで頑張ってくれた。」
橘も敬礼するように軽く額へ手を添えた。
数十秒後。
着陸船は地球へ向かう軌道から外れ、大気圏上層へ突入した。
船体の先端から赤い光が生まれる。
やがて炎が全身を包み込み、尾を引きながら夜空を流れていった。
構造材が高熱で崩れ、細かな破片となって燃え広がる。
静かな別れだった。
それは、人類初の月面着陸を支え抜いた船が、最後の使命を終える瞬間だった。
やがて炎は小さくなり、光も完全に消えた。
モニターには、何も映らなくなった。
大気圏再突入
帰還船は姿勢をゆっくりと変更し、耐熱シールドを進行方向へ向ける。
橘が姿勢制御装置を確認する。
「再突入姿勢、固定。」
羽合管制から通信が届く。
『こちら羽合管制。再突入角度、正常範囲。飛行経路、確認。そのまま突入せよ。』
橘は短く応答した。
「了解。」
「再突入を開始する。」
船内では全員が座席へ深く身体を預け、ハーネスをもう一度締め直す。
地球が目前まで迫る。
帰還船は大気圏上層へ突入した。
その瞬間船首前方に眩い光が走った。
空気との猛烈な摩擦によって、機体前面が一瞬でプラズマに包まれる。
窓の外は真っ赤に染まり、流れる炎が滝のように船体を覆った。
ゴォォォォォォォォ
轟音は船内まで低く響き、激しい振動が全身へ伝わる。
耐熱シールド表面温度。
1000℃。
1800℃。
2500℃。
3000℃。
計器の数字は急激に上昇していく。
帰還船は炎の中を突き進み続けた。
強烈な減速Gが三人を座席へ押し付ける。
腕一本動かすだけでも重い。
呼吸にも力が必要だった。
通信アンテナはプラズマに包まれ、地球との通信は完全に途絶える。
船内では警告音だけが静かに鳴り続ける。
ピッ。
ピッ。
長谷川は歯を食いしばりながらモニターを見る。
「耐熱シールド正常。」
橘は前だけを見つめ続けた。
「このまま耐えろ。」
数分にも感じられる長い時間が過ぎる。
やがて振動が少しずつ弱まり始めた。
真っ赤だった窓の外へ、青空が戻ってくる。
白い雲。
そして青い空。
帰還船は炎の壁を突き抜け、ついに地球の空へ帰ってきた。
その瞬間。
通信機からノイズ混じりの声が聞こえる。
『こちら羽合管制。通信回復を確認。』
橘は笑った。
「こちら帰還船月読命。」
「通信回復。」
羽合管制の声もどこか安堵していた。
『お帰りなさい。姿勢安定を確認。パラシュート展開高度まで残り10km。』




