373話 月よさらば
ドッキング完了後、両機の固定状態が確認される。
管制コンピューターが自動で気密検査を開始し、ドッキングトンネル内へゆっくりと空気が送り込まれた。
「トンネル内気圧、上昇開始。」
圧力計の数値が少しずつ上がっていく。
橘は計器を見つめながら静かに頷いた。
「気密保持、良好。」
長谷川も別系統の計器を確認する。
「漏洩なし。」
「酸素濃度正常。」
「ドッキング部のシール、完全。」
さらに数分後。
「気圧、目標値到達。」
その報告を受けると、橘はゆっくりと立ち上がった。
「ハッチを開く。」
ロック解除レバーをゆっくり回す。
カチッ。
ガチャン。
帰還船との間のハッチが、開いた。
帰還船の内部は、着陸船よりも一回り広く設計されていた。
白い壁面には収納棚が並び、天井の照明が船内を照らしている。
月面モジュールとはまた違う安心感があった。
帰還船は三人の帰還を待つように、準備を整えていた。
橘は言う。
「まずは荷物だ。サンプルを最優先で移送する。」
三人はすぐに作業へ取り掛かった。
研究サンプルの移送
最初に運び出されたのは、六日間で採取した貴重な研究資料だった。
収納ラックから耐衝撃ケースを慎重に取り出し、一つずつ帰還船へ運んでいく。
最初のケース。
月面土壌サンプル。
着陸地点や広域探査地点、ボーリング地点など、採取場所ごとに細かく分類されている。
進藤はバーコードを確認しながら収納する。
「土壌サンプル、固定完了。」
続いて、岩石コアサンプル。
5メートルボーリングで採取した柱状試料である。
一本一本が真空保存容器へ収められ、温度管理ケースへ固定された。
長谷川。
「コアサンプル異常なし。」
「固定完了。」
さらに、月面塵の帯電データ。
太陽風観測データ。
放射線観測ログ。
地震計記録。
温度変化データ。
通信ビーコンの観測記録。
六日間分のデータが、耐衝撃ケースへ収められていく。
橘は慎重にメモリーケースを手渡した。
「映像記録。」
ケースの中には、
人類初の月面着陸映像
基地建設映像
ボーリング映像
月面探査映像
観測装置設置映像
六日間すべての活動記録が保存されていた。
進藤は思わず言う。
「これは人類の歴史そのものだ。」
環境データの移送
続いて運ばれたのは、住居モジュール内部で蓄積された環境記録だった。
生活モジュールの温度変化
湿度推移
酸素消費量
二酸化炭素除去装置の運転記録
水再生装置の稼働状況
電力使用量
太陽光発電効率
バッテリー放電量
すべてが将来の月面基地建設には欠かせない資料である。
最後に運び込まれたのは、三人が着用していた宇宙服だった。
宇宙服の外装には、月面塵がわずかに付着している。
この付着物も重要な研究対象だった。
すべての積み込みが終わる頃には、貨物室は貴重な資料で満たされていた。
貨物室の確認を終えると、橘はもう一度着陸船へ戻った。
狭い船内。
操縦席。
六日前、月面へ向かうために座った席。
そして先ほどまで三人を月から運び上げてきた操縦系統。
橘は操縦席へ近づき、モニターへそっと手を置いた。
「ありがとう。」
「ここまで来られたのは君のおかげだ。」
長谷川も笑みを浮かべる。
「最後まで故障一つ無かったな。」
進藤。
「本当に優秀な船だった。」
三人は静かに船内を見渡した。
この着陸船は、人類初の月面着陸。
人類初の六日間滞在。
そのすべてを支えた機体だった。
最後に全員が船外へ出る。
橘がハッチを閉める。
ガチャン。
ロックが掛かり、着陸船はその役目を終えた。
帰還船はゆっくりと月周回軌道を進み、月の裏側へ回り込んでいく。
窓の外では、灰色の月面が次第に見えなくなり、黒い宇宙だけが広がった。
船内では、地球帰還軌道投入(TEI)の準備が始まる。
地球との通信が入る。
羽合地上局。
『こちら羽合。地球帰還を開始せよ。』
橘は送信ボタンを押した。
「こちら帰還船。了解。エンジン出力正常。地球帰還噴射を開始します。」
三人は座席へ戻り、ハーネスを締め直した。
「噴射開始。」
主エンジンが点火される。
ゴォォォ……
低い振動が船体全体へ伝わった。
モニターの数値がゆっくりと変化していく。
数分後。
長谷川がはっきりと言った。
「地球帰還軌道へ移行成功。」
船内には安堵の空気が流れた。
窓の外では、月がゆっくりと後方へ遠ざかっていく。
宇宙の彼方で青白く輝く一つの星が、少しずつ、確実に大きくなり始めていた。
それは彼らが帰る場所。
地球だった。




